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連座

 罪を消してほしければ、直せ。


 ずいぶん便利な取引だった。


 俺が断れば、王都の人間が凍え、湯を失い、灯りを失う。引き受ければ、オズワルドは俺を救ってやった恩人の顔ができる。


 どちらを選んでも、彼の手は汚れない。汚れるのは俺の手か、何も知らずに暮らしている人々の生活だ。


 王立写本局長という椅子には、座った人間の背骨を柔らかくする術式でも刻まれているらしい。権力に合わせて、実によく曲がる。


「先に枷を外してください」


 リゼが言った。


 静かな声だったが、獣化した右手の爪が机の端へ食い込んでいる。古い木が、みしりと小さく悲鳴を上げた。濡れた髪と黒い毛から、地下水と煤、それに獣の汗の匂いがした。


 ここまで俺を運び、守り、地下を駆け抜けた匂いだ。香水よりよほど信用できる。


 オズワルドは椅子へ深く座り直した。


「罪人の拘束を解く理由がない」


「直せと命じたのはそちらだ」


「両手は使える」


 使える、という言葉の意味を、彼は俺とは違う辞書で覚えたらしい。


 手首は鉄の輪で擦れ、右手は焼けて腫れている。鎖は短く、左右の手を拳二つぶん以上離せない。指を曲げるだけで皮膚の下が脈打ち、鈍い痛みが肘まで這い上がった。確かに、飾りとしてなら両手とも立派に使えた。


「ノエル」


 祖父が大判の原本を見た。


 骨の筆になった右腕が、かすかに震えている。顔色もよくない。それでも、その目だけは写本机へ向かう職人のものだった。


「十二時間という表示は、すべての生活術式が同時に止まるまでだ。全系統の停止時刻は同じだ」


「どれくらいだ」


「読め」


 祖父は元写本係らしい励まし方をする。重病人へ薬草の名だけ教えて、あとは山で探してこいと言うようなものだ。せめて生えている方角くらい教えてほしい。


 俺は机へ近づいた。


 原本から、焦げた紙と古い薬品の臭いが立ち上っている。触れてもいないのに指先が痺れる気がした。魔力のある者なら、流れの強さを感じ取れたのかもしれない。俺にわかるのは、文字と、文字が押しつけてくる意味だけだ。


 原本の上では、王都の街路に似た文字列が幾重にも枝分かれしていた。灯り、給水、保温、排水、昇降、換気、消毒。暮らしを支える小さな術式が、太い幹から無数に伸びている。


 治療所で毛布にくるまる病人も、共同炊事場で鍋を洗う者も、地下の排水路で働く者も、自分の生活がこの一枚の傷んだ紙にぶら下がっているとは思わないだろう。


 知らなくていい。仕組みを知らない者まで安心して使えるから、生活を支える術式なのだ。


 どれも古代の原文そのものではない。


 原文を親として作られた子文だ。さらに、その子文から写された孫文がある。千年のあいだ、意味を知らない人間が形だけを写し、足りない箇所を似た文字で埋めてきた。


 家系図なら、親戚が増えすぎて誰が誰だかわからなくなった頃合いである。しかも一人が風邪を引けば、一族全員で棺に入ろうとしている。


 枝の先に浮かぶ数字を追う。読み間違えれば、全系統が止まる時刻を見誤る。目の奥へ針を差し込まれるような痛みをこらえ、俺は声にした。


「十二時間後、北側治療所の保温と給水が止まる」


 俺が言うと、室内の職員が息を呑んだ。


「同時に中央貯水槽の給水も止まる。西区画の排水も同じだ。王都の生活術式が一斉に停止する」


 壁際の職員が無意識に窓の外を見た。窓の向こうには届かなくても、臭いと混乱が広がる様子くらいは想像できたのだろう。


「だから直せと言っている!」


 オズワルドが机を叩いた。


 その振動で原本の端が崩れ、灰になった文字が二つ落ちた。職員たちの顔色が、オズワルドより先に白くなる。


「叩けば直る器具もあるが、これは違う。あなたが局長になった頃から、その区別まで写本局では教えなくなったのか?」


「口を慎め。おまえが日々の補修記録を残さず追放されたせいで――」


「残した」


 俺は黒く崩れた余白を指した。


「ここに。毎日」


 余白には、本来なら細い補助線が並んでいた。どの子文の、どの語が、どれだけ原文からずれたか。魔力のない俺は術式を動かせない。炎一つ、水滴一つ、作れない。


 だから動いている術式の文字へ触れ、一語ずつ直し、再発する誤りを余白へ記録していた。誰にも褒められず、正式な仕事とすら認められなかった記録だ。それでも、次に机へ座る者が困らないように残した。


 その補助線が、刃物で削り取られている。


 削り跡の上から、局長印入りの黒い塗料が重ねられていた。隠したつもりなのだろうが、紙の傷までは消えていない。人間の罪も同じなら、裁判官はずいぶん楽ができる。


 祖父が低く尋ねた。


「これは何だ」


 オズワルドは答えなかった。


 代わりに、部屋の隅にいた職員が口を開いた。


「局長命令で、消しました」


 声が震えていた。両手はきつく組まれ、指の節が白くなっている。


「ノエルが追放された翌日です。無資格者による不正な書き込みだから、正式な原本を清浄化せよと……」


 清浄化。


 便利な言葉だ。失敗を消すとき、役人はいつも掃除の名前を使う。床の染みなら水で落ちるが、削った記録と失った時間は戻らない。


「黙れ!」


 オズワルドが怒鳴った。


 職員は肩を跳ねさせたが、もう口にした証言は原本の文字より消しにくい。


 ピピが俺の襟元から顔を出し、鼻らしき部分を押さえた。文字でできた小さな体が、黒い塗料を嫌がるように波打つ。


「くしゅん。黒いところ、腐ったインクの味がするのら」


「舐めるなよ」


「舐める前に言ってほしかったのら」


 遅かったらしい。妙なものを口に入れる癖については、俺も人のことを言えない。俺の場合は、だいたい毒か呪いだった。


 俺は原本の中心へ顔を寄せた。


 補修記録を失った親文は、子文のずれを故障と判断した。問題は、そのあとの命令だ。


『一つの子文に原文との差異を検知した場合、すべての子文を連座させ、停止せよ』


 連座。


 一つが壊れれば、関係するすべてを止める。


 本来は、古代の術式が危険な命令を勝手に増やさないための安全策だったのだろう。だが千年ぶんの誤写を抱えた王都では、咳をした一人を見つけて街じゅうの首を絞めるような命令になっている。


 直すべき場所は見えた。


 だが、一語を誤れば被害の形が変わるだけだ。停止を解除すれば、壊れた枝まで暴走する。連座の対象だけ狭めれば、親文が新たな差異として検知する。喉の奥が乾き、焼けた右手から汗が滲んだ。


「一つだけ書き換える」


 俺は言った。


「ただし、条件がある」


 オズワルドの目が細くなる。


「罪の取り消しか」


「違う。罪を取引に使うな」


 俺は枷を机の上へ置いた。鉄と木がぶつかり、重い音がした。


「俺は王都の人間を助ける。あなたのためじゃない。助けたあとで、令状が正しいか、原本を削った命令が正しいか、証人の前で一つずつ調べる」


「罪人が条件を――」


 リゼの爪が、枷を繋ぐ鎖へ触れた。


 金属が甲高く鳴る。彼女は力を込めてすらいない。ただ、込めればどうなるかを示しただけだ。


「次にその言葉を続けたら、条件ではなく鎖の長さが変わる」


 騎士らしい説得だった。少なくとも、意味は誰にでも読める。古代語より親切で、注釈も必要ない。


 オズワルドは唇を噛み、机の引き出しから補修用の赤インクを出した。


 俺は首を振る。


「それでは駄目だ。原本に弾かれる」


 既存の命令へ割り込むには、親文が自分の一部だと認める媒体が要る。普通の補修液では表面を滑り、最悪の場合は文字をさらに崩す。


 祖父が黙って骨の右腕を差し出した。


 筆先から、黒い血墨が一滴だけ滲む。


「使え」


「戻ったばかりだぞ」


「一滴で済ませろ。年寄りは血まで大事に使う」


 冗談めかしているが、声は細い。俺は言い返す代わりに、その腕を支えた。骨は冷たく、かすかに震えていた。


 俺は左の人差し指で、その一滴を受けた。


 原本へ触れる。


 魔力はない。


 何も生み出せない。


 それでも、すでに書かれ、いまも王都じゅうへ命令を送り続けている文字なら、意味を読める。読めれば、間違っている場所を選べる。


 選んだ一語を、別の一語へ直せる。


 それだけだ。


 それだけしかないから、外すわけにはいかない。


 俺は『連座』の上へ、血墨で書いた。


『隔離』


 原本が脈打った。


 机から床、床から壁へ青白い線が走る。光が足元を抜けた瞬間、枷まで震えた。写本局じゅうで、止まりかけていた搬送路が低い音を立てた。廊下の灯りが一つ、二つ、三つと安定していく。


 原本の上では、黒く染まった枝だけが幹から切り離されていた。


 壊れた術式は止まる。


 まだ動ける術式は、巻き添えにしない。


「北側治療所、保温継続!」


 職員が壁の表示を読み上げた。


「中央貯水槽も稼働を維持! 排水は西区画のみ停止します!」


 部屋の外から声が重なった。歓声というより、長く止めていた息が一斉に漏れた音だった。誰かが壁にもたれ、別の誰かは顔を両手で覆った。


 十二時間後の全停止は消えた。


 もっとも、壊れている枝まで直ったわけではない。そこはこれから一本ずつ修理する必要がある。誤字は仕事を残すことにかけて、役人より勤勉だ。


 俺は原本から指を離した。血墨は乾き、指先には黒い輪郭だけが残っている。


「これで王都を人質にはできない」


 オズワルドは椅子に座ったまま、青ざめていた。


 原本を削った命令も、職員の証言も、祖父とリゼが聞いている。俺の罪を消すどころか、自分の罪を隠す紙が足りるか心配したほうがいい。


 だが、原本の震えは止まらなかった。


 安堵しかけた室内で、紙の奥から別の鼓動が響く。先ほどまでの不規則な揺れではない。一定の間隔で、こちらへ存在を知らせるような震えだった。


「ノエル、下だ」


 祖父が言った。


 隔離された黒い枝の下から、別の文が浮かび上がっていた。


 生活術式の命令ではない。


 停止を開始させた照合記録だった。


 発令時刻は、俺が写本局の正門を通った瞬間。


 偶然で片づけるには正確すぎた。原本は壊れたのではなく、決められた時を待ち、決められた命令を実行した。


 発令条件は一つ。


『後継筆ノエル・アルクムの拘束完了を確認後、王都生活術式の一斉停止を開始せよ』


 喉の奥が冷えた。


 故障ではなかった。


 王都は、俺が捕まるのを待ってから止まり始めたのだ。


(第82話へ続く)

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