壊れる前に書かれた罪
俺が一歩出ると、十二本の杖がいっせいにこちらを向いた。
朝露を含んだ石畳の上で、杖先の術式光が青白く揺れる。ひどく眩しい。地下の暗がりに慣れた目には、歓迎の花束よりずっと刺激的だった。
魔力のない人間へ十二本。
王立写本局は俺をずいぶん高く評価してくれるようになったらしい。追放された頃なら、杖どころか箒一本でも足りると思われていたはずだ。
「ノエル・アルクム。抵抗するな」
先頭の男が令状を読み上げた。
革手袋に包まれた手は震えていない。だが、額には季節に似合わない汗が浮いている。彼らも地下から何が出てくるのか、正確には知らされていなかったのだろう。
その声に重なるように、背後で低いうなりが響く。
リゼだ。
濡れた黒髪の間から獣耳が立ち、指先では爪が伸びている。白い獣たちも身を低くした。百十二人を守るように並ぶ姿は頼もしいが、今ここで飛びかかれば、令状に書かれた『王権簒奪未遂』が急に説得力を持ってしまう。
「リゼ、下がれ」
「断る」
「俺一人なら簒奪未遂だ。騎士団長代理まで暴れたら、簒奪の規模が大きくなる」
「おまえを拘束させる気はない」
「後ろを見ろ」
彼女の耳がわずかに伏せられた。
坂路には、歩くだけで精いっぱいの人々がいる。地下で何年も、あるいは何十年も死者として埋められていた百十二人だ。武器を持つ者はいない。立っていられず、白い獣の背へ横たわる者さえいる。
朝の冷気に触れたせいか、何人も肩を震わせていた。太陽を見上げたまま涙を流す者もいる。泣く力すら残っていない者は、ただ眩しそうに目を細めていた。
「騎士として守る相手を選べ」
「おまえも守る相手だ」
「なら、百十三人まとめて守れ。まずは百十二人を剣の前から動かす」
卑怯な言い方だった。
リゼが弱い者を見捨てられないと知っていて、その良心を盾にした。俺には魔力がない代わりに、親しい相手を言葉で困らせる才能だけはあるらしい。ますます立派な罪人である。
リゼは俺の肩を掴んだ。爪が服を貫く寸前で止まる。
「今度は、勝手に残るな」
「残らない。連れていかれるだけだ」
「言葉をすり替えるな」
「本職なんだ」
彼女は怒りと獣臭の混じった息を吐き、ようやく一歩下がった。
俺は令状へ左手を差し出した。
「見せろ」
「罪人が命令するな」
「なら質問だ。俺が何を壊した?」
「建国術式だ」
「どの系統を、いつ、どうやって?」
男の口が止まる。
十二本の杖はまだ俺を狙っている。喉が乾いた。勇敢だから立っているわけではない。逃げても背中を撃たれるなら、正面を向いていたほうが死に顔を選べるだけだ。
「王冠、王墓、鐘、城門、水熱路。俺は五系統の停止に立ち会った。だが俺には魔力がない。術式を撃つことも、停止させることもできない。できるのは、露出した文字へ触れて一語を直すことだけだ。そこまで調べて令状を書いたんだろう?」
「黙れ」
「調べていないなら、ずいぶん筆の速い捜査だ」
俺は令状の下端を指した。
「発給時刻を読め」
男の視線が落ちる。
そこには王立写本局の定型で、日付と時刻が記されていた。
水熱路が停止する三刻前。
俺たちが王墓の百十二人を見つけるより前だ。
「この令状は、建国術式が止まる前に作られている」
後列の男たちがざわめいた。
杖先の光が一つ、動揺したように揺れた。術式は使い手の心まで隠してくれない。便利なのか不便なのかは、今だけなら便利なほうだ。
「壊す前に、俺が壊したと決まっていた。王立写本局には未来を読む部署でもできたのか?」
先頭の男が令状を握りつぶしかける。
「発給時刻の誤記だ」
「写本局が公文書の時刻を間違えたのか。懐かしいな。俺がいた頃から何も変わっていない」
ピピが俺の肩から顔を出した。輪郭はまだ薄く、ところどころ文字が欠けかけている。
「間違えたら直すのら」
「そうだな。ただし、これは間違いじゃない」
俺は令状の署名を見た。
オズワルド・ケイン。
癖の強い払いも、最後だけ大きく跳ねる筆跡も覚えている。部下の手柄には自分の署名を足し、自分の失敗には部下の名を添える男の字だ。
「予定だったんだ。五系統が停止し、地下で何が起きても、俺のせいにする予定だった」
「推測で局長を侮辱するな!」
「では、証拠を確認しろ」
俺は横へ退いた。
朝の光が坂路へ差し込み、百十二人の姿を照らす。
「王墓から救出した人々だ。全員、生きている。術式には死者として登録され、石棚へ閉じ込められていた」
武装した男たちの顔から、命令を受けた者の硬さが少しずつ剥がれていく。
死者が一人歩いてくるだけでも怖い。百十二人となれば、恐怖より先に命令のほうを疑いたくなるらしい。
列の中から、小さな子供が進み出た。痩せた足が震え、三歩目でよろめく。リゼが支えようとしたが、子供は首を振った。
自分の足で俺の隣まで来る。
「この人が、扉を開けてくれた」
かすれた声だった。
「墓は、僕を死んだことにした。でも僕は生きてる」
細い指が俺の袖を掴んでいる。強く握ったつもりなのだろうが、布がわずかに引かれるだけだった。それでも、十二本の杖より重く感じた。
先頭の男は何も答えなかった。
「この子も拘束するか?」
「命令は、ノエル・アルクムの拘束だけだ」
「なら道を開けろ。百十二人には治療と食事が必要だ。事情聴取はその後にしろ」
「罪人が指図を――」
「俺だけが対象なんだろう」
俺は両腕を前へ出した。
「拘束には応じる。その代わり、この人たちを通せ。令状にない者へ杖を向けるなら、ここにいる全員が証人になる」
沈黙が落ちた。
やがて男が片手を上げる。
「杖を下ろせ。道を開けろ」
十二本の杖が下がった。
白い獣たちが先に進み、負傷者を背へ乗せたまま武装列の間を通っていく。続いて老人が、女が、子供たちが朝の街へ出た。
一人、二人、十人。
誰も止められない。
通り過ぎる人々の何人かが俺へ頭を下げた。礼を返そうとしたが、今は胸を張って見送ることしかできない。英雄らしい振る舞いではない。両手を差し出して捕まる準備をしているだけだ。
百十二人目が扉を越えたとき、祖父が俺の前で足を止めた。
骨の筆となった右腕を隠そうともせず、写本局の印を見回す。
「私も同行する」
「拘束命令はノエル・アルクムだけだ」
「私はアデル・アルクム。王立写本局が十五年間、王都の補筆に使用した初代代替筆だ。事情を聞きたくないなら、それでも構わんがな」
今度こそ、全員の顔色が変わった。
王立写本局にとって、祖父は人間ではなく備品のはずだった。その備品が歩き、喋り、しかも自分が何をされたか説明できる。
公文書というものは口を利かないから便利なのだ。証拠が自分の足で出頭してくる事態は、規則に書き忘れていたらしい。
「じいさんは百十二人と行け」
「断る。親族への返却を選んだ。返却先から離れる理由がない」
「似なくていいところばかり似ているのら」
ピピが呆れたように言った。
俺の手首へ鉄の枷がはめられる。右手の火傷に触れ、痛みが肘まで走った。冷たい鉄の感触に遅れて、傷口が脈を打つ。顔をしかめると、リゼの爪がまた伸びた。
「治ってから殴るんじゃなかったのか」
「予定を早めるか迷っている」
「写本局まで我慢しろ」
「私も行く」
「百十二人は?」
「白い獣たちが治療所まで運ぶ。私は騎士団長代理として、拘束手続きに立ち会う」
彼女は俺の隣へ並んだ。肩が触れ、濡れた毛と汗の匂いがした。
「今度は一人にしない」
俺は頷いた。
写本局までの道では、王都のあちこちから人が出てきた。
地下から現れた百十二人を見る者。白い獣を恐れて戸を閉める者。祖父の骨の腕に息を呑む者。そして、枷をはめられた俺へ罵声を浴びせる者もいれば、黙って頭を下げる者もいた。
石畳を引きずる鎖の音が、やけに大きい。知った顔と目が合うたび、その相手が逸らすのか、頭を下げるのかを待つ自分がいた。人間が小さい。枷より先に、その事実が手首へ食い込む。
英雄と罪人の違いは、だいたい誰が先に見出しを書いたかで決まる。
王立写本局の建物へ入ると、懐かしいインクと埃の匂いがした。
ただし、以前とは違うものもある。
廊下の灯り石が明滅していた。文書搬送路は途中で止まり、紙束が床へ散乱している。保温術式の切れた部屋では、職員たちが外套を着たまま震えていた。
職員の一人が俺を見て、露骨に目を逸らした。その机の脇では、灯りを保つ文字列の末尾が黒く滲んでいる。追放した人間に見つけられるには、少し恥ずかしい綴りだった。
俺が追放される前、毎日こっそり直していた綴りだ。
一つの誤りは小さい。放っておけば次の文を狂わせ、その文が別の術式へ写され、やがて建物じゅうへ広がる。
誤字は寂しがり屋だ。必ず仲間を増やす。
最上階の局長室へ通される。
階段を上がるほど、焦げた紙の匂いが濃くなった。枷をはめた手では手すりも掴みにくい。リゼが背へ手を添えたが、支えているようには見えない程度の力加減だった。騎士の気遣いは、俺の強がりより一枚上手である。
扉が開いた。
机の向こうに、オズワルド・ケインがいた。
以前より頬がこけ、指には黒いインクが染みついている。机の上には、修正待ちの術式原本が山のように積まれていた。
その中央で、王都全域の術式路を示す大判の原本が、端から黒く崩れ始めている。崩れた箇所から細かな灰が舞い、机上へ雪のように積もっていた。
オズワルドは俺の枷を見ても驚かなかった。
代わりに、崩れる原本を叩いた。
「ノエル。罪を消してほしければ、これを直せ」
命令する声だった。だが、原本を叩いた指だけが、かすかに震えている。
俺は露出した文字列を読んだ。
一行読むごとに、喉の奥が冷えていった。絡み合う系統は多すぎて、一語の修正先を選び損ねれば別の箇所が落ちる。魔力のない俺には、崩壊を力ずくで押し戻すこともできない。
読んで、選び、ただ一語を書き換える。
いつもどおり、それしかない。
残された猶予は、十二時間。
五系統ではない。
王都に残るすべての生活術式が、同時に停止しようとしていた。
(第81話へ続く)




