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深層冷却井

 石壁の中で、王都じゅうの湯が牙を剥いた。


 最初に割れたのは、俺の頭上を走る細い管だった。


 甲高い破裂音。白い蒸気が噴き出し、天井の石を濡らす。遅れて落ちてきた雫が肩へ触れ、布越しに皮膚を焼いた。


「熱っ!」


「下がれ!」


 リゼが俺の襟を掴み、後ろへ放り投げる。


 先ほどは床へ投げられ、今度は壁から遠ざけるために投げられた。救助されるたび扱いが雑になる。命の価値が下がったのか、信頼が深まったのかは判断に困るところだ。


 尻から着地した俺の目の前で、壁に刻まれた青白い文字が明滅する。


『水熱路、停止まで残り五十七呼吸』


 数字が一つ減るたび、胸の内側まで冷たくなる。周囲は釜の中のように熱いのに、器用なものだ。


 蒸気は一本だけではなかった。坂路の左右で亀裂が走り、細い白煙が次々と噴き出している。石壁の向こうでは大量の水が唸り、管を内側から殴りつけていた。


 百十二人が身を寄せ合った。墓から出たばかりの者たちだ。長く奪われていた体力が、扉を抜けただけで戻るはずもない。子供を抱いた女は座り込み、老人は咳をするたび膝を折った。濡れた布を口元へ当てる者もいるが、その布すらすぐに生温かくなっていく。


 ここで走らせれば、熱より先に人が倒れる。


「獣たちを壁際へ!」


 リゼの声に、白い獣たちが動いた。大きな体で人々を囲み、蒸気が噴くたび背中で遮る。白い毛が濡れ、獣臭と熱い石の臭いが混じった。


 無臭の英雄など物語の中にしかいない。実際に命を救うものは、濡れた毛と汗と焦げ臭さをまとっている。


「長くはもたないぞ」


「分かっている」


 リゼ自身も獣化した腕を盾にしていた。黒い毛の先が蒸気で縮れ、焦げた臭いが鼻につく。それでも彼女は腕を引かない。背後で怯える子供へ一度だけ振り返り、「目を閉じていろ」と低く告げた。


 俺は壁の補助文へ左手を当てた。古代語の線が、掌の下で熱を帯びて脈打つ。


『水熱路停止時、地下へ蓄積した熱を王都全域へ放出する』


 読めば読むほど、立派に最悪だった。


 水熱路は王都の地下水を温め、浴場や厨房、冬の暖房へ配る仕組みだ。普段なら暮らしを支える温かな血管だが、停止すれば流れが止まり、地下に残った熱だけが行き場を失う。それを一度に王都全域へ流せば、蛇口も井戸も排水溝も、すべて蒸気の口になる。


 湯を沸かしていた鍋が弾け、洗い場の床が噴き上がり、眠っている者の寝台の下から熱が襲う。剣を持っていても、鎧を着ていても防げない。


 地上に何人いるかは知らない。


 だが少なくとも、百十二人より多い。


「『放出』を『保持』に変えるか」


 俺が言うと、祖父は即座に首を振った。


「管が破裂する。ここだけでは済まん」


「『熱』を『水』に」


「沸騰した水が出るだけだ。言葉を柔らかくしても、皮膚は柔らかく煮える」


「では『王都』を『教会』に」


「気持ちは分かるが、校正ではなく報復だ」


 祖父にたしなめられた。


 十九歳の孫が人として踏み外しかけたとき、止めてくれる祖父がいる。十五年ぶんのありがたみを、今ひとつ実感できない状況だった。できれば茶でも飲みながら味わいたかった。今は茶を淹れようと蛇口をひねれば、顔の皮が剥がれかねない。


『残り四十六呼吸』


 ピピが壁を這い回った。薄くなった輪郭から、小さな文字が一つずつこぼれる。落ちた文字は床へ触れる前にほどけ、黒い塵となった。


「この先、冷たい風があるのら!」


「どこだ」


「下なのら。でも道が閉じてるのら!」


 ピピの指した先には、黒い石灰に覆われた円形の蓋があった。床と同じ色に汚れ、知らなければただの石模様にしか見えない。祖父が膝をつき、骨の右腕で表面をこする。ざらざらと白い粉が剥がれ、その下から三つの行き先が現れた。


『生活水路』


『王都配水路』


『深層冷却井』


 最後の文字だけが、焼け跡で半分隠れている。煤の縁は不自然なほど真っ直ぐで、偶然の火ではなかった。


「冷却井は生きているのか?」


「十五年前までは使われていた」


 祖父が答えた。


「停止時の熱を、地下深くの岩盤へ逃がすための穴だ。だが補筆命令が始まった日から、行き先が王都全域へ固定された」


「原文が自分で安全装置を外したのか」


「違う」


 祖父は焼けた部分を骨の指先でなぞった。硬い骨と石が擦れ、乾いた音を立てる。


「外されたから、原文が残った語で補った」


 焼いた者がいる。


 井戸も、石碑も、リゼの呪いもそうだった。時を経て壊れたのではない。壊された空白を、古代の命令が間違った言葉で埋め続けている。


 国は巨大な術式だ。


 そして巨大なくせに、空欄を見ると適当な語を入れる。写本局なら三日で追い出される仕事ぶりである。俺は一日で追い出されたので、国より少しだけ優秀だ。喜んでいいのかは知らない。


「蓋を開けられるか!」


 リゼが円形の石蓋へ爪を差し込んだ。


 白い獣が二頭、その左右へ体を押しつける。爪が石を削り、火花が散った。石が軋んだが、蓋は動かない。人ひとりなら簡単に投げる腕でも、古代の命令に縫いつけられた石は持ち上がらなかった。


 祖父が側面の文字を読んだ。


「水熱路が動いている間は固定される」


「止まった後では遅いぞ」


「固定の命令は別だ。ここなら先に変えられる」


 俺はしゃがみ込んだ。焼けた右手はまだ指が曲がらない。左手で石灰を拭い、蓋の縁に刻まれた一語を探す。


『閉じよ』


 これを『開け』へ変えればいい。


 簡単な一語だ。


 ただし、その文字は蓋と床の隙間にあり、俺の指一本しか入らない。しかも石は熱を持ち始めていた。皮膚を近づけるだけで、乾いた熱が爪の奥へ刺さる。


「私がやる」


 祖父が骨の右腕を差し出した。


 骨の先は筆になったままだ。血墨も戻っている。俺より速く、正確に書けるだろう。この狭さなら、肉の指よりもずっと役に立つ。


 だからこそ、使わせるわけにはいかなかった。


「じいさんは人だ」


「今は筆のほうが便利だ」


「便利だから使う、を十五年続けた結果がその腕だろ」


 俺は祖父の胸を左手で押し返した。骨の腕ではなく、目を見る。


「返却された初日に、また道具へ戻るな」


 祖父は何か言いかけ、口を閉じた。困ったように眉尻を下げる。その顔は記憶より老いていたが、俺が余計な意地を張ったときの表情だけは昔のままだった。


 代わりに、俺の左手へ小さな黒い塊を載せる。乾きかけた血墨だった。


「なら、孫に貸すだけだ」


「四壺ぶん請求されそうだな」


「それはピピとの約束だろう」


「忘れてなかったのら!」


 ピピが元気よく割り込んだ。輪郭は薄いくせに、借金の話だけは聞き逃さない。金銭への執着が命をつないでいるなら、俺も見習うべきかもしれない。


『残り二十八呼吸』


 俺は床へ腹ばいになり、左手を蓋の隙間へ入れた。


 熱い。


 指先が石へ触れた瞬間、皮膚の焼ける痛みが走った。反射で腕を引きそうになり、歯を食いしばる。右手の痛みと合流し、どちらがどちらか分からなくなる。両手で平等に苦しめば、不公平感だけはない。


 それでも、文字は読めた。


 俺には魔力がない。水を操ることも、石を砕くことも、傷を癒やすこともできない。


 読んで、一語を書き換える。それだけだ。


 血墨を押しつけ、『閉じよ』の一語を『開け』へ書き換える。


 石蓋が跳ねた。


「引け!」


 リゼと獣たちが一斉に身を起こす。円形の蓋が半分までずれ、下から冷たい風が噴き上がった。熱に曇っていた視界が一瞬で澄み、汗が肌の上で冷える。人々の間から、驚きとも安堵ともつかない声が漏れた。


 だが、三呼吸後。


 文字が元へ戻り、蓋が閉まり始める。


 リゼが両腕で支えた。黒い爪が石へ食い込み、牙の間から呻きが漏れる。肩の筋肉が盛り上がり、足元の石に亀裂が走った。


「ノエル、次だ!」


 補助文の行き先を変えなければならない。


 俺は壁へ駆け寄った。右手は使えず、左の指先も焼けている。祖父の血墨を塗り、行き先を示す一語へ触れた。


『王都全域』


 古代語では、広がる街を一つの器として扱う一語だった。家も、道も、そこで眠る者も、命令にとっては同じ器の中身にすぎない。


 その語を削り、すぐ下に残っていた語を写す。


『深層冷却井』


 これは新しい術式ではない。


 俺にそんなものは撃てないし、作れない。


 ただ、間違った行き先を、もともと用意されていた行き先へ戻しただけだ。


『残り十二呼吸』


 壁の奥で轟音がした。


 熱湯が冷却井へ流れ込み、足元が大きく揺れる。開いた穴から白い蒸気が柱となって立ち上がった。冷たい風と熱気がぶつかり、髪も服も激しくはためく。


 書き換えた文字が震える。


 三呼吸で戻る。


 俺はもう一度書いた。


『残り八呼吸』


 戻る。


 もう一度。


 左手の感覚が消えた。血墨が自分の血と混ざる。線が歪み、祖父の左手が俺の手首を支えた。温かな、生きた手だった。


「一人で書く必要はない」


「二人で書いたら給金も半分だぞ」


「おまえは昔から、金の話をすると線が真っ直ぐになる」


 確かに真っ直ぐになった。実に情けない家訓である。


『残り三呼吸』


 深層冷却井。


 最後の一画を書き切る。


『二』


 リゼが石蓋を支え、獣たちがその背を支える。その向こうで、母親が子供の頭を胸へ抱き込んだ。


『一』


 百十二人が息を止めた。


『第五系統、停止』


 青白い光が消えた。


 直後、地下へ落ちる水音が地鳴りへ変わった。


 壁の中を走っていた熱が、俺たちの足元を通り過ぎ、さらに深くへ沈んでいく。轟音は遠ざかり、蒸気の柱は次第に細くなり、やがて冷たい水滴へ変わった。


 誰かが泣いた。


 誰かが笑った。


 濡れた床へ額をつける者もいた。白い獣の毛へしがみつき、何度も礼を言う老人もいる。獣は困ったように鼻を鳴らした。


 俺は壁へ背を預け、その場に座り込んだ。五つの系統はすべて止まった。王冠も、王墓も、鐘も、城門も、水熱路も、もう人を材料として動かない。


 両手は痛み、服は濡れ、尻もまだ痛い。偉業を成し遂げた姿としては、ずいぶん締まらなかった。


 祖父が隣へ座る。


「終わったな」


「地下の分はな」


 石蓋の上では、リゼが白い獣にもたれて息を整えていた。濡れた黒い毛から獣臭と焦げ臭さが漂う。俺と目が合うと、今度こそ拳を握る。


「約束を断った分だ」


「負傷者への暴力は騎士らしくない」


「安心しろ。治ってから殴る」


 執行猶予を得た。


 百十二人を連れ、俺たちは冷えた坂路を上った。


 足取りは遅い。倒れそうな者を獣たちが背へ乗せ、リゼが肩を貸し、俺は片手の使えない祖父の左側を歩いた。ピピは俺の肩に座り、こぼれそうになる文字を両手で押さえている。


 長い坂の先に、細い光が見えた。


 最上部の扉を祖父の骨の腕とリゼの爪でこじ開ける。錆びた蝶番が悲鳴を上げ、外気が流れ込み、朝の匂いがした。


 湿った土と、煤と、遠くの炊煙。生きている街の匂いだった。


 だが、差し込んだ光を塞ぐように、武装した男たちが並んでいた。


 胸には王立写本局の印。抜き身の剣と杖が、弱り切った人々へ向けられている。先頭の男が広げた令状には、オズワルド・ケインの署名がある。


『建国術式破壊および王権簒奪未遂の罪により、ノエル・アルクムを拘束する』


 なるほど。王都を蒸し焼きにせずに済ませた直後、俺は王都を奪おうとした罪人になったらしい。


 写本局の文章は相変わらず、事実より筆の勢いを大切にしている。


 背後には、歩くことも難しい百十二人がいる。


 隣には、右腕を筆にされた祖父がいる。


 リゼの爪が伸びるより先に、俺は彼女の前へ一歩出た。


(第80話へ続く)

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