閉ざされた城門
黒鉄の鎖が、俺の両腕へ食い込んだ。
『第四系統、停止』
壁を走っていた青白い光が、端から食われるように消える。
同時に、上層への扉が獣の顎のように閉じ始めた。石同士が擦れ合う低い振動が足裏から這い上がり、天井の砂がぱらぱらと髪へ降る。
「行け!」
俺が鎖へ体重をかけると、鉄輪が軋み、扉は人ひとりぶんの隙間を残して止まった。
扉の向こうへ出た百十二人が坂路を上っていく。歩ける者が歩けない者を背負い、大人が子供を抱え、白い獣たちがその両脇を支える。裸足が石を打つ音、荒い息、押し殺した泣き声。十五年ぶんの恐怖が、一つの細い坂路を必死に遠ざかっていた。
「押すな! 前が転べば全員止まる!」
祖父の声が人波をまとめる。自分だって骨の右腕を晒したままなのに、昔から他人を叱るときだけは病人らしさが消える。
城門という名前のわりに、ここで守っているのは城ではない。十五年も墓の中へ押し込められていた人たちの、ようやく始まる明日だ。
外へ出たからといって、失った年月が戻るわけではない。陽光に目を慣らし、食べ物を探し、知らない町で自分の居場所を作らなければならない。それでも、明日を苦労できるのは生きている者の特権だ。
写本係の腕二本と釣り合うかと聞かれれば、ずいぶん高価な明日である。俺の腕は魔法も撃てず、字を書く以外には皿を落とすくらいしか特技がないので、値札の付け方には疑問が残るが。
「扉際、あと三十!」
リゼの声が坂路から響いた。
鎖が一段沈んだ。
鉄輪が左腕の皮膚を裂く。ぬるい血が肘へ伝い、袖の内側へ染み込んだ。焼けた右手は、痛みを伝える仕事だけ妙に熱心だった。握る力が抜けるたび、扉が指一本ぶん閉じる。
「二十一!」
「数えるならもっと景気のいい数字にしろ!」
「では、おまえの借金を数える!」
「扉を閉めたくなってきた!」
怒鳴り返すと、胸の奥へ少しだけ空気が入った。笑った者がいたのか、坂路で短い息が弾む。こんなときの冗談に価値があるとすれば、恐怖が息をする隙を一瞬だけ奪えることだろう。
坂路の途中で、祖父がこちらを振り返った。骨の右腕には、さっき返ったばかりの血墨が黒く脈打っている。その隣では、痩せた子供が祖父の外套を握り締めていた。
「ノエル!」
「先へ行け! 水熱路を読めるのは俺だけじゃない!」
「だが、おまえを引き上げられるのは――」
「じいさんの左手は一本しかないだろ!」
その一本で、子供の手を握っている。
祖父の目が俺と子供のあいだを揺れた。やがて歯を食いしばり、再び坂路を上り始める。
正しい判断だった。
正しい判断というものは、たいてい腹が立つ。間違って戻ってきてくれれば怒鳴れるのに、正しく去られると、残された側は納得するしかない。
「残り九人!」
鎖がまた滑った。
俺の膝が床につく。扉の下端が石床を削り、甲高い音を立てた。隙間はもう、横向きにならなければ通れない。向こう側から吹き込む空気が細くなり、埃と獣の体臭、それに人々の汗の匂いが濃くなる。
最後尾にいた白い獣が、負傷した男を背で押し上げる。男の踵が扉際を離れた。続いてピピがこちらを覗こうとしたが、扉の動きが起こした風圧に煽られ、紙屑のようにこちらへ転がった。
「のらっ!」
俺の肩へぶつかり、そのまま鎖へしがみつく。
「何をしてる。行け」
「ノエルも行くのら!」
「俺が離したら扉が閉じる」
「ならピピが引くのら!」
手のひらほどの身体で、鉄輪に両腕を回す。細い脚を床へ踏ん張り、全身を後ろへ傾けた。
鎖は動かなかった。
代わりにピピの身体を作る文字が、ぷるぷる震えた。必死なのは分かるが、見た目だけなら寒さに震える落書きである。
「気持ちはありがたいが、インク四壺では足りないな」
「五壺にするのら!」
「急に頼もしくなった」
「一壺ぶん、すごく頑張るのら!」
俺は左肩でピピを押し、扉の隙間へ放り込んだ。
「のらあああ!」
向こう側でリゼが受け止める。獣化した爪が石を掻く音がした。
「全員、扉から離れた!」
その声を聞いて、俺は息を吐いた。
鎖から力を抜く。
「ノエル!」
扉が落ちた。
リゼの叫びも、獣たちの唸りも、石と石が噛み合う轟音に断ち切られた。衝撃が地下空間を揺らし、腹の底まで痺れさせる。
暗闇が戻る。
両腕へ巻きついていた鎖が勢いよく壁へ引き込まれ、俺の身体も床を滑った。背中が石の継ぎ目をいくつも越える。慌てて腕を抜こうとしたが、血で滑るはずの鉄輪はこういうときだけ律儀に肉へ食い込んでいる。
壁際の巻き取り口が迫る。
あそこへ両腕ごと入れば、次から写本は口で書くことになる。王立写本局なら、それでも筆を持たせかねない。人間を消耗品にする発想だけは古代から現代まで保存状態がいい。
俺は右足を壁へ突っ張った。
靴底が滑り、爪先から嫌な衝撃が返る。
止まらない。
鎖の表面に古代語が浮かんだ。
『保持者を門内に固定せよ』
門を開けていた者が逃げないための命令だった。
最後まで親切さの方向を間違えている。設計した者と話せるなら、まず椅子へ縛りつけて『安全』の意味を一晩かけて校正したい。
文字は鎖と一緒に巻き取り口へ流れていく。一語へ触れられるのは、あと数呼吸。
右手は握れない。指先も血と火傷で感覚が薄い。
左手には筆がない。
俺は鎖へ顔を寄せた。
噛んだ。
鉄と血の味が口いっぱいに広がる。歯の根まで振動し、吐き気が込み上げた。
浮かぶ『固定』の文字を前歯で削り、舌先へ付いた血を押しつける。校正者の仕事に歯形が必要だとは、写本局でも習わなかった。教本へ追記する機会があれば、絶対に後輩へ押しつけたい項目である。
削れるのは一語だけ。
『保持者を門内に固定せよ』
固定では駄目だ。
解放では、命令そのものが成立しない。消すことはできない。俺にできるのは、すでに存在する術式の一語を書き換えることだけだ。都合のいい奇跡も、壁を吹き飛ばす魔法も、品切れ以前に取り扱っていない。
なら、鎖が保持すべきものを変える。
俺は『保持者』の一語を削った。
血で書く。
『扉を門内に固定せよ』
文字が青白く弾けた。
鎖が止まる。
直後、巻き取る力が逆向きに働き、閉じた扉そのものを内側へ固定した。俺の両腕に巻かれていた輪が緩み、床へ重く落ちる。
自由になった腕は、自由になった途端に痛みを主張し始めた。所有権を返された痛覚というのは、もっと遠慮を覚えてほしい。
俺は仰向けに倒れた。
肺が埃っぽい空気を貪る。鼓動のたびに両腕が脈打ったが、指はまだ付いている。十本あるか数えたかったものの、暗くて見えないし、途中で数を間違える自信があった。
助かった。
ただし扉は閉じたままだ。
向こう側から何かを叩きつける音がする。厚い石扉が震え、細かな欠片が頬へ落ちた。
「ノエル! 返事をしろ!」
リゼの声は石越しでもよく通った。
「生きてる!」
「今、開ける!」
「待て、扉を壊したら固定が外れる!」
「では、どうやって出る!」
「今から考える!」
沈黙のあと、扉へ拳が叩きつけられた。
「出てから考えろ!」
「順序に無理がある!」
怒鳴り合えるなら、ひとまず無事だ。リゼの声には獣の唸りが混じり、石越しでも怒りと汗の匂いまで伝わってきそうだった。
俺は起き上がり、鎖の巻き取り口を調べた。指先で壁を探る。扉を開く文字は消えている。城門系統そのものが止まった以上、書き換える原文がない。存在しない文章は直せない。校正者とは、案外無力な職業である。
だが扉の脇には、鎖が引き込まれた細い溝が残っていた。人は通れない。ピピなら通れる。そう思った直後、溝の奥から小さな声がした。
「ノエル、そこにいるのら?」
「いる。どうやって入った」
「文字になって隙間へ染みたのら。ちょっと薄くなったのら」
鎖の脇から、ばらばらの古代文字がこぼれ落ちる。床でふらふらと寄り集まり、ピピの形へ戻った。いつもより輪郭が淡く、ところどころ石の色が透けている。
「無茶をするな」
「ノエルに言われたくないのら!」
反論できないので、俺は口を閉じた。正論は武器になる。特に、手のひらほどの相手が持つと避けにくい。
ピピは頬を膨らませながら鎖を調べ、巻き取り口の内側へ潜った。淡い文字の尻だけが見え、やがてそれも闇へ消える。
「奥に文字があるのら。『点検する者を通せ』なのら」
「それを先に言え」
「今見つけたのら!」
俺は鎖をどかし、露出した文字へ血の付いた左指を当てた。『点検する者』を『校正する者』へ書き換える。
低い作動音とともに、壁の一部が肩幅ほど奥へ沈んだ。黴と湿った石の匂いを吐き出し、細い点検路が現れる。
俺は這って進んだ。天井は背中すれすれで、身じろぎするたび服が石へ引っかかる。焼けた右手を石へつくたび、目の前が白くなった。歯を食いしばっても、喉の奥から情けない息が漏れる。
後ろからピピが襟を引いてくれるが、力としてはほぼ飾りだった。それでも一人で這うよりはましだった。飾りにも、暗闇で声を出してくれるという立派な用途がある。
「もう少しなのら!」
「その言葉、三回目だぞ」
「三回ぶん近づいたのら!」
やがて前方の格子が外側から引きちぎられた。金属の棒が飴細工のように曲がり、獣化した腕が伸びてくる。黒い爪の間には石粉が詰まり、腕には生温かな汗の匂いがあった。
俺が左手を出すと、リゼは手首を掴み、一息で俺を点検路から引きずり出した。
そのまま床へ投げられる。
「救助された人間への扱いか?」
「自分を置き去りにした人間への扱いだ」
彼女の獣耳は伏せられ、鼻先には汗と煤が付いている。牙を剥くほど怒っている。ひどく怒っているし、その奥で震えてもいた。俺の手首を離した指が、もう一度生存を確かめるように肩を強く掴む。
百十二人と、祖父と、白い獣たちが坂路の先で待っていた。肩で息をする者も、座り込む者もいる。それでも視線はすべて、俺とリゼへ向いていた。
誰も置いていかれていない。
これで本当に、百十二人と一人がこちら側へ揃った。
「次に同じことをしたら、鎖より先に私がおまえを縛る」
「善処する」
「約束しろ」
「それは無理だ」
リゼの拳が俺の頭へ落ちる前に、祖父が壁を見上げた。
青白い文字が、第五系統の名を刻んでいる。
『水熱路、停止まで残り六十三呼吸』
六十二。六十一。数字は容赦なく減っていく。
その下に、これまで隠れていた補助文が赤く浮かび上がった。壁の奥から低い振動が響き、足元を流れる水音が急に激しくなる。
祖父の顔から血の気が引く。
俺はその一文を読み、立ち上がった。疲労も痛みも、意味を理解した瞬間だけ遠のいた。
『水熱路停止時、地下へ蓄積した熱を王都全域へ放出する』
救い出した百十二人の頭上で、石壁の中の水が一斉に沸騰し始めた。
(第79話へ続く)




