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百十二人と一人

 百十二人を走らせる、というのは簡単だ。


 百十二人が全員走れるなら、だが。


 十五年も石棺に寝かされていた者たちの脚は、命令ひとつで騎士の脚にはならない。立てない者、目が見えない者、呼吸だけで胸を痛める者。子供を抱いたまま、自分も誰かに支えられている女もいる。


 石棺から解かれた身体は、どれもひどく軽かった。生きている人間の軽さではない。長く病床に伏した者を抱えたときの、骨ばかりが腕へ当たる軽さだ。


 その全員が、炎の近づく音を聞いていた。


 つまり、号令をかけた俺がいちばん現実を見ていなかった。


「走れる者は、走れない者を一人連れていけ! 持てない荷物は捨てろ!」


「持っている者などいない!」


 リゼの指摘が正しい。


「では俺の面目を捨てろ! 軽いぞ!」


「最初から持っていないのら!」


 ピピの追撃まで正しい。火事より先に心が焼けそうだった。


 それでも何人かが笑った。乾いた咳にしか聞こえない小さな笑いだったが、恐怖で固まっていた足が一歩動く。俺の面目にも、焚きつけくらいの用途はあったらしい。


 黒い油は壁際の溝を満たし、回廊の中央へ舌を伸ばしていた。鼻の奥へまとわりつく、甘く重い臭い。天井で散った火花が一滴落ちる。


 油の表面に、青白い火が走った。


 悲鳴が上がる。


「見るな! 前の背中だけ見ろ!」


 リゼが叫び、獣化した両腕で二人を抱え上げた。獣の耳が炎の音を拾い、尾が人の流れを押し戻さないよう横へ張られる。


 白い獣たちも動いた。


 一頭が伏せ、歩けない老人を背へ乗せる。別の一頭は子供の襟を噛んだ。子供が怯えて手足をばたつかせると、噛む力を緩め、今度は腹の下へ鼻を差し込んで持ち上げた。


「食われないの?」


「たぶん大丈夫だ!」


「たぶんなの?」


「俺よりは賢い!」


 慰めとしては最低だが、事実ではある。


 子供は泣きそうな顔で俺と白い獣を見比べ、獣の首へ両腕を回した。選ばれなかった側として少し傷ついたが、生存に関する判断としては満点だった。


 祖父は骨の右腕を胸へ抱き、左手だけで壁沿いの者を導いていた。足取りは危うい。それでも、石棺から出た者たちは祖父の声に従った。


「壁の切れ目を右だ。そこから校正室へ戻れる。床の銀線は踏むな」


「じいさんも先に行け!」


「十五年前にここへ連れてこられた。道なら、おまえより知っている」


「身体の使い方は十五年ぶん忘れてるだろ!」


「口の減らなさは父親そっくりだな」


 こんなときに父の話を出すのは卑怯である。俺は言葉に詰まり、その間に祖父は三人を先へ送った。


 話したいことも、問いただしたいことも山ほどある。けれど今は、その山を抱えて走れるほど俺たちの手は空いていない。まず生き延びる。家族らしい会話は、それから失敗すればいい。


 炎が床を横切った。


 退路まで十歩。


 その十歩の間へ、燃える油が流れ込む。熱に押され、先頭の男がよろめいた。後ろの者たちがぶつかり、人の列が折れかける。


「止まるな! 倒れた者は両脇から持て!」


 声を張るたび喉へ煤が絡んだ。誰かを励ます声と、誰かを急かして殺す声はよく似ている。だからせめて、最後尾にいる俺が先に安全な顔をするわけにはいかなかった。


 リゼが一人を白い獣へ預け、俺の襟首を掴んだ。


「何を読んでいる」


「原因だ」


「火なら見ればわかる」


「見てわかるものは、だいたい俺には直せない」


 壁には赤い文が巡っている。炎の色とは違う。石そのものの傷口から、古い血が光って滲んでいるようだった。


『鐘による停止警報、送信失敗』


『侵入者による校正と判定』


『記録保全処理を開始』


『下部校正室および王墓を焼却する』


 最後の命令を変えても、処理そのものが生きていれば別の焼き方を探す。油を水にしても、次は天井を落とすかもしれない。この国の術式は勤勉だ。間違った目的のためなら、俺の元上司よりよく働く。


 俺に炎を消す力はない。水を生むことも、熱を退けることもできない。できるのは、書かれた命令の中から一語だけ選び、その意味をずらすことだけだ。


 だから選び間違えれば、百十二人ぶんの死因に俺の筆跡が残る。


 直すなら、二行目だ。


「俺たちを侵入者だと決めた文へ行く」


「火の向こうだぞ」


「文字はいつも、一番触りたくない場所に出る」


「おまえに似たのではないか」


「文字に嫌われるほど何をした」


「読んだ」


 反論できなかった。文字というものは、読まれなければ好き勝手に人を殺せる。俺はよほど迷惑な相手だろう。


 リゼが俺の前へ立つ。


 両腕が獣のものへ変わり、銀の毛が炎を照り返した。焦げた油の臭いに、彼女自身の汗と革と鉄の匂いが混じる。生きて戦っている者の匂いだった。


 肩の毛先が、熱を受けてわずかに縮れている。平気な顔をしているが、呼吸は浅い。彼女もまた、無傷だから俺を運ぶのではない。傷を抱えたまま、今いちばん動ける者の役を引き受けているだけだ。


「道は私が作る。三呼吸で触れ」


「五呼吸は欲しい」


「三だ」


「負傷者への配慮は」


「私も負傷者だ」


 公平だった。


 リゼが石棺の蓋を蹴り上げた。


 厚い石板が床を滑り、燃える油を押し分ける。石と床が噛み合う轟音が腹へ響いた。炎が左右へ割れた瞬間、彼女は俺の胴を抱えて走った。


 一呼吸。


 熱が靴底を噛む。髪の先が焦げる臭いがした。俺のものか、リゼのものかを確かめている暇はない。


 二呼吸。


 焼けた右手が彼女の肩へぶつかり、視界が白くなる。痛みは遅れてこなかった。律儀に、その場で全力を出してきた。


 三呼吸。


 壁が目の前へ来た。


「届いたぞ!」


「下ろせ!」


 足が床につく前に左手を伸ばす。


 赤い文字は石の表面ではなく、その指一本ぶん奥を巡っている。触れるには、露出する瞬間を待たなければならない。


 古代語の列が脈打つたび、文字の輪郭が石から浮き、また沈む。早ければ爪が空を掻く。遅ければ次の巡りまで炎の中だ。書庫の机なら一晩でも待てるが、今の締め切りは俺の皮膚が焼け落ちるまでである。


 今だ。


 壁の継ぎ目から『侵入者』の文字が浮いた。


 俺は焼け残った血を親指で拭い、爪先で最初の一字を潰す。そして続く形へ線を足した。


 侵入者ではない。


 ここへ来て、誤りを読み、正す者。


『校正者による校正と判定』


 書き換えた文字が白く光る。


 一瞬、何も起きなかった。


 炎だけが石板の両側で高くなった。


「ノエル!」


「待て!」


「何を!」


「向こうが誤りを認めるまでだ!」


「おまえほど往生際が悪ければどうする!」


 それは困る。


 人の作った仕組みが人に似るなら、古代の連中にはもう少し素直であってほしかった。少なくとも俺よりは。


 赤い文字が激しく明滅した。


『侵入記録――不成立』


『校正権限を照合』


『第一校正者を確認』


『記録保全処理を中止』


 壁の奥で巨大な栓が抜けた。


 黒い油が一斉に逆流する。燃えたまま溝へ吸い込まれ、青白い炎が細い尾を引いた。最後の火が壁の穴へ消えると、蓋を叩きつける音が地下へ響いた。


 暗闇が戻った。


 炎の残像だけが目の奥で揺れ、誰かの咳と荒い息が闇を埋めた。焦げた石の熱気は残っている。それでも、追ってくる火の音はもうなかった。


 俺の膝も床へ戻った。


「四呼吸だ」


 肩で息をしながら言うと、リゼが俺の襟を掴み直した。


「説教はあとだ」


「褒めてもいいぞ」


「では、よく三呼吸を守らなかった」


「それは褒めてない」


 ピピが暗がりから飛んできて、俺の額へ体当たりした。


「生きてるのら!」


「確認方法が乱暴だ」


「燃えたらインク五壺がもらえないのら!」


「四壺に戻せ」


「命の値段は上がるのら!」


 商人として育てた覚えはない。そもそも育てたと言えるほど日数も経っていない。悪い成長だけが早すぎる。


 火が消えたとわかると、校正室側から小さな歓声が上がった。


 まだ喜ぶな、と言いかけてやめた。


 百十二人は石棺から出た。焼かれず、誰も墓へ戻らなかった。その程度の区切りくらい、声にしていい。


 俺たちは残った者を運んだ。


 祖父が最後まで人数を数え、俺が名の代わりに顔を確かめる。十二人目で一度、四十六人目で二度、八十九人目で三度数え直した。百を超えたあたりから数字が敵に見えてきたが、百十二人すべてが校正室へ入った。


 運ぶ側も、運ばれる側も、ほとんど歩けてはいなかった。肩を貸した者が次の瞬間には肩を借り、白い獣の背から下りた者が、その毛皮へ別の老人を押し上げる。立派な隊列ではない。崩れかけた人間同士が、互いを倒れないための壁にして進んだだけだ。


 それで十分だった。


 先ほど祖父へしがみついた子供もいる。白い獣の背に乗せられた老人も、弱いながら呼吸を続けている。


「全員だ」


 祖父が壁へ背を預けた。


「今度こそ、全員いる」


 その声は、さっきより少しだけ軽かった。


 俺は頷いた。


 十五年遅れの返却に、間に合ったという言葉は使えない。それでも、遅れたから無意味になるわけではない。書き損じた一行を直すのに、次の頁まで諦める必要はないのだ。


 壁の文字が青白く変わる。


『第四系統、停止まで残り十呼吸』


 城門。


 安堵は十呼吸ぶんすら許されなかった。古代の仕組みは、救われた者が息を整える時間まで記録してくれないらしい。


 校正室にいた者たちを上へ逃がすには、城門系統の搬送路を通るしかない。だが百十二人を十呼吸で運ぶのは、竜にでも頼まなければ無理だ。あいにく知り合いの獣は白くて大きいが、翼までは付いていない。


 祖父が壁の下部を骨の指で叩いた。


「ノエル。城門が止まる前に、上層への扉を開け」


「開けたまま固定できるか」


「城門の命令が消えれば固定も消える。誰かが向こう側で手動の鎖を引き続ける必要がある」


 壁に狭い扉が現れた。向こうには上へ続く坂路。その脇に、太い黒鉄の鎖が垂れている。


 鉄の輪は、一つひとつが俺の手首ほど太い。床を擦る先端は、扉のこちら側にしかない。


 俺は意味を読んだ。


 鎖を引く者は、扉が閉じる側に残る。


『残り五呼吸』


 リゼも同じ構造に気づいた。


「私が残る」


「獣たちをまとめられるのはおまえだけだ」


「ならアデルを先へ」


「じいさんには次の水熱路を読んでもらう」


「おまえは右手が使えない!」


「鎖を引くのに字は書かない」


 嘘ではない。ただし、二度とこちらから開けられないことを言わなかっただけだ。


 リゼの鼻がひくりと動いた。汗の匂いも、血の匂いも嗅ぎ分ける彼女に、嘘だけ無臭で通るとは思っていない。それでも百十二人が扉の前で詰まっている今、言い争える時間はなかった。


『残り二呼吸』


 俺はリゼの手を振りほどき、百十二人を向こう側へ押し出した。


 そして自分だけ校正室へ残り、黒鉄の鎖を両腕へ巻きつけた。


(第78話へ続く)

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