百十二人の客人
助けを求める声が、暗い搬出路の奥で重なっていた。
十五年ぶん、と表示は言った。
だが、声の数まで十五で済むとは誰も言っていない。建国原文というものは、肝心なところほど簡潔だ。人を埋める仕組みに説明書きの親切さを期待した俺が悪い。
声は石壁を何度も跳ね、誰のものとも知れない呻きへ変わっていた。湿った空気には古い埃と錆、それに長く閉じ込められた人間の汗の臭いが混じっている。
「行くぞ」
起き上がろうとすると、リゼが俺の襟を掴んだ。
「その手で何をする気だ」
「見ての通り、血を流す」
「それはもう十分やっている」
「なら、ついでに一文字くらい書ける」
右の掌には穴が開き、指先まで痺れている。握ろうとすると、傷の奥で熱い針を回されたように痛んだ。左手はまだ動く。脚は頼りないが二本ある。写本係としては過剰装備だ。
リゼは立ち上がった。膝が一度折れたものの、獣の脚へ変えて踏みとどまる。白い毛には煤と血がこびりつき、濡れた獣毛と革鎧の臭いが鼻を刺した。彼女自身も限界のはずなのに、背筋だけは剣のように真っ直ぐだった。
「私が前だ」
「王冠に絞められた直後だぞ」
「だからこそ、次は絞められないよう警戒できる」
「騎士の前向きさは、ときどきただの反省不足だな」
「おまえにだけは言われたくない」
反論できないので、俺は黙って彼女の後ろへついた。正論は傷口より扱いに困る。
白い獣が先に闇へ入り、鼻を鳴らす。爪が石を叩くたび、乾いた音が奥へ吸い込まれた。ピピは俺の肩へ乗り、胸の『語る者』を淡く光らせた。文字でできた小さな体の輪郭が、周囲の声に震えて崩れ、また繋がる。
「いっぱい声がするのら。近いのも、遠いのもあるのら」
「数は?」
「いっぱいなのら」
「役に立つようで役に立たない報告だ」
「ノエルより元気なのら」
「それは役に立たない上に傷つく報告だな」
搬出路を抜けると、円形の回廊へ出た。
壁には棺の形をした石扉が、上にも下にも並んでいる。床から届かない高さにまで積み重なり、薄明かりの果てから暗闇の中へ続いていた。扉の隙間から指が出ている。爪の剥がれた指、骨ばった指、痩せた指、まだ丸みの残る子供の指。
どの指も、こちらに気づくとわずかに動いた。
死者のための墓ではない。
生きた者を死者にするための棚だった。
胸の奥が冷えた。怒りというものは熱いと聞くが、俺の場合は逆らしい。冷え切った頭ほど、文字をよく読める。
リゼが最も近い石扉へ爪を差し込んだ。肩に力を込める。獣の腕に筋が盛り上がり、石粉がぱらぱらと落ちた。石が軋んだだけで、扉は指一本ぶんも動かない。
「停止したのではなかったのか」
「埋葬処理は止まった。扉を開ける力まで止まったらしい」
「設計者を殴りたい」
「順番待ちだ。俺の後にな」
石扉の脇には文字があった。
『埋葬済み。死者の退室を禁ずる』
文字の光は薄れている。王墓系統が停止したため、残った力も消えかけていた。消えれば命令も止まるとは限らない。古代の術式は、最後に与えられた命令だけを律儀に抱えて朽ちることがある。人を殺す勤勉さだけは見習いたくない。
その下には、一人ずつ異なる小さな記録が刻まれている。
『生体反応あり』
『埋葬未完了』
『死者として保管』
矛盾している。
生きていると認識しながら、死者として扱っている。俺が王立写本局にいた頃にも似た書類はあった。「職員として在籍、ただし人員として数えない」。追放される人間には便利な分類だった。
制度は人を殺すときほど、言葉遣いが丁寧になる。
「ノエル、直せるか」
「一つずつならな」
数十、いや、上段まで含めれば百を超える。すべてを一語ずつ直している間に文字が消える。目で追うだけでも時間が足りない。今の手で全部なぞれば、途中で指のほうが先に消えるだろう。
しかも次の停止まで百呼吸しかない。
焦って吸った一呼吸が、ひどく短かった。今ので一つと数えられるなら、規則を作った連中に抗議したい。
背後から、骨の筆先が床を叩いた。
祖父がリゼの外套に包まれ、回廊の入口に立っていた。左手で壁を支え、骨の右腕を引きずっている。その姿は、死者が墓を訪れたというより、墓に返品を申し出に来た品物に近かった。
「じいさん、動くな」
「十五年も動かされた。今さら孫の命令くらいで止まれるか」
「そういうところは似なくてよかった」
「もう遅い」
祖父は石扉の文字を見上げた。眼窩の奥の光が、一枚ずつ確かめるように動く。
「個別の記録を直すな。埋葬規則の親文を探せ」
「どこだ」
「わしが毎晩、削っていた場所だ」
骨の筆が回廊の床を擦った。
かり。
かり。
その音を聞いた途端、石扉の内側から声が上がった。
「筆の音だ!」
「まだいるのか!」
「聞こえる! 今日は近いぞ!」
枯れた声が次々と重なった。泣き声も、笑い声もあった。石の中で十五年聞き続けた音を、彼らは一度で聞き分けたのだ。
祖父の足が止まった。
扉の向こうの男が、石を叩きながら叫ぶ。
「ずっと聞こえていた! あんたが書く夜は、壁の空気が通った! 水も止まらなかった!」
別の場所から女の声が続く。
「音が途切れなかったから、まだ外に人がいると思えた!」
祖父は俯いた。骨の右腕が震えていた。筆先が石へ触れ、小さく鳴る。その音にも、扉の奥から誰かが返事をした。
「わしは、この墓を動かしていた」
「違う」
俺は即座に言った。考える必要などなかった。
「じいさんは、動かしながら壊していた。人を食う系統から先に」
「だが、閉じ込めた」
「閉じ込めたのは原文だ。あんたが書かなければ、ここの人たちはとっくに本物の死者になっていた」
都合のいい慰めではない。
水を通し、空気を残し、埋葬処理を遅らせた筆跡が壁の奥にある。十五年間、祖父は命令に従わされながら、命令へ抵抗し続けた。一本の骨の筆で、誰にも褒められず、返事さえ聞けないまま。
完全には救えなかった。
だが、救う者が来る今日まで残した。
「責任を感じるのは、全員出してからにしろ」
祖父がゆっくり顔を上げた。
「生意気になったな」
「十九歳だ。祖父に十五年放置された孫は、だいたい生意気になる」
「あとで謝る」
「長くなるなら飯を食いながら聞く」
「のら! ハンナの煮込みがいいのら!」
「おまえは謝られる側じゃない」
ピピが頬を膨らませたが、祖父は笑った。
ほんの一瞬だった。
それで十分だ。
俺たちは回廊の中央へ走った。白い獣が床を嗅ぎ、前脚で一枚の石板を掻く。獣の嗅覚には、血や汗だけでなく、古い血墨の臭いもわかるらしい。そこだけ無数の文字が環状に集まっていた。
親文だ。
『王墓に収められた者を死者と定める』
最低の文章ほど、構造は単純だった。例外も猶予もない。人間一人を消すのに、たった一行で済ませている。
俺は左の人差し指へ、祖父の骨の筆先から滲んだ黒い血墨を受けた。まだ温かい。ぬるりとした感触に、十五年ぶんの重みがある気がした。
「借りるぞ」
「返さなくていい」
「そういう貸し方は嫌いだ」
文字へ触れる。
残光が指の骨へ噛みついた。歯を食いしばっても呻きが漏れる。視界の端が白く染まり、右手の傷まで脈打った。
魔力は一滴もない。俺にあるのは、そこに何と書いてあるかがわかるという、世間では長らく役立たずとされた知識だけだ。
剣で石扉は斬れない。力では百人を同時に引き出せない。だが、閉じ込めているものが言葉なら、俺にも喧嘩の仕方がある。
だから、一語で足りる。
『王墓に収められた者を死者と定める』
――『死者』を、『客人』へ。
黒い血墨でなぞる。
『王墓に収められた者を客人と定める』
墓は死者を閉じ込める。
だが、客人を永遠に閉じ込める家は、墓より評判が悪い。
環状の文字が白く弾けた。
『客人の退室を許可』
回廊全体が震え、石扉が一斉に外側へずれた。重い石同士が擦れる音が腹の底まで響き、天井から埃が降る。
「リゼ!」
「任せろ!」
落ちてくる扉を、リゼの獣の腕が受け止める。牙を剥き、唸りながら石蓋を横へ投げた。白い獣たちが回廊へ駆け込み、低い位置の石蓋を押し開けた。ピピは宙を飛び、暗い棺の一つ一つへ声を届ける。
「順番に出るのら! 押さないのら! 歩けない者は声を出すのら!」
最初に這い出したのは、髭が胸まで伸びた男だった。光を見た途端、目を覆って泣いた。その後ろから痩せた女、老人、若者が続く。誰もが骨の浮いた体で、それでも次の者が出る場所を空けようと壁へ寄った。
歩けない者は獣の背へ乗せた。上段の棺はリゼが壁を駆け、蓋を外した。着地のたびに濡れた毛と血の臭いが広がる。俺は人数を数え、呼吸の弱い者を回廊の中央へ集めた。数を飛ばしそうになるたび最初から数え直した。写本係に百人の整理をさせるなら、せめて名簿くらい用意してほしい。
最後の石扉が開く。
中から小さな手が伸びた。
祖父が左手でその手を握った。十歳ほどの子供が、骨の腕を見ても怯えず、祖父の胸へしがみつく。
「筆の人?」
「ああ」
「ずっと書いてくれてた人?」
祖父は答えるまでに三呼吸かかった。
「ああ。遅くなって、すまなかった」
「来てくれたから、いい」
その一言で、祖父の膝が落ちた。
俺は支えなかった。今だけは、床へ座り込むくらい許されるべきだ。泣くならなおさらである。孫は見なかったことにするのが仕事だ。
代わりに俺は空になった石棺を見上げた。先ほどまで伸びていた指は、もうどこにもない。ただ開いた石扉だけが、役目を失って並んでいる。
やがて、すべての石棺が空になった。
百十二人。
王墓は止まり、生きていた者は一人も墓に残らなかった。
その瞬間、遠い頭上で鐘が鳴った。
一度。
途中で音が潰れ、不自然な静寂が地下へ落ちる。誰かの安堵の息さえ大きく聞こえた。
『第三系統、停止』
鐘の光が消えた。
直後、回廊の壁から別の文字が赤く浮かび上がる。
『鐘による停止警報、送信失敗』
『侵入者による校正と判定』
『記録保全処理を開始』
嫌な言い回しだった。
建国原文にとって「保全」とは、人間にとっての保全ではない。失敗した記録を残すため、見た者ごと消す。役所の不始末隠しとしては、ずいぶん豪快だ。
壁の継ぎ目が開き、黒い油が回廊へ流れ出した。鼻を刺す臭いに、獣たちが一斉に唸る。
『下部校正室および王墓を焼却する』
天井で火花が散った。
赤い光が、助かったばかりの百十二人の顔を照らす。泣く暇も、礼を言う暇もない。どうやらこの墓は、客を帰す前に家ごと燃やす主義らしい。
俺は百十二人の客人へ向き直り、声を張り上げた。
「全員、走れ! 今度は墓のほうを死なせるぞ!」
(第77話へ続く)




