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拒絶という回答

 金色の輪が縮んだ。


 耳障りな金属音はしなかった。ただ、空気そのものが細く絞られ、校正室の冷気まで圧し潰されていく。


 リゼの獣耳が押し潰され、根元から血が伝う。銀の髪を濡らした赤が頬を滑り、顎から石床へ落ちた。


 彼女は片膝をつき、床へ爪を立てた。石が五本の筋に裂けても、輪は髪一本ぶんも緩まない。


『第一継承候補を確保』


『守護形態を王体へ固定』


『人格閉鎖を開始する』


「やめろ!」


 叫びに魔力が宿るなら、俺は今ごろ大魔法使いだ。残念ながら現実は、喉を痛めた魔力ゼロの写本係が一人増えただけだった。


 しかも相手は、人の声を聞く気がない古代の王冠だ。役人より融通が利かず、墓石より話が通じない。


 金の文字が輪の表面を走る。


 読める。


 だから、何を奪われるかもわかる。


 リゼが自分で選べるようになった人の姿も、獣の力も、すべて王冠の都合のいい一つへ固定される。そのあとで名前を閉じ、記憶を沈め、命令に従う王体だけを残す。


 喜びも怒りも、誰を守りたいかも、何を嫌うかも消える。外から見れば生きている。呼吸をし、歩き、剣を振るう。だが、そのどれ一つとして彼女が選んだものではなくなる。


 戴冠と呼ぶには手順が少し乱暴だ。


 処刑と呼ぶには、本人が生き残りすぎる。


 古代人は言葉を飾るのがうまい。やっていることが残酷なほど、立派な名前をつけたがる。


「リゼ、聞こえるか!」


「……聞こえて、いる」


 食いしばった歯の隙間から声が返った。呼吸は短く、言葉の端に獣の唸りが混じっている。


 まだ彼女だ。


 だが金色の文字が耳から首へ流れ込み始めている。皮膚の下を這う光が獣化の術式へ絡みつき、先ほど書き換えた『選択』を内側から塗り潰そうとしていた。


 リゼの指が一度、人のものへ戻りかける。次の瞬間には黒い爪へ変わり、その形のまま震えた。彼女自身の意思ではない。王冠が都合のいい形を探している。


 白い獣が床を蹴った。


 巨体に似合わない速さで飛びかかり、牙が輪へ触れた瞬間、金の火花が弾ける。焦げた毛の臭いとともに白い身体が壁まで吹き飛ばされ、石くずが降った。


「無茶するなのら!」


 ピピが白い獣へ駆け寄る。文字でできた小さな両手では起こせないので、鼻先をぺちぺち叩いた。励ましなのか追加攻撃なのか、遠目には判別しにくい。


 白い獣は鼻を鳴らした。少なくとも追加攻撃だとは思ったらしい。


『候補者の抵抗を確認』


『拒絶を障害と判定』


『障害を除去し、戴冠を続行する』


 輪の内側に命令文がある。


 俺は走る文字を目で追った。光は幾重にも折り重なり、外側から見える文と内側で実行される文が、歯車のように噛み合っている。


 外から触れられる文字は、候補者の固定と閉鎖を実行する枝ばかりだ。そこを書き換えても別の枝が動く。一つを止めれば二つが補い、二つを止めれば王冠そのものが異常として上書きする。


 根を変えるには、リゼの頭と輪の間へ指を入れなければならない。


 現在、その隙間はない。


 俺の右手は穴が開き、左手は無事だが、指は五本しかない。世の校正者が腕の本数に不満を持つ理由がよくわかった。たぶん俺だけだ。


 考えろ。


 読めるなら、まだ終わりではない。読めるだけで何もできない時間を、俺は嫌というほど過ごしてきた。それでも文字は、書いた者の思惑まで完全には隠せない。


「ノエル」


 祖父の声がした。


 リゼの外套に包まれたアデルが、骨の筆になった右腕を持ち上げていた。白い骨はまだ細かく震えている。先端には戻ってきた血墨が黒くにじみ、鉄に似た臭いがした。


「これを使え。細い。輪の内側まで届く」


 正しい提案だった。


 正しいからこそ、腹が立った。


「嫌だ」


「意地を張るな」


「十五年も筆にされた人を、助け出してすぐ筆として使うほど、俺は仕事熱心じゃない」


 祖父の眉間に、昔と同じ皺が寄った。俺が写本へ余計な注釈を書いたときの顔だ。十五年ぶりに見ても、説教の前触れは懐かしくならない。


「今は娘の命が――」


「娘ではない」


 リゼが唸った。


 伏せていた顔が上がる。片目は金色に染まりかけ、焦点さえ曖昧だったが、もう片方にはいつもの青が残っている。


「私は……リゼ・フォグレスだ。誰の娘でも、王の器でもない」


 一語ずつ、王冠へ杭を打つように言った。


「そういうことだ」


 俺は祖父へ左手を差し出した。


「筆を貸してくれ、じゃない。じいさんの手を貸してくれ」


 祖父が目を見開く。


 その顔から、ほんの一瞬だけ校正者の険しさが消えた。


 それから、骨の筆先を俺の掌へ載せた。骨は冷たいと思っていた。実際には、人の体温がかすかに残っていた。


「注文の多い孫だ」


「育て方の成果だな」


「そこだけは失敗した」


「再会して最初の評価がそれか」


 軽口を叩いている間にも、輪は狭まる。リゼの首筋に金の筋が増え、爪が床から抜けた。抵抗する意思そのものが薄れ始めている。


 力が抜けたのではない。


 力を入れようと思う部分から奪われている。


 時間がない。


「ピピ、文字の巡りを見ろ」


 ピピは白い獣の鼻先から跳び、輪の周囲を駆けた。小さな身体を作る文字が、金の光を受けて明滅する。


「速いのら! 右から左へ三呼吸で戻るのら!」


 三呼吸。


 書き換えが元へ押し戻されるまで、それだけしかない。じっくり推敲したいという写本係の慎ましい願いを、古代術式はいつも踏みにじる。


「白いの、立てるか!」


 白い獣が頭を振って起き上がった。焦げた毛を逆立て、返事の代わりにリゼの背後へ回って身体を伏せる。


 俺はその背を踏み台にした。


 足が滑った。


 格好よく跳ぶ予定はなかったが、もう少し人間らしく着地したかった。白い毛へ顔から突っ込み、鼻に獣の匂いと埃を吸い込む。温かい毛皮、土埃、血、少し焦げた臭い。無臭の英雄譚など、現場を知らない奴の作り話だ。


「早くするのら!」


「今のは位置の確認だ!」


「顔で確認する必要はないのら!」


 白い獣が背を跳ね上げた。


 俺の身体が宙へ押し出される。


 胃が置き去りになる感覚に耐え、リゼの肩へ左腕を回した。鎧越しにも身体が震えているのがわかる。金の輪へ右手を伸ばし、貫かれた掌が触れた途端、傷口を焼くような痛みが走った。


 視界が白く弾ける。


 金の文字が腕へ噛みついた。


『校正者の介入を確認』


『後継筆を補助王体に指定』


「勝手に役職を増やすな!」


 王も王冠も、人を勝手に道具へ数える癖があるらしい。世襲させるなら、せめて借金ではなく財産にしてほしい。


 俺は右手を輪へ押しつけた。流れた血が表面を汚す。古代術式は俺の血など墨と認めない。魔力もない。つまり、いつもどおり役に立たない身体だ。


 だが、今日は祖父の手がある。


 アデルが左手で俺の足首をつかんだ。弱った指とは思えないほど強い。骨の筆先を俺の傷口へ差し入れ、戻った血墨を俺の血へ混ぜる。


 痛みで歯が鳴った。


「持っていけ、ノエル!」


 黒い一筋が掌を抜け、右の人差し指へ届いた。


 リゼの獣耳と輪の間へ、指先をねじ込む。


 熱い。


 肉が焼ける臭いがした。リゼのものか俺のものか考える暇はない。指の骨まで溶かされそうな熱の中、内側を走る命令文を爪で追う。


『拒絶を障害と判定』


 変えるべきは『拒絶』ではない。


 それを消せば、王冠は沈黙を承諾と読む。口を塞いでから同意したことにするなど、古代の王はずいぶん便利な礼儀作法を持っていたらしい。


 拒絶は残す。


 リゼが自分で選び、声にしたものだからだ。


 変えるのは一語だけ。


 俺は『障害』の上へ『回答』と書いた。


『拒絶を回答と判定』


 金の文字が揺らぐ。


 王冠の光が血墨を削り、元の文字を取り戻そうとする。だが黒い一画は消えず、三呼吸だけ、命令文の意味を押し止めた。


「リゼ!」


 返事はない。


 金色に染まった両目が、何も映さず俺を見ている。俺の腕にかかる彼女の体重が増した。


 一呼吸。


 輪が再び縮む。耳の根元から新しい血が流れた。


「選べ!」


 二呼吸。


 リゼの唇がわずかに動く。声にはならない。金の瞳の奥で、青い光が溺れかけている。


『回答を要求』


 選ばせるための言葉ではない。従わせるために作られた問いだ。


 それでも、問いになった。


 三呼吸目が終わる直前、青が片目へ戻った。


「私は、王冠を拒む!」


 喉を裂くような声だった。


『回答を受領』


『第一継承候補を除外』


『自律戴冠を終了する』


 金色の輪が割れた。


 張り詰めていた空気が一気に戻り、肺へ冷気が流れ込む。光の破片が雨のように散り、床へ触れる前に一文字ずつほどけて消えた。


 リゼの身体が前へ倒れ、俺は受け止めようとして一緒に潰された。鎧の角が肋骨へ食い込む。


「重い」


「女性に言う言葉ではない」


「元気なら自分で起きろ」


「少し待て。脚がまだ私の命令を思い出していない」


 声は弱い。だが、彼女の声だった。


 獣耳も残っている。人の手も、爪へ変えた腕も、彼女自身の意思で形を保っていた。誰かに決められた一つではない。


 俺は床へ仰向けになった。右手は焼け、掌の穴は広がり、全身が痛い。祖父を助けてから一息つくまでの間に、負傷箇所が倍になっている。救出という仕事はどうやら歩合制らしい。働くほど報酬ではなく傷が増える。


 ピピが俺の胸へ飛び乗った。


「勝ったのら!」


 軽いはずなのに、今はその重みすら肋骨へ響く。


「王冠に返事をしただけだ」


「断るのも立派な返事なのら」


 その言葉に、リゼが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。


「ああ。ようやく、あれにもわからせた」


 祖父がそばへ座り込み、俺とリゼを交互に見た。骨の右腕を大事そうに胸元へ引き寄せている。


「似た者同士だな」


「どこがだ」


「命令されると、まず断る」


「それはこいつだけだ」


「おまえもだ、ノエル」


 反論しようと息を吸ったとき、壁の文字が一斉に青白くなった。


『第二系統、停止』


 王墓へ延びていた光が消える。


 直後、円形の校正室を囲む壁の奥から、重い石蓋がずれる音が響いた。


 一つではない。


 二つでもない。


 低い音が次々と連なり、床から背中へ震えが伝わる。積もった埃が天井から細く落ち、消えた金の光の代わりに闇が濃くなった。


『王墓封鎖を解除』


『埋葬処理を中断』


『生体反応――複数』


 暗い搬出路の向こうから、石を叩く音が重なった。


 拳で叩く音。爪で引っかく音。閉ざされた闇の中で、ずっと出口を探していた者たちの音。


 そして、十五年ぶん閉じ込められていた声が、一斉に叫んだ。


「ここから出してくれ!」


(第76話へ続く)

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