返却
祖父の筆先が、俺の掌の骨を引っかいた。
ぎ、と嫌な音がする。
肉を裂く音より、硬いもの同士が擦れる音のほうが怖い。自分の手の中から聞こえてくるなら、なおさらだ。
悲鳴を上げなかったのは忍耐強いからではない。痛すぎると、人間は案外まともな声が出ないのだ。十九年生きて得た知識の中でも、かなり役に立たない部類である。
「手を離せ、ノエル。わしごと折れ」
十五年ぶん擦り切れた祖父の声が、筆軸の奥で鳴った。
声というより、乾いた紙を重ねて擦ったような音だった。それでも聞き間違えるはずがない。幼いころ、俺が古代語の綴りを一字間違えるたび、容赦なく頭上から降ってきた声だ。
「再会して最初の頼みがそれか」
「聞き分けの悪さは変わらんな」
「じいさんの教育の成果だ」
銀の枷が右腕を机へ押しつけている。引けば掌に刺さった筆先が肉を裂き、止まれば文字が腕の内側へ伸びてくる。
『校正権限を移植する』
赤黒い古代語が、血管に沿って一字ずつ刻まれていた。
一画増えるたび、熱した針を皮膚の裏から押し当てられる。血の匂いと、焦げた紙のような臭いが鼻の奥で混じった。俺には魔力がない。力ずくで術式を弾き返す便利な芸当も、痛みを消す気の利いた魔法も使えない。
できるのは、読むこと。そして一語だけ、書き換えること。
これが最後まで書かれれば、俺は後継筆になる。
俺が代われば祖父は止まる。五系統も順番に止まる。王都が壊れ始めるまでの猶予は、わずか百呼吸ずつ。
ずいぶん親切な仕組みだ。
人を筆にしておいて、交代時刻だけはきっちり守る。王宮というものは、残酷さに帳簿をつけないと眠れないらしい。
「リゼ!」
「今やっている!」
獣の爪へ変えたリゼの右手が、銀の枷へ食い込んだ。青白い火花が散り、毛の焼ける臭いが立つ。それでも彼女は眉ひとつ動かさず、肩を沈めて爪へ力を込めた。
金属ではない。『固定せよ』という命令が銀の形を取っている。
爪で壊しても、文字が残る限りまた閉じる。現にひしゃげた端から銀色の線が這い、傷口を縫うように元の輪へ戻り始めていた。
「枷はいい。筆軸を折れ」
祖父が言った。
リゼの爪が止まる。
「ノエル」
「折るな」
「だが」
「命令だ。俺は騎士団長代理ではないが、怪我人なので少しくらい偉そうにしても許される」
「普段から十分偉そうだ」
「では平常運転だな」
リゼは牙を見せて俺を睨んだ。怒っているのか、焦っているのか、その両方か。獣化した顔では判別しづらいが、あとで殴られることだけはわかった。
筆先がさらに食い込んだ。腕の中で『移植』の語が形を結び始める。
ピピが俺の肩から机へ飛び降りた。
「ノエル、ほどけるのら! 文字が中へ潜ってるのら!」
「見ればわかる」
「さっきリゼにも同じことを言われてたのら!」
「人は反省しない生き物なんだ」
「威張って言うことではないのら!」
ピピが両手で筆軸を押した。小さな文字の身体が震え、胸の『語る者』が明滅する。墨の線でできた足が机の上を滑り、それでも踏ん張って離れない。
白い獣も机へ前脚をかけた。腹に取り込んでいた『返』はもうない。それでも牙で祖父の筆軸をくわえ、動きを鈍らせようとする。白い毛の隙間から低いうなり声が漏れた。
「やめさせろ」
祖父の声が低くなった。
「その獣も、その小さいのも、巻き込むな」
「小さいのではないのら。ピピなのら!」
「そうか。すまんな、ピピ」
「わかればいいのら!」
こんな場所で礼儀だけは成立した。
俺は歯を食いしばり、左手で祖父の筆軸をつかんだ。
乾いた骨の感触がした。
冷たく、硬く、けれど完全な道具にはなりきれていない。かすかに震えている。その震えが命令に抗っているからなのか、俺を傷つけていることに耐えているからなのかは、聞かなくてもわかった。
昔、俺の頭を撫でた手の骨だ。
写本の余白へ落書きをした俺の耳を引っ張り、文字は誰かの命を運ぶものだと叱った指だ。
それが今は、俺を道具へ変える文章を書いている。
「折れ、ノエル」
「嫌だ」
「五系統が落ちる」
「順番は作った」
「その順番でも人は死ぬ」
「だから急ぐ」
「わし一人で済む」
その言葉だけは、十五年前と変わらなかった。
祖父はいつも、自分一人を勘定から抜く。
食事を減らすときも、危険な仕事へ出るときも、俺を置いて消えたときもそうだった。自分を数えなければ、誰も犠牲になっていないような顔ができる。
残された側が、十五年も答えのない余白を見つめることになるとも知らずに。
「じいさん」
「なんだ」
「写本係は、原本を勝手に破らない」
祖父の筆先が、ほんの一瞬だけ止まった。
それは呼吸ひとつにも満たない停止だったが、俺には十分だった。叱られた弟子が、ようやく師へ同じ言葉を返せたのだから。
『第一系統停止まで、残り百二十呼吸』
壁の王冠系統が赤く脈打つ。地下の空気まで、その明滅に合わせて縮んでいるようだった。
時間はない。
だが、文字はもう目の前にある。
俺の掌から腕へ刻まれた術式。触れるどころか、現在進行形で俺の中へ入ってきている。近づく必要すらないのはありがたい。二度と利用したくない親切だが。
痛みで視界が白くなる。目を閉じれば楽になりそうだった。閉じれば最後まで書かれる。
読め。
『校正権限を移植する』
主語は建国原文。
対象は後継筆。
移植元は初代筆。
術式の骨組みを頭の中でほどく。余計な感情は脇へ置け。孫である前に写本係として読め。泣くのは、文字が命を運び終えてからでいい。
なら、変えるべきは俺でも祖父でもない。
行き先だ。
俺は左の人差し指を、自分の掌へ刺さった筆先に押し当てた。流れた血をインク代わりに、完成しかけた一語をなぞる。
古代語は光り、数秒で元へ戻ろうと抵抗した。指先が弾かれ、爪の間から血がにじむ。それでも画を一つ削り、別の画を継ぎ足した。
「人の権限を、勝手に孫へ押しつけるな」
『移植』を――『返却』へ。
文字が反転した。
掌から腕へ這い上がっていた痛みが、一気に逆流する。
「ぐっ……!」
筆先が俺の手から抜けた。銀の枷が激しく震え、机の表面へ新しい文章が走る。傷口から噴いた血が文字へ吸われ、赤い光へ変わった。
『校正権限を返却する』
『返却先を照合』
『初代筆』
祖父の筆軸が跳ねた。
壁を走る五系統の文字が、すべて中央の机へ頭を垂れるように曲がる。地下いっぱいに筆が紙を走る音が響き、床から細かな埃が舞った。
祖父へ権限が戻った。
ただし数秒だけだ。巡回する原文は、すぐ『返却』を『移植』へ戻す。
「じいさん!」
「読めておる!」
祖父の声に、初めて力が戻った。
筆となった指が、自ら机を打つ。
そこに選択肢が展開した。
『校正を継続する』
『後継筆へ委ねる』
『初代筆を停止し、親族へ返却する』
祖父の筆先が三つ目へ触れた。
「アデル・アルクムが選ぶ」
擦り切れた声が、はっきりと告げた。
「わしを止めろ。人として、孫へ返せ」
机の中で何かが外れた。
銀の枷が開き、祖父の筆軸を固定していた金具が一本ずつ床へ落ちる。甲高い音が一つ、二つと重なり、十五年ぶんの拘束を数える鐘のように響いた。
壁から伸びていた黒い補筆路も切れた。血の墨が糸を引きながら祖父の身体へ戻り、干からびた腕が机の端から崩れ落ちる。
俺は左腕で受け止めた。
軽かった。
十五年も国に使われた人間は、抱き上げるのが怖いほど軽かった。外套の下にあるのは骨と乾いた皮ばかりで、強く抱けば写本のように破れてしまいそうだった。
筆軸は消えなかった。右腕は肘から先が骨の筆のままだ。背も曲がり、皮膚は薄い紙のように乾いている。
それでも胸は動いていた。
一度。
長く止まり。
もう一度。
祖父は自分の呼吸で息をした。
「じいさん」
「老けたな、ノエル」
「十九歳に言う台詞か?」
「わしより顔色が悪い」
「そっちは筆より人相が悪いぞ」
「口も悪くなった」
「教育の成果だと言っただろ」
祖父の左手が持ち上がった。
骨ばった指が、俺の髪へ触れる。
撫でる力など残っていない。ただ置かれただけだった。
それで十分だった。
十五年前に途切れた手の温度は、驚くほど冷たく、それでも道具の温度ではなかった。ほんのかすかな震えも、弱い呼吸も、全部が生きている人間のものだった。
「ただいま、ノエル」
「遅い」
それ以上は言えなかった。
言えば、声の代わりに十五年ぶんの何かがこぼれそうだった。今は泣いている場合ではない。そういう言い訳は便利なので、ありがたく使わせてもらう。
リゼが祖父の背へ外套をかける。獣化した腕を人の手へ戻し、壊れ物を扱うように肩を支えた。彼女の身体には獣の熱と、汗と鉄の匂いが残っていた。その温かさに触れ、祖父の固かった肩がわずかに緩む。
ピピは祖父の胸へ耳を当てている。
「鳴ってるのら。ちゃんと中で鳴ってるのら」
「四壺」
「覚えてたのら?」
「インク四壺。助けた礼だ」
「五壺でもいいのら!」
「交渉を覚えるな」
「成長したのら!」
「悪い方向にな」
白い獣が鼻先を祖父の左手へ寄せた。祖父は少し驚き、それから指先で白い毛を撫でた。獣は目を細め、喉の奥で小さく鳴いた。
短い安堵を、地下全体を揺らす音が断ち切った。
『第一系統、停止』
王冠系統の光が消える。
一瞬で壁の一角が暗くなり、代わりに残る四系統の文字が不安げに明滅した。百呼吸の猶予が始まった。次は王墓。その次は鐘、城門、水熱路。
祖父を取り戻した。
だから今度は、この人が十五年かけて守ってきた人々を取りこぼさない番だ。
「リゼ、じいさんを頼む」
「おまえの手も治療が必要だ」
「王都の五系統よりは軽傷だ」
「比較対象がおかしい」
「俺の人生ではよくある」
血で滑る右手を胸元へ押しつけ、机に左手をつく。脚は情けないほど震えていたが、床に倒れているよりは役に立つ。
立ち上がろうとした瞬間、消えたはずの王冠系統が金色に燃え上がった。
赤ではない。警告でもない。命令を疑わない、傲慢なほどまばゆい金色だった。
壁へ、停止後の緊急処理が表示される。
『王冠への供給途絶』
『王権保全を優先』
『第一継承候補へ自律戴冠を実行』
読めた。
読めてしまったからこそ、背筋が凍った。
「リゼ!」
叫ぶより早く、天井を突き破って金色の輪が落ちた。
砕けた石片と埃の中、それはリゼの頭を捉え、獣の耳ごと締め上げた。
(第75話へ続く)




