順番に壊れろ
三百呼吸というのは、長いようで短い。
少なくとも、王都を支える五系統の術式を点検し、祖父を救い、ついでに夕食へ間に合うには短すぎる。
普段なら一呼吸くらい、ため息だけで浪費できる。だが今は、その一つ一つが王都の寿命だった。
「二百九十九なのら!」
「数えるな。減る」
「数えなくても減るのら!」
正論は急いでいるときほど腹が立つ。
手の中の名札から噴き出した黒い墨は、床に五本の線を描いていた。一本は王冠へ。一本は王墓へ。一本は鐘へ。一本は城門へ。最後の一本は、王都の水路と熱路へ枝分かれしている。
どれも細い。靴底で擦れば消えそうな線だ。
だが、その一本一本の先には、眠っている市民や、夜番の衛兵や、地下水路で働く者たちがいる。床に描かれた線より軽い命など、一つもない。
アデル・アルクムという一本の筆が、十五年間もこれらを縫い止めていたのだ。
針どころか、人間を使って。
線の上を文字が走る。乾いた虫の群れのように、黒い字が次々と浮かんでは並んだ。
『初代筆摩耗、限界値超過』
『補筆精度、維持不能』
『後継筆、搬出元へ到達』
『停止処理を開始する』
「俺がここへ来たからか」
喉の奥が乾いた。
受領は成立していない。俺は王になっていないし、誰にも筆として受け取られていない。それでも建国原文は、後継筆が近くまで来たことを、交替可能と判断したらしい。
十五年間閉じ込められた祖父と、のこのこ歩いてきた孫。その二人を新旧の備品として並べれば、術式にとっては十分なのだ。
人の意思を一行省けば、帳簿はたいへん簡潔になる。
「止められるか」
リゼが床へ膝をつき、五本の線を見渡す。獣化した瞳が青い光を反射していた。鼻先がわずかに動く。墨の下に混じる血の臭いを嗅ぎ取ったのだろう。
「停止そのものは止めない」
「アデル殿が削れ続けるぞ」
「だからだ」
祖父を救うために来た俺が、祖父へもう少し耐えろと命じる。
それは救出ではない。使う人間の顔が変わっただけだ。
助けたいという言葉は便利だ。口にしている間だけ、自分が善人になった気分になれる。だが、祖父の指一本と王都の誰か一人を秤へ載せる権利など、俺にはない。
「問題は、全部が同時に止まることだ」
五本の線は、床の中央で一つの単語に結ばれていた。
『同時』
ありがたい。国を作った連中は人間を筆にする一方で、誤字の置き場所だけは親切だった。
俺は指先に残ったインクを集めた。爪の間から掻き出しても、一文字には足りない。焦げた皮膚へ墨が染み、脈を打つたびに痛んだ。
「ピピ」
「食べるぶんはないのら」
「誰もおまえの非常食を狙ってない。少しだけインクを貸してくれ」
ピピは胸の文字を両手で押さえた。小さな体を形作る字が警戒するように縮む。
「上等なのら?」
「俺の爪の垢と混ざっている」
「最低等なのら!」
「あとで三壺返す」
「四壺なのら」
「危機に乗じた利率だな」
「命の値段にしては安いのら」
それを言われると値切れない。商人にしたら恐ろしい残響である。
ピピが腕を振ると、指先から青いインクが一滴落ちた。俺はそれを受け、黒い墨と混ぜる。冷たい青と、生温かい黒が指の腹で絡み合った。
床がまた軋んだ。
『残り二百六十八呼吸』
白い獣たちが一斉に低く唸った。天井から砂が落ち、文字の階段が明滅する。足元から伝わる振動は、巨大な何かが寝返りを打つ前触れに似ていた。
「護衛を頼む」
「任せろ」
リゼが俺の前へ立つ。剣を抜く余裕すら惜しむように腰を落とし、傷の残る腕を広げた。
直後、五本の線から黒い針が飛び出した。
補筆を止める前に、記録を閉じようとしている。人間を十五年も働かせたくせに、帳簿の始末だけは素早い。
リゼの腕が銀色の毛に覆われる。獣の体温と、呪い特有の鉄臭さが背中越しにも届いた。爪が横薙ぎに走り、針をまとめて叩き落とす。甲高い音が連なり、二本が腕を掠め、血が毛を濡らした。
「急げ!」
「言われなくても、手は一本しかない!」
俺は床へ滑り込み、『同時』へ指を押しつけた。
文字は熱かった。
祖父の血で書かれた墨だ。
そう気づいた瞬間、指を離したくなった。触れているだけで、十五年間の痛みを踏みつけている気がした。
幼い頃、俺の握り方が悪いと、祖父は後ろから手を重ねて直した。節くれ立ってはいたが、温かい手だった。その手が今、王都の床を走る墨にまで磨り減っている。
だが、離せば王都全域が一息で崩れる。
俺は最初の一字を潰し、その上へ書いた。
『順次』
同時に壊れるな。
順番に壊れろ。
ずいぶん消極的な救いだ。だが俺の仕事は昔から、立派な奇跡ではなく、最悪の誤字を次に悪い誤字へ直すことだった。
五本の線が激しく跳ねた。
書き換えを拒む光が指へ食い込み、皮膚を焼く。歯を食いしばっても焦げた臭いまでは防げない。巡回中の術式だ。放っておけば、すぐ元の語へ戻る。
「ノエル、右だ!」
リゼの声に首を伏せる。黒い針が髪を数本持っていった。俺の髪は王都ほど貴重ではないが、勝手に減らされて愉快なものでもない。
白い獣が床を蹴た。
一頭が俺の背を覆い、もう一頭が針の根元へ噛みつく。石でできた顎が砕けても離さない。白い獣は尾でピピをすくい、飛んできた針から守った。
誰にも命じられていない。
それでも、彼らは残った。
命令なしでは人を守れない建国原文より、よほど賢く、よほど優しい。
「書けた!」
俺が指を離すと、五本の線が一本ずつ明滅した。
最初に王冠。
次に王墓。
鐘、城門、最後に水路と熱路。
人を部品として回収する術式から先に止まり、人が生きるための術式ほど後へ回る。偶然ではない。床へ写された搬出記録は、アデル自身が補筆してきた順番を残していた。
祖父は十五年間、優先順位を変え続けていたのだ。
命令された欠落をただ埋めたのではない。
王都が壊れるなら、人を食う場所から壊れるように。
誰にも気づかれず、褒められず、それでも毎日、筆先だけで抵抗していた。
「じいさんらしいな」
笑おうとしたが、声が掠れた。
『第一系統停止まで、残り二百四十一呼吸』
猶予が増えたわけではない。
ただし、最初の一系統が止まってから次が止まるまで、それぞれ百呼吸の間隔が生まれている。書き換えが戻される前に、命令の根元へ着かなければならない。
「下部校正室はどちらだ」
リゼが問う。傷口から落ちた血が銀の毛を伝い、床の文字へ赤い点を作った。
名札から伸びた線は、壁の向こうへ消えていた。扉はない。穴もない。あるのは代替筆を収めた棚と、上へ続く文字の階段だけだ。
「搬出路を使う」
「どこにある」
「筆に聞く」
俺は空になった収蔵台へ名札を戻した。
台座に古代語が浮かぶ。
『搬出済みの筆を再搬出できない』
「知っている。だから目的語を変える」
文字へ触れ、『筆』の一字を『札』へ書き換えた。
書き換えは数秒しか持たない。それで十分だ。
収蔵台の針が名札を刺した。
床が割れる。
現れたのは階段ではなく、ほとんど垂直の石溝だった。底から湿った冷気が吹き上がる。両側には乾いた血の跡が残り、無数の文字が下向きに刻まれている。
『運べ』
人を筆にしたあと、ここから下部校正室へ落としていたのだ。
「趣味の悪い近道だ」
「近いなら使う」
リゼは迷わず石溝へ足を入れた。
「待て。先に俺が――」
腰を抱えられた。
「今回も私が先だ」
「それは護衛の抱え方か? 荷物の扱いに近くないか?」
「落とされたいなら離す」
「たいへん行き届いた護衛だ」
ピピが俺の襟へ潜り込む。紙を丸めるような音が耳元でした。
「舌を噛むのら!」
「出発前に言え!」
リゼが石溝を蹴った。
落下というより、投棄だった。
壁の『運べ』が順に光り、俺たちの体を下へ引く。腹が置き去りになり、石の継ぎ目が肩や背を殴る。息をするたび獣の毛と血と古い鉄の臭いが鼻へ入り、襟の中ではピピが悲鳴代わりに文字をばらつかせていた。
白い獣たちも続く。爪を壁へ立て、速度を殺しながら降りてきた。火花に照らされた白い顔は、声もなく俺たちを見守っている。
頭上で石溝が閉じ始める。
『第一系統停止まで、残り百九十呼吸』
やがて下から、規則正しい音が聞こえた。
かり。
かり。
何かを紙へ擦る音。
音の合間に、細い呼吸が混じっている。
十五年間、一度も休まず続いた音だ。
一文字ごとに誰かの暮らしをつなぎ、一文字ごとに一人の人間を削ってきた音だった。
「アデル殿か」
俺は答えられなかった。
肯定すれば、あの音を祖父だと認めることになる。否定すれば、ここまで来た意味まで失う気がした。
石溝の終わりが迫る。リゼが片手を獣の爪へ変え、壁へ突き立てた。火花を散らしながら速度が落ち、俺たちは床へ転がり出た。
肺から空気が押し出される。咳き込みながら顔を上げた。
下部校正室は、円形の部屋だった。
壁一面を五系統の術式が走り、脈打つ血管のように中央の机へ集まっている。かり、かり、という音は、そこで途切れることなく続いていた。
机の上には、長い筆軸が一本、銀の枷で固定されていた。
筆軸には骨の節がある。
その根元から、干からびた人の腕が伸びている。
指は筆を握っていない。
指そのものが筆へ作り替えられていた。
記憶にある祖父の手を探した。俺の頭を乱暴に撫でた掌も、筆の持ち方を教えた指も、そこにはほとんど残っていなかった。
「じいさん」
呼んだ途端、五系統の文字が赤く染まった。
『後継筆、到着』
『初代筆の停止処理を中断』
『校正権限を移植する』
床から銀の枷が飛び出し、俺の右腕を机へ叩きつけた。
冷たい金属が骨まで締め上げる。振りほどこうとしても、魔力のない俺の腕力など、建国原文にとっては紙くずより軽かった。
祖父の筆先が動く。
乾いた先端が俺の掌を貫き、骨の上へ最初の一字を書き始めた。
熱でも冷たさでもない痛みが、腕の内側を文字の形に這い上がる。
すると、筆軸の奥から十五年ぶん擦り切れた声がした。
「手を離せ、ノエル。わしごと折れ」
(第74話へ続く)




