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祖父という筆

 収蔵部に窓はない。


 その代わり、壁一面に人間を筆へ変えた記録がある。


 換気という発想より先に人を文房具にする発想へ至った連中には、文明の進歩について一度きちんと反省してほしい。できれば棺の中で。もっとも、ここを造った者たちなら、棺にも整理番号と用途を書き込んでいそうだ。


「ノエル、出口はそっちだ」


 リゼが文字の階段を示した。青白い文字列が暗がりへ斜めに伸び、一段ごとに弱々しく明滅している。


「知っている」


「なら、なぜ逆へ歩く」


「祖父を置いて帰るほど、聞き分けのいい孫ではないからだ」


 返事をしながら棚の奥へ進む。足の裏で、砕けた筆軸らしきものが乾いた音を立てた。見下ろさなかった。見て、それが誰のどの部分か理解してしまえば、次の一歩が重くなる。


 棚の間には煤と、乾いた血の臭いがこびりついている。リゼの銀毛から漂う汗と獣の臭いが混じると、鼻にはなかなか厳しい。だが、生きている者の臭いだと思えば不快ではなかった。


 少なくとも、ここに並ぶ筆にはもう体温がない。


 リゼは止めなかった。俺の後ろへ回り、耳を立てて周囲を警戒する。止めても俺が聞かないと知っている顔だった。付き合いが長くなるとは、相手の欠点を効率よく諦めることらしい。


「探すなら急げ。上で継承処理が再開するまで、そう長くはない」


「夜明けまでだな」


「おそらく」


「便利な言葉だ。失敗したとき、責任を半分くらい霧にできる」


「残り半分はおまえを殴れば済む」


「責任の所在が明瞭すぎる」


 ピピが俺の肩から飛び、棚と棚の間を照らした。小さな体を形作る文字がほどけては結び直され、薄闇に青い影を踊らせる。


「記録は紙じゃないのら。紙だったら、ここでは肉と見分けがつかないのら」


「やめろ。今後一生、帳簿を開くたびに思い出す」


「でも本当なのら」


 本当だから困る。


 搬出記録は棚の奥にあった。石壁へ細い溝が何百本も刻まれ、その一本一本に古代語の短文が流れている。名、収蔵日、使用目的、搬出先。指でなぞれば整然とした凹凸が返る。筆を物として扱うための、実に几帳面な帳簿だった。


 人を人として扱う部分だけが欠けている。


 古代の技術は、欠けたものほど雄弁だ。倫理、慈悲、ためらい。肝心な語を全部削っておいて、記録の正確さだけは誇らしげに残している。


 俺は『初代代替筆 アルクム』の名札を溝へ近づけた。


 反応はない。


 代わりに、壁の上部へ一文が浮かんだ。


『搬出記録は所有者にのみ開示する』


「また王か」


 リゼが低く唸る。牙の隙間から漏れた息が、冷えた空気を白く曇らせた。


「いや。今回はもっと悪い」


「王より?」


「所有者だ。筆にされた人間を、誰かの持ち物だと最初から決めている」


 今すぐ全文を書き直したいところだが、俺にできるのは一語だけだ。しかも巡回中の術式なら、数秒で元へ戻る。正義感というものは、だいたい手持ちのインクより量が多い。


 必要なのは、扉を開けるのに足りる一語。


 俺はインク壺を取り出した。底には指先を濡らせる程度しか残っていない。壺を傾けると、黒い滴が惜しそうに底へ張りついた。


「ピピ、明るくしてくれ」


「ぴかぴかなのら!」


 青みを帯びた光が壁を照らす。『語る者』となった胸の文字は安定していた。失った『返』がなくとも、ピピはもう自分の声で形を保っている。


 自分の言葉で立つ小さな相棒を見てから、俺は壁へ向き直った。ここに収められた者たちにも、そうする権利があったはずだ。


 俺は『所有者』の文字へ指を置いた。


 冷たい。


 この言葉に触れるたび、人の手ではなく鎖を触っている気分になる。


 インクを滑らせる。指先が震えそうになるのを、石へ押しつけて抑えた。


『所有者』を――『親族』へ。


 祖父が俺を孫として覚えていたなら、これでいい。


 術式が俺の指を読み、次いで手首に残る証人登録を読んだ。皮膚の下を細い針が走るような感触がして、壁の溝が青く光る。


『親族照合』


 一呼吸。


 二呼吸。


 たったそれだけが、妙に長かった。剥がれかけた記憶の中で、祖父の大きな手が幼い俺の頭を撫でる。声はもう思い出せない。手の重さだけが残っている。


『一致』


 胸の奥に刺さっていたものが、わずかに動いた。


 国の術式がどう判定しようと、俺は祖父の孫だ。そんなことはわかっていた。それでも、この場所で祖父との繋がりを肯定されたことに、情けないほど安堵した。


「開くのら!」


 壁の文字が左右へ分かれ、一本の記録が前へ浮かび上がる。石を擦る音が収蔵部へ長く響いた。


『収蔵名 初代代替筆 アルクム』


『筆身搬出 十五年前』


 十五年前。


 トマスが眠る石碑を壊された年と同じだ。


 偶然という言葉は便利だが、王宮の地下では滅多に働かない。リゼも気づいたらしい。俺の横で息を止めた。


『搬出命令 建国原文自律命令』


『搬出先 王宮下部校正室』


『用途 建国術式の欠落補筆』


 ピピが文字へ近づく。光る指で触れかけて、寸前で止めた。


「欠落は、焼かれたところなのら?」


「それだけじゃない」


 記録は下へ続いていた。


『補筆範囲 王都全域』


『鐘路、門路、埋葬路、王血保全路、継承路』


 これまで俺たちが潜り、壊し、逃げ、書き換えてきた術式の名が並んでいる。どれも自分の傷のように覚えていた。鐘の響き、門の呻き、墓所の冷気。その奥に、同じ一本の筆が繋がっていた。


 祖父は十五年間、国じゅうの傷へ文字を送り続けていた。


 自分の肉を紙にされ、血を墨にされ、骨を軸にされて。


 一文字ごとに何を失ったのだろう。指の感覚か、声か、俺の顔か。それを数える欄だけは、この帳簿には存在しない。


 王都が今まで崩れずにいたのは、王冠が立派だったからではない。


 一本の筆が、壊れる端から書かされ続けていたからだ。


「祖父は生きているのか」


 リゼが尋ねた。その声には騎士の硬さがなかった。


「この記録では、稼働中だ」


「それは生存と同じ意味か?」


「違う」


 即答できた。


 呼吸があるかもしれない。熱が残っているかもしれない。記憶すら、墨として使われながら残っているかもしれない。


 だが、自分で止まれないものを生きていると呼ぶのは、あまりに国に都合がいい。


 さらに文字が現れた。


『摩耗率 九割七分』


『補筆効率 低下』


『後継筆登録 ノエル・アルクム』


 リゼの爪が床を掻いた。石に白い筋が三本残る。


「おまえを登録したのは祖父だったはずだ」


「ああ。代替筆の道を塞ぐために」


 俺には魔力がない。


 既存の術式へ触れ、一語を書き換えることはできる。だが、空白へ新しい術式を書き続ける筆にはなれない。国にとって俺は、後継者の名札だけをつけた不良品だ。


 祖父は後継者の欄へ、絶対に筆として使えない孫を置いた。


 誰も代わりに入れられないように。


 自分が使い潰されても、次の人間が同じ目に遭わないように。


「馬鹿だな」


 声が掠れた。


 ピピが俺の頬の前へ浮かぶ。


「ノエルのおじいちゃんに怒ってるのら?」


「怒っている。十五年も一人で格好をつけた」


「ノエルと同じなのら」


「俺はここまでひどくない」


 リゼが無言で俺の襟をつまんだ。首が締まり、説得力まで一緒に絞られる。


「反論があるなら口で言え」


「数が多すぎて選べない」


 記録の末尾に、停止条件があった。


『後継筆の受領をもって初代筆を停止、返却する』


 だから俺は返却対象になった。


 俺を後継筆として受領させ、祖父を止めるために。


 だが王はいない。俺には筆としての魔力もない。受領も交代も成立しない。


 祖父は止まれない。


 俺も代われない。


 見事な袋小路だ。設計者を褒める者がいるなら、ぜひこの棚へ収蔵してやりたい。名札には『用途 余計な仕組みを増やす』と刻んでおこう。


「記録を持ち出せるか」


 リゼが聞いた。


「正式審理の証拠にはなる」


「そうではない」


 リゼはまっすぐ記録を見た。獣の目に揺れる青い光が、刃のように細くなる。


「祖父を連れ戻す道はあるかと聞いた」


 俺は返事をしなかった。


 証拠として出せば、教会も王宮も言い逃れは難しくなる。初代代替筆が今も王都を支えていると知れれば、審理そのものをひっくり返せるかもしれない。


 証拠は黙って待てる。人間は待つたびに削れる。


 その間も祖父は書かされ続ける。


 人を救うより、正しく告発する順番を優先する。


 それでは、この帳簿を書いた連中と何が違う。


「下部校正室へ行く」


 俺は記録を名札へ写し取った。細かな文字が筆軸へ吸い込まれる。元の術式が『親族』を『所有者』へ押し戻し、壁が閉じ始める。


「正式審理は?」


「祖父を連れて出る。証拠席に一本の筆だけ置く気はない」


 ピピが胸を張る。文字の胸なので厚みはないが、気概だけは俺より立派だった。


「救出なのら!」


「簡単に言うな。王都全域を補筆している筆を止めれば、壊れた術式が一斉に口を開く」


「では、先に直すのか」


「十五年分を夜明けまでに?」


 俺は自分の指を見た。爪の間に残った黒いインクが、頼りなく乾き始めている。


 魔力はない。インクもほとんどない。触れられる文字を、一度に一語だけ。


 いつもどおり、頼りない手だ。


「無理だな」


「諦めるのか」


「逆だ。直してから止める時間がないなら、止めてから壊れる順番を選ぶ」


 全部は支えられない。


 なら、人を食う術式から先に落とす。


 鐘も門も王冠も、人命より後だ。王都が不便になることと、誰かが筆にされることを同じ秤へ載せる気はない。


 俺は文字の階段へ向かった。


 その瞬間、祖父の名札が俺の手の中で激しく震えた。


 筆軸の裂け目から黒い墨が噴き出し、床へ一文を書く。鉄に似た臭いが一気に濃くなった。


『補筆停止まで、残り三百呼吸』


 続けて、王都の地下から腹に響く音が届いた。


 一度。


 二度。


 今まで祖父が押さえ続けていたすべての術式が、同時に軋み始めた。


(第73話へ続く)

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