返却不能
穴へ落ちるとき、人は人生を振り返るらしい。
俺が振り返ったのは、手首に巻きついた黒い文字の綴りだった。
我ながら情緒がない。だが、情緒で床は戻ってこない。走馬灯が古代語の校正記号というのも、いかにも俺らしい最期ではある。嬉しくはない。
『返却対象を、代替筆収蔵部へ移送する』
読めたところで、落下は止まらなかった。
耳元で風が吠え、砕けた石片が頬を打つ。穴の底は暗く、距離も見えない。こういうとき魔法でふわりと着地できれば格好もつくのだろうが、俺の魔力は潔いほどゼロだ。読解力には、人ひとりを浮かせる親切な機能など付いていない。
「ノエル!」
リゼの手が俺の腕をつかむ。獣化した指の爪が外套を裂き、皮膚へ食い込んだ。痛い。ありがたい。できればもう少し爪を立てない方向でありがたくしてほしい。
だが、穴の縁そのものが崩れた。
リゼごと落ちる。
「のらああああ!」
ピピが俺の襟へ飛び込んだ直後、背中を石床へ叩きつけられた。
息が消えた。
胸郭が潰れたかと思った。視界の端で白い光が弾け、遅れて全身の痛みが追いついてくる。
それでも骨が折れなかったのは、途中で俺たちを受け止めたものがいたからだ。
白い獣だった。
巨体を横向きにして俺たちの下へ滑り込み、その背で衝撃を受けている。さらに二頭、三頭と獣たちが折り重なり、落下の勢いを殺した。
床を擦る爪の音。押し殺した呻き。白い毛には石粉が降り積もり、その下から赤い血がにじんでいた。
「なぜ、来た」
喉から空気をかき集めて尋ねると、白い獣が牙の間から答えた。
「選んだ」
短い返事だった。
俺を助けろという命令は、もうどこにもない。
それでも彼らは穴へ飛び込んだ。
返した選択を、最初に俺のために使ってくれたらしい。こういうものは困る。恩を勘定に入れずに生きてきた人間には、受け取り方がわからない。借りなら返し方を考えられる。だが、自由に選んだ結果だと言われれば、値札を付けることすら失礼になる。
「……ありがとう」
結局、ありふれた一語しか出なかった。
白い獣は鼻を鳴らした。獣臭と血の臭いが混じった風が顔にかかる。生き物に囲まれている実感としては、たいへん正しい臭いだった。
リゼが俺を引き起こした。
「手首を見せろ」
声は平静だったが、耳は伏せられている。差し出した俺の手を、彼女は割れ物でも扱うように支えた。爪の先だけが、かすかに震えていた。
黒い文字はまだ巻きついていた。皮膚の上を這い、肘へ向かって文を伸ばしている。
『収蔵に際し、肉を紙へ、血を墨へ、骨を筆軸へ――』
「趣味の悪い説明書だな」
「笑っている場合か」
「笑わないと、紙にされる恐怖だけが残る」
「なら笑え。私がその文を切る」
リゼが爪を振り下ろす。
火花が散った。
黒い文字は切れず、逆に彼女の爪へ一画を伸ばした。濡れた虫の脚じみた線だった。俺はとっさにリゼの手を払う。
「触るな。これは俺だけを返却対象として読んでいる。割り込めば、おまえまで付属品にされる」
「私はおまえの護衛だ」
「付属品ではない」
言い切ると、リゼは歯を噛みしめた。
納得した顔ではない。それでも手を引いたのは、俺を守るために自分まで奪われれば意味がないと理解したからだ。理屈で止まってくれるあたり、彼女は俺よりよほど賢い。
その間にも、俺の左手は白く硬くなっていく。指の関節が曲がらない。皮膚の表面へ細い罫線が浮かんでいた。
紙になる途中の自分の腕というのは、見ていて愉快なものではない。紙質だけなら上等そうなのが、なお腹立たしかった。
俺たちが落ちた場所は、円筒形の石室だった。
湿り気のない冷気が底に溜まり、声が何度も壁を回って戻ってくる。天井の穴は遠く、小さな灰色の染みにしか見えない。
壁一面に棚が彫られている。並んでいるのは本でも石板でもない。人の腕ほどある筆軸だ。先端には黒ずんだ骨が差し込まれ、乾いた赤い毛が束ねられている。
一本ごとに名札が付いていた。
だが、名の大半は焼けて読めない。
「代替筆……」
リゼが低く呟いた。
「ああ。王名に欠落が出たとき、人間を材料にして埋めるための予備だ」
「これが、全て人だったというのか」
「術式の主張ではな」
胸の奥で吐き気が膨らむ。
材料にされた者が何者だったのか。どこから連れてこられたのか。泣いたのか、抵抗したのか、誰かが帰りを待っていたのか。今となっては名すら読めない。
人を使い潰したうえで、その名まで焼く。
この国は歴史の保存が下手だと思っていたが、逆だった。保存して都合の悪い部分だけ、ひどく几帳面に消している。几帳面さを善いことに使えないのは、役人も古代人も同じらしい。
「ノエル、中央だ!」
リゼが叫ぶ。
石室の中央に一本だけ空の台座があった。
俺の手首から伸びる黒い文字が、その台座へつながっている。表面に刻まれた文が白く輝き始めた。
『代替筆を収め、欠落の時まで眠らせよ』
左腕が台座へ引かれた。
肩が抜けそうな力だった。靴底が石床を滑り、乾いた粉が帯のように残る。
獣たちが俺の胴と脚へ噛みつく。牙は外套だけを正確に捉え、全身で後ろへ引いた。それでも黒い文は縮み続ける。
あと三歩。
台座の穴から赤い針がせり上がった。
太さは指ほど。先端には『穿て』の文字。
あれが腕を貫けば、俺は筆になる。
魔力ゼロの俺を筆にして何を書くつもりなのか。そこだけは少し興味があったが、実演に付き合う気はない。知的好奇心と自殺願望は、きちんと別の棚へ収めておくべきだ。
「ピピ、灯りを!」
「ぺかっとするのら!」
襟から飛び出したピピが光る。震えて輪郭を崩しながらも、いつもより強く輝いた。石室の文が一斉に浮かび上がった。
俺は台座の術式を読む。
『返却対象を受け入れよ』
『代替筆を収めよ』
『欠落の時まで眠らせよ』
どれを書き換える。
『受け入れよ』を『拒め』にはできない。形が違いすぎる。『眠らせよ』を『起こせ』へ折るにも画数が足りない。
一語だけだ。
俺にできるのは奇跡でも破壊でもない。すでに書かれた命令の継ぎ目へ指を差し込み、意味の流れをほんの少しだけ変えること。それだけで、外せば終わる。
黒い文字が肘を越えた。
左腕の感覚が消える。
「まだか!」
「急かすな。俺は早筆で写し間違えて追放されたくちだ」
「もう追放されている!」
「なら失う職もないな!」
台座まで二歩。
赤い針が回転を始める。石を削るような低い音が腹へ響き、先端から錆びた血の臭いが立った。
俺は文の主語ではなく、その下に刻まれた注記を見つけた。
『返却された筆は、王の所有とする』
王の所有。
いつもそれだ。
名も、血も、命も、王冠の穴を埋めるためにあると思っている。人間を文章の空欄へ押し込み、はみ出した部分は焼いて消す。それを秩序と呼ぶなら、ずいぶん紙臭い秩序だ。
だが『王』をまた『己』へ変えても、今度はまずい。俺自身の所有と読まれれば、収蔵の命令は残る。自分で自分を筆箱へしまう間抜けが完成するだけだ。
なら、変えるのは『所有』だ。
古代語の『所有』は、囲いの中へ手を入れた形をしている。
その手を外へ出す。
一画を開けば、『委ねる』になる。
台座まで一歩。
「リゼ、押してくれ!」
「どちらへだ!」
「前だ!」
獣たちが一斉に唸った。俺を後ろへ引いていた牙が緩む。
リゼだけは迷わなかった。
背中を蹴った。
「遠慮がない!」
「望みどおりだ!」
俺は台座へ飛び込んだ。
赤い針が左手を狙う。その直前、右手の指を注記へ押しつけた。
冷気が爪の隙間へ食い込む。
囲いを裂く。
中の手を外へ向ける。
たった一画。だが、指先には岩壁をこじ開けるような抵抗があった。爪が割れ、血が文字の溝へにじむ。それでも止めない。
『返却された筆は、王の所有とする』
その一語を――
『返却された筆は、王へ委ねるとする』
へ書き換えた。
術式が止まった。
回転音が途切れ、静寂が耳を圧した。赤い針は俺の掌から髪一本ほどのところで止まっている。
王へ委ねる。
つまり、王が受け取るかどうかを決めなければならない。
今、この国に即位した王はいない。
王冠は俺を候補に選び、俺はそれを拒んだ。王家の血があろうと、第一校正者であろうと、空席へ返事はできない。
『受領者不在』
台座にその四字が浮かぶ。
「残念だったな」
俺は赤い針へ言った。
「俺を持ち物にしたければ、まず王を連れてこい」
『返却不能』
「そのとおり」
『対象へ返送する』
黒い文字が手首から剥がれた。
乾いた紙を破るような音を立て、黒い綴りが宙でほどけて消える。
白く硬化していた腕へ血の色が戻る。罫線が消え、指が動いた。痛みまでまとめて戻ってきたので、思わず呻く。命というものは返却時の梱包が雑だ。
「ノエル」
リゼが肩を支える。その手は温かく、爪は今度こそ立っていなかった。
「生きている」
「見ればわかる」
「確認しただけだ」
「なら俺も確認する。背中を蹴る必要は、あそこまであったか?」
「望みどおりだっただろう」
反論できないのが悔しい。
台座から光があふれた。
上へ続く螺旋状の文字が組み上がる。石の階段ではない。『上がれ』という命令そのものが、足場になっている。
白い獣が最初の一段へ前脚を置いた。
「先に行け」
「おまえは」
「俺も行く。ここに残る理由はない」
獣はしばらく俺を見てから、仲間を促した。一頭ずつ文字の階段を上っていく。
傷ついた者を中央に置き、まだ力のある者が前後を固める。言葉を交わさずとも、誰も彼らへ順番を命じてはいなかった。
命令ではない。
誰から上がるか、誰が最後を守るか、彼ら自身が決めていた。
今日ひとつ片づいたことがあるとすれば、それで十分だ。
俺たちは筆でも、器でも、付属品でもない。
返される先くらい、自分で選んでいい。
「ノエル」
リゼが壁際で呼んだ。
声の調子が変わっていた。勝ち残った安堵を、一息で消すほど硬い声だった。
一本の筆軸を抱えている。棚から落ち、表面の煤が剥がれたらしい。
「それには触るな。収蔵術式が残っているかもしれない」
「違う。名札を読め」
ピピの光が名札を照らした。小さな文字の身体が俺の肩口で息を詰めるように縮む。
焼け残った古代語を、俺は声に出さず読んだ。
『初代代替筆 アルクム』
胸の奥に、冷たいものが沈んだ。
その下に、収蔵状態を示す新しい文字が赤く点灯する。
『筆身は王都外へ搬出済み。現在も稼働中』
祖父の筆は、今もどこかで国の欠落を書かされ続けている。
死者として悼むことすら許さず、道具として動かし続ける。怒りはあった。だが、それより先に頭の中で文字が並び始めた。搬出日、搬出先、命令者、用途。記録があるなら、道筋もある。
俺は文字の階段へ背を向け、収蔵部の搬出記録を探し始めた。
(第72話へ続く)




