命は、持ち主へ返せ
地下道を進むほど、鎖の音は遠ざかるどころか増えていった。
正確には、音の数が増えたのではない。
何十本もの鎖が、同じ方向へ引かれている。
石床を爪で掻く音。喉の奥で押し殺した唸り。肉と血と、長く洗われていない獣毛の臭い。湿った地下の空気に混じり、吸い込むたび舌の上へ鉄錆の味が残った。
先頭を歩くリゼの銀毛も、逆立っていた。
「下に何がある」
「文字なら読める。地下の構造を聞かれても、元写本係の待遇には測量技術まで含まれていない」
「今度、給金を増やすよう伯父上に言っておく」
「生還への意欲が急に三割ほど上がった」
「三割なのら?」
「残り七割は、今にも折れそうな階段を見て減った」
壁際の階段は、踏むたび細かな石屑を暗闇へこぼしていた。底へ落ちる音は聞こえない。給金が倍になっても、落下中に受け取る方法までは思いつかなかった。
ピピが俺の肩で鼻をひくつかせる。文字でできた小さな体なのに、くしゃみだけは妙に一人前だ。
「くしゅん、なのら! 下に大きな文があるのら。ピピの『返』が、そこにはまりたがってるのら」
「文字に帰巣本能があるとは聞いていないぞ」
「ピピも今知ったのら」
嫌な知識というものは、たいてい命の危険と抱き合わせで届く。親切な贈り物とは言い難い。
階段を下りきると、円形の空間へ出た。
天井は低く、中央には王冠に似た石の輪が据えられている。その周りを、獣たちが取り囲んでいた。
いや、取り囲んでいるのではない。
鎖で引き寄せられているのだ。
首輪から伸びた鎖が石の輪へ吸い込まれ、一尺、また一尺と短くなる。獣たちは四肢を踏ん張っていた。爪が割れ、石床に血の筋が残っても、鎖は止まらない。誰かが逃れようと身をよじるたび、ほかの鎖まで甲高く震えた。
あの白い獣だけが、石の輪の上に立っていた。
腹の中で『返』が光っている。白い毛皮を透かして脈打つ銀光は、心臓とは別の鼓動を無理やり埋め込まれたように見えた。
「リゼ。あれを倒せるか」
「倒すだけなら」
「殺すなよ」
「注文が多い」
「給金を上げると言った人間の責任だ」
リゼが低く身を沈めた。銀毛の間からのぞく筋肉が張り、石床に爪が食い込む。
次の瞬間には銀の影が走っている。
白い獣も跳んだ。二頭の爪がぶつかり、石を削る。火花が散り、耳の奥まで衝撃が響いた。体格は白い獣のほうが上だ。だが、動きはリゼのほうが速い。
リゼは牙を紙一重でかわし、相手の首へ腕を回した。そのまま勢いを殺さず床へ引き倒す。巨体が落ち、足元が揺れた。
「今だ!」
「今と言われても、文字は腹の中だぞ!」
「なら読め!」
「騎士は写本係を何だと思っている!」
「無茶を通す専門家だ!」
反論したいが、これまでの実績が邪魔をした。人間、働きぶりを認められるのも考えものである。
俺は石の輪へ駆け寄った。
表面を埋める古代文字は、欠けた一字を待っていた。白い獣の腹が光るたび、空白の縁も脈打つ。指を近づけると、まだ触れてもいない皮膚がひりついた。
読む。
『選定を終えたのち、王たらぬ器より命を徴し、王へ返せ』
口の中が苦くなった。
「王になれなかった者は、命を返せ、だと」
選ばれなかった獣たちは、失敗作ですらなかった。
王を作るための貯蔵庫だ。
王血と獣性を体に入れられ、鎖につながれ、必要になれば命まで王冠へ回収される。
選ぶ機会を奪っておいて、選ばれなかった責任だけは本人に払わせる。ずいぶん立派な王の作り方である。立派すぎて、作った者の顔へ石板ごと叩きつけたくなる。もっとも、俺の腕力では石板を持ち上げた時点で腰が終わる。腹立たしいことに、悪意へ報復するにも体力が要る。
「ノエル!」
鎖が一気に縮んだ。
一頭の獣が前脚をすくわれ、石の輪へ引きずられる。爪が石へ食い込み、嫌な音を立てて剥がれた。毛の間から赤い文字が浮かび、輪の内側へ吸い込まれ始める。
あれは命を示す文だ。
呼吸、熱、記憶。生きている者をその者たらしめる記述が、一行ずつ奪われていく。
全部抜かれれば、残るのは獣の形をした死骸だけになる。
「ピピ、『返』を止められるか!」
「無理なのら! もう文につながってるのら!」
「おまえの字だろう!」
「でも、今のピピの名前じゃないのら!」
胸を刺されたような言葉だった。
だが、それでいい。
ピピはもう、『返』を失った残りものではない。『語る者』として自分を選んだ。俺が勝手に昔の一字へ押し戻せば、目の前の王冠とやっていることは大差ない。
ならば、あの一字をピピへ戻すことだけが答えではない。
「文を変える!」
石の輪へ手を伸ばす。
だが、白い獣がリゼを振りほどいた。巨体が横からぶつかり、俺の体が床を転がる。肩、背中、後頭部の順で石へ打ちつけられ、視界が白く弾けた。
息が抜けた。
白い前脚が胸を押さえつける。爪の一本が喉元へ触れた。少し力を込められれば、俺という短い文章はそこで終わる。
近い。
獣の口から、腐った血の臭いがする。唾液の糸が牙から垂れ、頬の横へ落ちた。
その奥に、古代文字が見えた。
『運べ』
白い獣自身の命令ではない。
腹に入れた『返』を空白まで運べと、舌に刻まれている。意思を奪う文は、いつ見ても簡潔だ。命令する側は一語で済み、従わされる側だけが長く苦しむ。
「おまえも……命令されていただけか」
獣の牙が震えた。
爪は俺の喉を裂かなかった。
代わりに、石の輪の空白へ顔を向ける。瞳の中で銀の光と恐怖がせめぎ合っていた。
行きたくないのだ。
それでも腹の文字が、体を引っ張っている。
「リゼ、押さえるな!」
飛びかかろうとしたリゼが足を止める。
「正気か!」
「俺にそれを聞くのは今さらだ!」
俺は白い獣の顎へ手を添えた。毛は汗と血で固まり、その下の筋肉が小刻みに震えていた。
「おまえが運ばなければ、ほかの獣が死ぬ。だが、運べばおまえも命を奪う側になる」
喉の奥から、細い声が漏れた。
唸りではない。
「……いや、だ」
人の言葉だった。
長い時間、獣の形に閉じ込められても、選ぶ声は残っていた。掠れて、今にも消えそうで、それでも命令より確かな声だった。
「なら、運べ」
白い獣の目が俺を見る。
「命令に従うためじゃない。あの文を、俺の指が届く場所まで運んでくれ」
「ノエル、それでは発動するぞ」
「ああ。発動しなければ、文字が全部露出しない」
「失敗したら?」
「俺たち全員、王冠への豪華な寄付になる」
「二度と寄付という言葉を使うな」
リゼの声は低かった。冗談が気に入らないのではない。怖いのだ。俺も同じなので、そこは仲よく認めないことにした。
白い獣が、俺の上から退いた。
一歩ずつ石の輪へ向かう。命令に引かれてではない。自分で選んだ足取りは遅く、重く、それでも一度も止まらなかった。
腹の『返』が浮かび上がり、銀色の一字となって空白へ飛び込んだ。
文が完成する。
『選定を終えたのち、王たらぬ器より命を徴し、王へ返せ』
石室全体が鳴った。
獣たちの体から、赤い文字が噴き出す。悲鳴が重なり、天井から砂が降った。胸の奥まで震わせる声の中で、石の輪だけが満足げに白く輝いている。
俺は石の輪へ飛びついた。
狙うのは『返』ではない。
返すという働きそのものは、もう走り始めている。あれを別の言葉へ折り直すには画数が足りない。間に合わない。
ならば、返す相手を変える。
指先を『王』へ押し当てた。
焼ける。
皮膚ではなく、骨の内側へ熱い針を差し込まれる感覚だった。石の輪が書き換えを拒み、俺の指を弾こうとする。俺には魔力がない。力で押さえつけることも、術式を壊すこともできない。
読んで、一語だけ書き換える。
いつもどおり、俺にあるのはそれだけだ。
「ノエル!」
リゼの腕が背後から俺の腰を支えた。獣毛越しの体温と、血と汗の臭いが背中を包む。
「離すな!」
「そのつもりだ!」
俺は『王』の縦画を折った。左右へ開いた線を内側へ戻す。王座へ伸びる意味を、自分へ向ける。
新しい文字を書くのではない。
そこにある傲慢な一字を、身の丈に合う形へ畳む。
『王』から――『己』へ。
「命は、持ち主へ返せ!」
最後の線をつないだ。
『選定を終えたのち、王たらぬ器より命を徴し、己へ返せ』
吸い上げられていた赤い文字が止まった。
一瞬、石室が無音になる。
次いで、石の輪へ集まった文字が逆流した。
一頭一頭へ、別々に戻っていく。
傷口へ。胸へ。喉へ。
赤い文字が触れるたび、止まりかけていた呼吸が戻る。伏せた耳が動き、濁った瞳に光が差した。
誰の命も、王冠には渡らない。
命は、それを生きる者へ返った。
鎖が床へ落ちた。
白い獣が膝をつく。リゼが駆け寄ったが、獣は自分で前脚を立て直した。震えてはいても、それはもう命令に引かれる震えではない。
「立てるか」
俺が尋ねると、獣はゆっくりうなずいた。
人の姿には戻らない。これで獣化そのものが消えたわけではない。
都合のよい奇跡なら、俺より魔力のある連中へ頼んでほしい。俺にできるのは、間違った命令の行き先を直すことだけだ。
それでも、獣たちの目から強制の赤い光は消えていた。
一頭が鎖の外へ足を出す。足先を恐る恐る床へ置き、何にも引き戻されないと知って、もう一歩進んだ。
続いて、もう一頭。
白い獣が俺の前で頭を下げた。
「礼はいらない。俺はおまえたちの姿も、奪われた時間も返せていない」
「それでも」
ひどく掠れた声だった。
「選べる」
「ああ」
それだけは返せた。
小さな返却だ。だが、誰かの人生を勝手に使い潰す連中に対しては、それで十分な反逆になる。
ピピが白い獣の鼻先へ飛んでいく。
「ピピの『返』を運んでくれて、ありがとうなのら」
「返さなくて……いいのか」
「ピピはもう、語る者なのら。返す字は、返したいものがあるひとに貸すのら」
胸を張るピピを見て、俺は少しだけ笑った。
「貸出料は取るのか?」
「上等なインク三壺なのら」
「急に立派な利権が生まれたな」
リゼが呆れたように鼻を鳴らした。その音に緊張がほどけかけた、まさにそのときだった。
石の輪の内側で音がした。
かちり、と。
書き換えた『己』とは別の場所に、新しい一文が浮かび上がる。
『返却未了、一件』
嫌な予感ほど、読み間違えない。
次の文字が現れるより先に退こうとした。
だが、石床から伸びた黒い文字が俺の手首へ巻きついた。冷たい。先ほどの熱とは逆に、骨の髄から体温を奪われる。
リゼが腕をつかむ。白い獣も鎖を踏んだ。それでも黒い文は床の下へ俺を引きずっていく。靴底が石を擦り、指一本ぶん、また一本ぶんと石の輪へ近づいた。
石の輪に、返却対象の名が刻まれた。
『代替筆――ノエル・アルクム』
なるほど。王冠は帳尻合わせまでお好きらしい。
そして俺の足元で、地下よりさらに下へ続く穴が開いた。
(第71話へ続く)




