一字欠けても、名前は欠けない
掌の上で、ピピの輪郭がほどけていた。
胸から『返』を食いちぎられた穴へ、周囲の文字が吸い込まれていく。腕を形作っていた線が一本抜け、頬の丸みが崩れた。床へ落ちた銀光は、着地する前に意味を失って消えた。
「ピピ。俺がわかるか」
「わかる……のら」
返事はあった。
だが、いつもの語尾がひどく遠い。
リゼが地下道へ目を向けた。白い獣はもう見えない。湿った獣毛と血の臭いだけが、冷えた空気に残っている。
「追うか」
「いや」
俺は即答した。
食いちぎられた文字を取り返せば、元に戻せるかもしれない。だが今から追えば、ピピはもたない。
俺は追跡も剣術も苦手だが、見捨てる判断だけは早い――などという特技まで増やすつもりはなかった。
「先にピピを直す」
リゼは一度だけうなずくと、俺たちを背にかばって地下道へ向き直った。銀毛が両腕を覆い、爪が伸びる。
「任せろ。何が戻ってきても通さない」
「助かる」
「ただし急げ。血の臭いで、別のものまで寄ってくる」
言われて自分の腕を見る。裂けた袖に巻かれた布は、もう赤黒く濡れていた。狼の毛、汗、地下の黴、古い獣脂。感動的な別れの直後とは思えないほど、戴冠室は生き物らしい臭いで満ちている。
少なくとも、俺たちはまだ生きていた。
ピピも、まだ。
「読むぞ」
俺は膝をつき、ピピを外套の上へ寝かせた。
小さな体は文章でできている。頭には『見る』、耳には『聞く』、腹には『蓄える』。足には『進む』と『戻る』が絡み合い、胸の中央に名の核がある。
『繰り返す者』
灯り石からこぼれた命令の残響。
それがピピの始まりだった。
今は『繰り す者』になっている。
言葉として壊れていた。
命令は意味を失うと止まる。普通の術式なら、それで済む。灯りが消える。扉が開かなくなる。井戸の水が腐る。
だがピピの場合、止まるのは体だ。
「ノエル」
リゼが低く呼んだ。
「わかっている」
床へ落ちた文字の欠片を拾おうとしたが、指をすり抜けて消えた。
欠けた『返』を新しく書くことはできない。
俺には魔力がない。空白へ正しい文字を知った顔で書き込んでも、できあがるのは字の上手な落書きだ。写本係としては褒められるかもしれないが、葬儀の準備としては最低である。
できるのは、残っている術式を一語だけ書き換えること。
つまり『繰り返す』を、別の意味へ変える。
だが、それは修理ではない。
ピピの生まれた意味を、俺の都合で捨てさせることになる。
「ピピ、聞け」
「聞いてる……のら」
「『返』は今すぐ取り戻せない。このままだと、おまえの文は崩れる」
「崩れると、どうなるのら?」
「喋れなくなる。動けなくなる。そのあと全部の文字がほどける」
嘘で包むには、ピピは文字を知りすぎている。
小さな手が、自分の胸の穴へ触れた。指先が欠け、一本の横画になって外套へ落ちる。
「ピピ、いなくなるのら?」
「いなくさせない」
言い切ってから、俺は続けた。
「ただ、元と同じにはできない。『繰り返す』を、残った文字で別の一語へ書き換える。おまえを支える意味そのものが変わる」
「ピピじゃなくなるのら?」
その問いに、喉が詰まった。
術式なら答えは簡単だ。用途が変われば、別の術式だ。『閉じる門』を『逃がす道』へ変えれば、働きはまるで違う。
だが、人に同じ理屈を当てはめる者を、俺は嫌というほど見てきた。
王の血があるから王。
魔力がないから不要。
獣の姿になれるから、王冠へ保管するもの。
役目を名前へ縫いつければ、人を道具にするのは簡単だ。
「ならない」
俺は答えた。
「おまえの始まりが『繰り返す者』でも、それは役目だ。名前じゃない」
「でも、ピピは『繰り返す者』だからピピなのら」
「俺だって写本係だからノエルになったわけじゃない。職を追われても名前は残った。残念ながらな。借金の請求先まできちんと俺のままだ」
ピピの口元が、ほんの少し持ち上がった。
「リゼも、獣になったからリゼじゃない」
背を向けたまま、リゼが言う。
「騎士でなくなっても、たぶん私だ。確かめたことはないが」
「そこは自信を持ってくれ」
「おまえが先に持て」
もっともだった。瀕死の相棒を挟んで言い負かされると、普段より二割ほど腹が立つ。
だが、ピピは笑った。
かすれた、小さな笑いだった。
「何に、書き換えるのら?」
「候補はある」
俺は崩れかけた胸の文を読む。
残っている線で形を作れなければならない。意味が広すぎても、狭すぎても駄目だ。『留まる』なら崩壊は止まるかもしれないが、動けなくなる。『眠る』なら保てる可能性はあるが、目覚める条件がない。
そして、こいつはよく喋る。
腹が減った。インクが薄い。リゼが怖い。ノエルは字ばかり見ている。だいたい余計な一言だが、その余計な一言に何度も助けられた。
「『語る者』」
俺は言った。
「『繰り返す』を『語る』へ変える。おまえの声を、体の核にする」
「語る……」
「何を語るかは、おまえが決めろ。命令された文を繰り返すんじゃない。見たものでも、食べたいインクでも、俺への苦情でもいい」
「苦情はいっぱいあるのら」
「知っている。だから向いている」
ピピは胸の穴を見下ろした。
また一画が抜ける。
時間がない。
それでも俺は待った。
名の核を書き換えるなら、決めるのは俺ではない。王冠の命令を『己』へ変えた直後に、俺が相棒の意味を勝手に選んでは、皮肉にも出来が悪すぎる。
「ピピは、語りたいのら」
小さな手が俺の指をつかんだ。
「ノエルとリゼと見たことを、忘れないように語るのら。コルムにも、ハンナにも、いっぱい語るのら」
「ああ」
「それから、おいしいインクの順番も語るのら」
「それは胸の内へしまっておけ」
「嫌なのら」
いつもの調子だった。
俺はインク壺を取り出した。中身は底にわずかしか残っていない。ピピが三日かけて舐める量を、指先へ全部つけた。
「始める。痛ければ噛め」
「ノエルの指はおいしくなさそうなのら」
「誰が味の感想を求めた」
胸の文字へ触れる。
冷たい。
生き物の肌ではなく、雨ざらしの石碑に触れたような冷たさだった。
『繰り す』
壊れた一語の残りを読む。指で縦画を倒し、余った曲線を内側へ折る。消すことはできない。だから一画も捨てず、次の文字の骨へ組み込んでいく。
巡回する術式なら、数秒で元の文へ戻ろうとする。
だが、この文はピピ自身だ。
「言え、ピピ」
「何をのら?」
「おまえが何者かだ」
黒いインクが銀光へ沈む。
欠けた場所を避け、残った線同士をつなぐ。新しく書くのではない。そこにある一語を、別の形へ折り直す。
「ピピは――」
小さな指が、俺の爪へ食い込んだ。
「語る者なのら!」
最後の横画がつながった。
『語る者』
銀色の光が胸から広がる。
頭へ、腕へ、腹へ、足へ。ほどけていた文字が逆流するように戻り、輪郭を結び直した。
ピピの体が大きく跳ねた。
「のらあっ!」
俺の鼻先へ頭突きが入った。
「痛っ」
「痛いのら! 胸がぎゅうっとしたのら!」
「先に言っただろう!」
「だからノエルも痛くしたのら!」
胸を押さえながら飛び回る姿は、先ほどまで消えかけていたとは思えない。光は以前より少し青く、声は以前より明らかにうるさい。
リゼが振り返り、長く息を吐いた。銀毛の間には汗が光り、獣の臭いに混じって鉄錆のような血の臭いがした。
「成功か」
「ああ。『繰り返す者』には戻せなかったが」
ピピが俺の肩へ着地する。
「ピピはピピなのら」
「そうだな」
「そして語る者なのら。まずノエルが泣きそうな顔をしていたことから語るのら」
「その一語だけ元へ戻していいか?」
「横暴なのら!」
怒鳴る元気がある。
それで十分だった。
俺はピピの胸へそっと触れた。『語る者』は安定している。書き換えを押し戻す力もない。ピピ自身が、その意味を選び、支えている。
ただし、空いたままの場所が一つあった。
食いちぎられた『返』は戻っていない。
あの一字は今も、白い獣の腹の中にある。
「ピピ。盗まれた字の場所はわかるか」
ピピは鼻らしき一画をひくつかせ、地下道を指さした。
「わかるのら。ピピの字だからじゃないのら。あの『返』が、下で何かを帰し始めてるのら」
遠くで、石の擦れる振動が足裏へ届いた。
俺は立ち上がり、残り少ないインク壺を懐へしまう。傷んだ腕をリゼが支えた。
「次はひとりで飛び込むな」
「わかっている」
「本当に?」
「努力目標としてはかなり高い位置に置いた」
リゼが俺の襟首をつかんだ。これで強制的に達成されそうである。
俺はピピを肩へ乗せ、白い獣が消えた地下道へ足を踏み入れた。
取り返すためではない。
あの『返』が何を帰そうとしているのか、発動する前に読み替えるためだ。
(第70話へ続く)




