選ばれなかった獣たち
最初に階段から現れたのは、狼に似た何かだった。
似た、としか言えない。肩まで俺の胸ほどあり、銀灰色の毛皮の下では、骨が多すぎる脚が不自然にうねっている。歩くたび、関節が一つ余計に折れ、石床を引っかく爪の音が耳障りに跳ね返った。
首には黒い金属の輪。その輪から伸びた鎖が、階段の闇へずるずると続いていた。錆と獣脂と、長く閉ざされた地下の湿気が混じった臭いが鼻を刺す。
次に、角の生えた獅子。六本脚の熊。顔の半分を白い甲殻に覆われた大犬。
どれも違う姿なのに、目だけは同じだった。
文字が詰まっている。
瞳の奥で、銀色の古代文字が水底の虫のように蠢いていた。こちらを見ているのは獣なのか、獣へ命令を書き込んだ者なのか。どちらにせよ、友好的な歓迎には見えない。
「閉じられないのか」
扉の向こうで老王が問う。声は落ち着いているが、半開きの石扉を押さえる腕には筋が浮いていた。
「閉じる命令は地下です。たぶん、あの群れの向こう側ですね」
「便利な場所にあるものだな」
「作った者は、写本係が朝食前に潜ることを想定していなかったのでしょう」
俺は魔力ゼロだ。火花一つ撃てない。そのうえ朝食もまだだ。古代の設計者が嫌う侵入者としては、なかなか完成度が高い。
獣たちが一斉に顔を上げた。
湿った鼻が空気を吸い、低い唸りがいくつも重なる。胸の奥まで震わせる音だった。
視線がリゼへ集まる。
首輪の文字が銀色に点った。
『可逆守護形態を確認』
『未回収形態、継承候補へ合流せよ』
「合流?」
嫌な言葉だった。
軍なら味方が来る意味だが、術式ではそうとは限らない。水へ泥が合流しても、泥が援軍になったとは誰も言わない。
先頭の狼が床を蹴った。
速い。灰色の塊が視界を塞ぐより先に、リゼが俺を背後へ押した。背中が彼女の肩にぶつかり、息が詰まる。
リゼは右手を開いた。手の甲に残った銀の紋様が光り、指先から爪が伸びる。腕だけを銀毛が覆い、青い瞳の瞳孔が細くなった。
彼女が選んだ力だ。
自分で開き、自分で閉じる。その最初の使い道が、俺を大型獣の朝食から外すことらしい。名誉ではあるが、できればもっと穏当な就任式がよかった。
狼の牙とリゼの爪がぶつかった。
硬い音が戴冠室に響く。火花が散り、狼の涎が石床へ糸を引いた。リゼは狼の鼻先を横へ逸らし、その勢いのまま腰を落として床へ投げる。
だが倒れた狼の背後から、角獅子が跳んだ。
「右!」
「見えている!」
リゼの蹴りが顎を打ち抜く。鈍い衝撃が靴底から響き、角獅子は階段へ転がった。だが、その体を踏み越えて、さらに三頭が上ってくる。
階下では鎖と爪の音が絶えない。見えている数で全部ではないらしい。人生には知らないほうが幸福な情報もあるが、大抵そういう情報ほど向こうから列を作ってやってくる。
「多いのら!」
俺の肩でピピが叫び、直後に盛大なくしゃみをした。
「へくちっ、へくちっ、全部、文字くさいのら!」
「生きた獣ではないのか」
「生きてるのと、書かれてるのが混ざってるのら! 毛の下まで命令だらけなのら!」
最悪の混ぜ方だった。
俺は倒れた狼の首輪へ目を凝らした。動く術式を読むのは、走る馬車の車輪に書かれた契約書を読むようなものだ。しかも読み損ねれば、抗議ではなく牙が来る。
『形態記録、第三十三』
『候補者が不採用とした守護形態を保存』
『次代の適合者が可逆選択を行った場合、肉体および記憶へ統合する』
俺は息を呑んだ。
「こいつらは、以前の候補者が選ばなかった姿だ」
王冠は選択肢を捨てなかった。
爪も、牙も、怒りも、戦うために削られた心も。次の候補者へ押し込むため、獣の形を与えて地下へつないでいたのだ。
獣の姿をしているだけで、ここにいるのは失敗作ではない。誰かが拒み、けれど消されることすら許されず、次の誰かを待たされた可能性だ。
リゼが可逆守護形態を選んだことで、保管庫が開いた。
選べと言いながら、選ばなかったものまで後から押しつける。王冠というものは、ずいぶん未練深い。権力者の贈り物には返却用の包み紙が必要だと、改めて思う。
「統合されたらどうなる」
リゼが熊の前脚を受け止めながら聞く。六本の脚が床を掻き、石の粉が舞った。彼女の靴が指一本分ずつ後ろへ滑っていく。
「人格の恒常保持が、何十頭分の記憶に耐えられる保証はない」
「簡潔に言え」
「おまえがおまえでなくなる」
リゼの爪が床へ食い込んだ。
熊を押し返す。だが殺せない。獣たちは命令されているだけだ。しかも、その体には選ばれなかった誰かの恐怖と痛みが残っている。
こちらを食い殺そうとしているからといって、好きで牙を向けているとは限らない。それを知ってしまった以上、知らなかった顔で斬り捨てることはできなかった。
「斬るなと言うのだろう」
「弱い立場の相手には誠実でいたい」
「その誠実さで私の仕事が三倍になる」
「すまない」
「謝るなら、早く読め!」
もっともだった。
獣の首輪から伸びる鎖を追う。すべての鎖は階段の底へ続いているように見えたが、違う。床を擦る鎖の重なりを目でほどくと、途中で枝分かれし、先頭の狼の首輪へ集まっている。
あれが群れの命令文だ。
触れれば書き換えられる。
触れられれば、だが。
狼は起き上がり、低く身を沈めていた。喉の奥で鳴る唸りに合わせ、首輪の文字が明滅している。首輪は牙のすぐ下。写本係の指を置く場所としては、悪意ある高さである。
「リゼ。三秒止められるか」
「二秒だ」
「値切るな」
「残り一秒はおまえが稼げ」
騎士団長代理の算術は、負傷手当の算定時に詳しく検査したほうがいい。
俺は外套の内側からインク壺を抜いた。残りは底に指一本分。投げつければ目くらましにはなるが、ピピの昼食を失う。
「ノエル、それは高級なのら!」
「命へ銘柄をつけたのはおまえだ」
「せめて安いほうを投げるのら!」
「持っていたらそうした!」
狼が跳んだ。
俺はインク壺を床へ投げた。陶器が割れ、黒い液が狼の前脚へ扇状に広がる。ピピが「あああ」と腹の底から悲鳴を上げたが、文字の獣は本能的に濃いインクを踏むのを避けた。
着地点が半歩ずれる。
たった半歩。だがリゼには十分だった。
彼女がその半歩へ滑り込み、狼の顎を下からつかんだ。左腕を首へ回し、全身で床へ押さえ込む。狼の爪が石を抉り、破片が頬をかすめた。
「今だ!」
俺は駆けた。
角獅子が横から迫る。開いた口の奥から、生暖かい息が吹きつけた。
老王が扉越しに投げた燭台が、その鼻先へ当たった。威力はない。だが一瞬だけ顔が逸れた。
王が写本係へ投げてよこす物として、燭台はかなり良心的だ。王冠より軽い。
狼の背へ膝から滑り込み、首輪へ手を伸ばす。
牙が目の前で閉じた。
袖が裂けた。腕に熱い痛みが走る。血が手首を伝い、指先へ落ちる。それでも指は、銀色に発光する一語へ届いた。
『保管された形態は、王冠の意思に従え』
消すことはできない。
命令そのものを壊すこともできない。
俺にできるのは、いつだって一語だけだ。たった一語で足りなければ、俺の能力はそこまでである。世の英雄譚なら覚醒でもする場面だろうが、写本係は納期の前でも急に筆が二本へ増えたりはしない。
なら、従う先を変える。
指についた血とインクを、文字の縦画へ押し込んだ。首輪の震えが爪の根元まで伝わる。形を折り、横画をつなぎ直す。
『王冠』を――『己』へ。
『保管された形態は、己の意思に従え』
首輪が激しく震えた。
狼から伸びる鎖へ光が走る。角獅子へ、熊へ、大犬へ。階段の闇にいるすべての獣へ、書き換えた一語が伝わっていく。
床を埋めていた唸り声が止んだ。
静寂が落ちた。荒い息遣いと、どこか遠くで水滴の落ちる音だけが残る。
俺の眼前で、狼の牙が開く。
噛まれる、と身を固くしたが、狼は俺の裂けた袖から口を離した。首を振ると、黒い輪が乾いた音を立てて外れる。
一頭。また一頭。
獣たちは自分で首輪を落としていった。
黒い輪が石床へぶつかる音は、鎖の音よりずっと軽かった。
角獅子は階段へ戻った。熊は戴冠室の天井を長く見上げたあと、その後に続く。大犬は扉の外から流れ込む風を嗅いだ。甲殻のない側の目を細めたが、やがて北へ続く地下道を選んだ。
命令ではない。
帰る者も、眠る者も、自分で決めている。
最後に狼がリゼの前へ立った。
リゼは爪を収めた。銀毛が腕から退き、人の手へ戻る。爪の跡と汗に汚れたその掌を、狼はしばらく見つめていた。
「私は、おまえたちを引き継がない」
リゼが静かに言う。
「だが、捨てもしない。行き先を選べ」
狼は彼女の手へ額を押し当てた。
湿った毛と獣脂の臭いが広がる。地下の黴臭さまで毛皮に染みついていた。決して美しい場面向きの匂いではなかったが、鼻をつまむ者はいなかった。
リゼの指が、ほんの一度だけ銀灰色の毛を撫でた。
やがて狼は身を離し、仲間を追って階段を下りていった。
鎖を引く音は、もうしなかった。
「終わったのら?」
「王冠の命令はな」
俺は床へ座り込んだ。緊張が切れると、膝が自分のものではないように震えた。腕の傷は浅い。外套の被害は深刻だ。王都へ来てから、人命より先に俺の衣服が尽きそうである。
リゼが布を裂き、俺の腕へ巻く。手つきは乱暴だが、傷口へ触れる指だけは慎重だった。
「また飛び込んだな」
「触らないと直せない」
「知っている。だから次も私を呼べ」
叱責の形をしていたが、意味は違わなかった。
ひとりで行くな、と彼女は言っている。
俺はうなずいた。
そのとき、ピピが肩から飛び降りた。
「待つのら。まだ一匹いるのら」
割れた床の縁に、小さな獣がうずくまっていた。子犬ほどの大きさで、濡れた白い毛に覆われている。呼吸に合わせて細い背が上下していたが、ほかの獣が去っても動かず、首輪も外していない。
首輪の一部だけが、黒く焼けていた。
書き換えた光が、そこだけを避けたように見えた。
ピピが近づく。文字でできた足が、散った石片の上を跳ねた。
「この子、命令の匂いが違うのら」
「離れろ、ピピ!」
白い獣の口が、耳まで裂けた。
飛びかかったのはリゼではない。俺でもない。
文字でできた小さな体へ牙を立て、一片の銀光を食いちぎると、白い獣はそのまま地下道へ走り去った。白い尾が闇へ溶けるまで、瞬き一つの間もなかった。
俺は床へ落ちたピピを両手ですくい上げた。
軽い。あまりにも軽い。
いつもなら掌の上で騒がしく跳ねる文字が、ほどけかけた糸のように揺れている。
胸を形作っていた文字列――『繰り返す者』から、『返』の一字だけが消えていた。
(第69話へ続く)




