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署名の主

 東の街道を、リゼの背に乗って駆けた。


 獣化したリゼは馬の二倍速い。速い、というより、地面を蹴るたびに風景のほうが後ろへ吹っ飛んでいく。俺はその銀の背にしがみつき、歯を食いしばりながら、自分の人生でいちばん情けない姿勢を更新していた。荷袋よりはまし、と思いたい。荷袋は悲鳴を上げないぶん、たぶん俺より上等だ。


 肩のピピが、耳元でひらひら震える。


『もうちょっと右のら! 焦げくさい、つよくなったのら!』


「右ってどっちだ、俺はいま上下の区別も怪しい!」


『ノエルの字が汚いほうの手のら!』


「両方だ!」


 傍から見たら、相当まぬけな絵面だと思う。銀色の獣にしがみつく魔力ゼロの男、その肩で文字の小鳥みたいなものが騒いでいる。勇壮な旅物語の挿絵には向かない。せいぜい、街道安全心得の悪い例だ。


 それでも、ピピの案内は正確だった。風に混じる焦げた石の匂いが、俺にもわかるくらい濃くなる。松脂の煙、熱された苔、古い術式が焼けるときの、鼻の奥にひっかかる苦い匂い。


 追いついたのは、東の峠の、朽ちた石橋の上だった。


 谷に渡された橋は、見た目だけならとうに寿命を終えていた。欄干は欠け、石畳の隙間から細い草が伸び、橋脚には雨と風が削った黒い筋が走っている。それでも崩れずに残っているのは、千年前の道路術式がまだ働いているからだ。


 その橋の中央に、ローブの男が一人、しゃがみ込んでいた。


 橋脚の根元に彫られた古代文字を——炙っている。


 松明の火で、術式の一画を、丁寧に、丁寧に、焼いていた。虫の足を一本ずつ抜く子供みたいな、いやな丁寧さだった。


 祈祷師モルグ。


 顔を上げた男は、痩せて、青白くて、不気味なほど穏やかに微笑んでいた。峠の風にローブの裾が揺れ、灰がぱらぱらと石の上に散る。その灰すら、彼の前では行儀よく落ちているように見えた。


「おや。……追っ手が来るとは聞いていたが、本物の『読み手』とはね。これは驚いた。二百年ぶりかな、君のような人は」


「その橋の術式、何を焼いてる」


 声が喉の奥でひっかかった。俺は剣も振れないし、魔法も撃てない。怒鳴ったところで石橋は直らない。だからせめて、読めるものを読まなきゃならない。


「『支えよ』の恒久節さ」モルグは悪びれもしない。「ここはね、千年前の道路術式。橋脚が朽ちても、術式が橋を『支え』続けている。私が『支えよ』を焼けば——次に重い荷馬車が渡ったとき、橋は落ちる。谷底まで、二十丈」


 俺は背筋が冷えた。


 谷底からは水音がした。見下ろせば、白い流れが針金みたいに細く光っている。あそこまで落ちたら、人は助からない。荷馬車ならなおさらだ。積み荷も馬も御者も、祈りの言葉を唱える暇すらなく砕ける。


「なんでそんなことを」


「ノエルさま!」


 声がして、振り返ると、街道の茂みからコルムが転がり出てきた。膝に泥をつけ、肩で息をしている。小柄な体に不釣り合いなほど真剣な顔だった。


「コルム!? なんでお前がここに!」


「村の入り口で、あの祈祷師、見たんだ! 井戸んとき村に来たやつだって、すぐわかった! 追っかけてきた!」


 この子は。字母表を渡したばっかりで、もう「見て見ぬふりができない」を実践してやがる。教えた俺が言うのもなんだけど、危なっかしくて仕方ない。芽が出るのが早すぎる。普通、もう少し水をやってからにしてほしい。


「下がってろ! あいつは——」


「災いが要るからだよ」


 モルグは、コルムを一瞥もせず、心底不思議そうに首を傾げた。


「考えてもごらん。この国の術式は、放っておけば、いつか全部『直って』しまう。自然に摩耗して、暴走して、やがて誰かが——たとえば君のような人が——直してしまう。そうしたら、神罰は消える。神罰が消えたら、教会は、何で人々を従える?」


「……だから、自分で災いを作ってる」


「『維持』しているのさ。神の威光をね。村が困れば祈り、布施が集まり、秩序が保たれる。私は二十年、この国の『神罰』を、手作業で支えてきた。崇高な仕事だと思わないか」


 吐き気がした。


 こいつは、金のためですらない。「神罰」という嘘を、世界に在らしめるために、人を、村を、橋を、二十年焼き続けてきた。火で文字を傷つけ、傷ついた文字で誰かを脅し、脅された誰かの祈りをまた燃料にする。よくできた炉だ。中にくべられているのが人の暮らしでなければ、感心してやってもよかった。


「リゼさん。あいつ、たぶん戦えます。気をつけて」


「言われずとも」


 リゼの声は低く、獣の喉を通って少し掠れていた。銀の腕が構えられる。彼女の体からは、走ってきた熱と獣化の匂いがした。鉄、汗、乾いた毛皮、そして抑え込んだ怒りの匂い。無臭の英雄なんてものがいるなら、それはたぶん銅像だけだ。


 リゼが踏み込もうとした——その瞬間。


 モルグが、橋脚の術式に、最後の一画を、焼き入れた。


 石橋が、軋んだ。


 腹の底に響く音だった。石が石として耐えることを諦めかける音。足下の石畳に細い亀裂が走り、欄干から小石がこぼれ落ちる。谷底までの長い沈黙のあと、水音がそれを受け取った。


「ああ、間に合ってしまった」モルグは微笑んだ。「君たちが橋の上にいる間にね。——支えを失った橋が、君たち諸共落ちるのが先か。私を捕らえるのが先か。さあ、『読み手』くん。直してごらん? 落ちる前に」


 橋が、傾き始めた。


 しかも——橋の向こう側に、コルムがいた。


 俺とリゼは橋の中央。コルムは、追ってきて、橋の入り口。傾いた橋が落ちれば、巻き込まれる。子供一人分の重さなんて、崩れる橋にとっては誤差だ。だが俺にとっては、誤差どころか全部だった。


「コルム! 動くな! その場で伏せろ!」


 コルムが目を見開き、言われた通りに石畳へ腹ばいになった。いい子だ。こんな場面でまで素直なのは、頼もしいのか、泣きたくなるのか、判断に困る。



 考える時間は、二秒もなかった。


 守るべきものが、三つ。リゼ。コルム。そして、この橋の下をいつか通る、顔も知らない誰か。

 守れる手は、一つ。


 俺にできるのは、古代語を読むこと。そして、術式を一語だけ書き換えること。それだけだ。魔力はない。祈りもない。奇跡の持ち合わせもない。財布の中身より少ない能力を、いま全財産みたいに握っている。


 焼かれた「支えよ」を彫り直す? 無理だ。石を彫る時間はない。橋はもう傾いてる。焼けた文字の縁は赤く脆く、指を近づけただけで熱が刺した。


 なら——巡回中の術式を、一語、書き換える。一時的でいい。橋が地面に縋りつく数秒を、稼げればいい。


 俺は傾く橋に這いつくばって、橋脚をまだ巡っている術式の文字列を、必死で読んだ。視界が斜めになる。石粉が頬を擦る。舌に砂の味がした。落ちるかもしれない恐怖で手が震えるのに、文字だけは不思議なほどはっきり浮かんで見えた。


 あった。


 『支えよ(スタル)』が死んだ今、生きてるのは——『朽ちよ(モルダ)』。橋が朽ちる速度を定めた、経年の術式。


 ペンを、走らせる。


 モルダの頭に一画。『モル・ダ』を『モル・グ』に。


 ——いや、待て。


 ふと、手が止まった。


 モルグ。


 この術式の『朽ちよ(モルダ)』を一画変えると『モルグ』になる。祈祷師の名と、同じ綴り。


 偶然か?


 焼けた石の匂いの中で、背筋だけが別の冷え方をした。名前はただの音じゃない。古代語では、綴りが働きを持つことがある。師匠が眠気まじりに言っていた。俺は眠気に負けて聞き流していた。昔の俺の首根っこをつかんで机に叩き戻したい。


 ……いや。今は、それどころじゃない。


 名前の意味を考えている間に、コルムが落ちる。リゼが落ちる。俺も落ちる。謎解きは生き残った後でやるものだ。死んだ写本係は誤字も直せない。


 俺は『朽ちよ』を『固まれ(ロルダ)』に書き換えた。


 傾いた橋が、ぴたりと、止まった。


 完全に戻ったわけじゃない。斜めのまま、息を止めたみたいに固まっただけだ。朽ちる速度をゼロに——つまり「今この瞬間の形のまま固定しろ」と命じた。数秒の延命。橋にとっては瞬き、俺たちにとっては命綱。その数秒で。


「リゼさん! 今!」


 銀の影が、跳んだ。


 リゼの獣腕が、橋の上のモルグの胴を捉え——寸前。


 モルグの姿が、ぐにゃりと、歪んだ。


 肉が裂けたのではない。骨が折れたのでもない。全身の古代文字が一斉に解けて、人の形が、文字の渦に崩れ落ちる。ローブも、皮膚も、青白い顔も、すべてが薄い墨のようにほどけていった。


 ——こいつ、人間じゃ、ない?


『……あついのら!! ノエル、こいつ、ピピと、おなじにおいのら!!』


 肩のピピが、悲鳴をあげた。小さな体を構成する文字が、怯えたようにばらつく。俺は反射的に肩をすくめた。守れるものなら守りたかったが、相変わらず俺の肩は頼りない。


 同じ匂い。

 術式の、残響。


 崩れゆくモルグが、最後に、俺を見て微笑んだ。人の表情の形をした、ひどく古い何かだった。


「いい一画だったよ、読み手くん。……ああ、そうだ。一つ、教えておこう。私を作った『署名の主』はね——君が直して回っている術式の、ぜんぶの、作者だ」


 文字の渦が、風に散る。


「この国はね。千年前から、たった一人の手で書かれた、一篇の長い長い術式なんだよ。君は今、その校正をしている。……作者の、許しもなく、ね」


 モルグは、消えた。


 あとには、橋の上に、青く燃える署名だけが、ぽつんと残った。火なのに熱を感じない。光なのに目に痛い。古代語の署名は、俺が王宮で見たものと同じ癖を持っていた。終筆の跳ね、余白の取り方、傲慢なくらい美しい線。


 見覚えがある、なんて生易しいものじゃない。写本係として何度も同じ筆跡を追った時の、指先に残るいやな確信があった。


 固定の術式が切れて、橋がまた軋む。


「まずい!」


 俺の足元が沈んだ。リゼが腕を伸ばし、俺の襟首をつかむ。首が締まって情けない声が出たが、生存に比べれば品位など安い。リゼはそのまま反対の腕でコルムを小脇に抱えた。荷物扱いだが、谷底行きよりはずっといい。


 俺たちは、橋から地面へ転がり落ちた。


 次の瞬間、背後で、轟音。


 支えを失った石橋が、谷底へ崩れ落ちていく。大きな石が砕け、小さな石が跳ね、白い水煙が谷間に上がった。誰も乗っていない、空の橋が。


 間に合った。全部、ぎりぎり。


 俺は土の上に仰向けになり、肺に入った空気を確かめた。生きている。肘は痛い。膝も痛い。つまり、かなり生きている。


「……ノエルさま、すげえ。字、書いただけで、橋、止めた」


 腕の中のコルムが、震える声で言った。恐怖半分、興奮半分。目の奥がまだ揺れている。子供に見せるには、少々刺激が強すぎる授業だった。授業料は命一つ分。高すぎて二度と開講したくない。


「お前は無茶すんな。心臓に悪い」


「ノエルさまだって、無茶してた」


 ……返す言葉もない。師匠譲りの無茶だ、これは。あの人ならきっと、俺より上手くやって、俺よりひどい顔で説教しただろう。弟子は師に似る。できれば、もっと儲かるところだけ似たかった。


 リゼが、崩れた橋の跡を見下ろして、低く言った。


「ノエル。あいつ——最後に名乗った『署名の主』。お前が王宮で見た署名と、同じなんだな」


「ええ。間違いなく」


 喉が乾いていた。灰と砂の味がまだ口に残っている。


 千年前の作者が、現代に使い魔を放って、自分の書いた国を「壊して維持」している。

 意味が、わからない。自分で書いた国を、なぜ。


 ピピが俺の肩で小さく震えた。


『ノエル、あの字、こわいのら。ピピの奥が、ちりちりしたのら』


「俺もだ。胃の奥までちりちりしてる。これはたぶん昼飯が少なかったせいじゃない」


 冗談にしたつもりだったが、誰も笑わなかった。まあ、俺も笑えなかった。谷から吹き上がる風が、崩れた石の粉と、青い署名の残り香を運んでくる。


 わからないことが、また一つ、増えた。

 でも、わからないことが増えるってことは、進んでるってことだ。写本係の経験則だ。白紙より、誤字だらけの紙のほうがまだ直しようがある。


 俺は汚れた手を見た。さっき一画を書き換えた指先が、まだ震えていた。


 作者の許しもなく校正している、か。


 知ったことか。こっちは読めてしまった。読めてしまった以上、見なかったふりはできない。そういう面倒な病気を、俺は師匠からうつされて、いまコルムにまでうつしかけている。


 崩れた橋の向こうで、青い光が最後に一度だけ瞬き、消えた。


(第十話へ続く)

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