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校正者

祈祷師モルグが消えた橋の上で、俺はしばらく動けなかった。


 膝に力が入らない。戦いが終わった直後の気の抜け方、というには、少しばかり質が悪かった。吊り橋の古い板はまだ熱を孕んでいて、焼けた文字の臭いが鼻の奥にこびりついている。谷底から吹き上げる風は冷たいのに、喉だけがやけに乾いた。


 人間だと思っていた敵が、術式の残響だった。ピピと同じ、文字でできた存在。ただしピピが「偶然こぼれて生まれた」無垢な残響なら、モルグは——誰かに、明確な意図で「書かれた」残響だ。村を焼いて回るために。


 つまり、あいつは悪党である前に、道具だった。道具にしてはよく喋り、よく嗤い、よく人を踏みにじったが。だからといって、奴の罪が薄まるわけではない。燃やされた畑も、濁った井戸も、泣き声を飲み込んだ家々も、ちゃんとここに残っている。


 ただ、俺の胃の底には別の重さが沈んでいた。


 道具があったなら、使った手がある。

 文字があったなら、書いた者がいる。


「ノエル」


 獣化を解いたリゼが、俺の隣にしゃがんだ。さっきまで鋼みたいに張り詰めていた気配が、今は少しだけ人間の温度を取り戻している。だが、彼女の手袋には橋板の煤がつき、肩口には獣化の名残なのか、雨に濡れた獣のような匂いがかすかに残っていた。無事でよかった、と素直に言えれば上等な男なのだが、残念ながら俺の口はそういう作りをしていない。


「あいつの言ったこと。この国が、一人の手で書かれた術式だというのは……本当なのか」


 琥珀の目が、逃げ道を塞ぐように俺を見ていた。責めている目ではない。だからこそ、嘘をつけなかった。


 俺は、ずっと言えずにいたことを、ようやく口にした。


「リゼさん。あなたの守護術式の署名と、トルク村の井戸の署名と、この橋の署名。全部同じだって、話しましたよね」


「ああ」


「実は——俺、もう一か所、同じ署名を見たことがあるんです。王宮の、地下書庫の、立ち入り禁止の最下層」


 リゼが、息を呑んだ。


 王宮の地下書庫。俺にとっては、青春の墓場みたいな場所だ。七年も薄暗い棚の隙間に潜り込み、誰にも褒められない写本の誤字を直し、誰にも礼を言われないまま追い出された。明るい思い出を探すほうが難しい。唯一の長所は、日焼けしないことくらいだ。ああ、なんて健康的な職場だろう。


「建国王の遺物と一緒に、保管されてた禁書。この国の、建国文書の、奥付。——そこに、寸分違わぬ、この署名がありました」


 風が、橋の上を吹き抜けた。焼けた灰が、黒い雪のように舞って、谷の闇へ落ちていく。


「千年前の地方の術式と、この国の建国文書に、同じ作者の署名。意味は、一つです。——この国を建てた人間と、この土地の術式を書いた人間は、同じ。そして、リゼさんの呪いを書いた人間も、たぶん」


「……国そのものが、その人物の、術式だと?」


「断定はしません。でも、辻褄は、合ってしまう」


 そう。嫌になるほど合ってしまう。


 俺は魔法が撃てない。火も出せないし、水も呼べないし、風で髪をなびかせることすらできない。なびかせるほど立派な髪型でもない。俺にできるのは、古代語を読んで、壊れた術式の一語を書き換えることだけだ。


 だが、その一語が村の水を戻した。橋を落ちるはずの人を救った。リゼの獣化の呪いに、別の意味を与えた。


 なら、この国のあちこちに刻まれた文字が、全部同じ手で書かれていたとしても、もう笑い飛ばせない。


 リゼは、しばらく黙って、谷を見ていた。風が、彼女の短い髪を揺らす。


「……子どもの頃、父上が言っていた。『フォグレスは呪われた土地ではない。忘れられた土地だ』と。私は意味がわからなかった。呪いと、忘れられること。何が違うのか」


「今は、わかります?」


「ああ。——呪いは、誰かが憎んで、かけるものだ。だが忘れられるのは、誰にも憎まれず、ただ、放っておかれることだ。父上は、この土地が『神罰』ではなく『放置』で死につつあると、知っていた。たぶん、古代語までは読めずとも、そこまでは」


 リゼの声は静かだった。泣いてはいない。怒鳴りもしない。ただ、その静けさの底に、長い年月をかけて積もった悔しさがあった。


 フォグレスの土は黒い。川は痩せ、畑は焦げ、夜には術式の燐光が墓場の火みたいに漂う。人はそれを神罰と呼び、教会は都合よく頷き、王都は見ないふりをした。見ないものは存在しない。実に賢い政治だ。俺も一度、見事に存在しないもの扱いされたので、多少は詳しい。


 リゼは、俺を見た。琥珀の目に、初めて見る、穏やかな光があった。


「お前は、この土地を思い出した、最初の人間だ。ノエル・アルクム。父上が見たかったものを、お前が見せてくれている」


「……買いかぶりですよ。俺はただ、壊れたものを見ると直したくなる、貧乏性なだけで」


「その貧乏性に、領民が救われている。胸を張れ」


 堅物の騎士に褒められると、どう返していいかわからない。相手が嫌味なら嫌味で返せるし、罵倒なら軽く傷ついたふりをして逃げられる。だが、真正面からの感謝は困る。俺のような日陰者には光量が強すぎる。


 俺は谷風に顔を背けて、誤魔化した。肩の上で、ピピが、にやにやしているように見える顔でこっちを見ていた。文字でできたくせに、表情だけは妙に人間くさい。いや、文字だからこそ、人の癖を拾いやすいのかもしれない。


『ノエル、かおがあかいのら』


「うるさいぞ残響」


『しょうじきな字は、よい字なのら』


「お前の辞書、都合のいい項目ばっかり増えてないか」


 リゼが小さく笑った。その笑い声を聞いて、ようやく橋の上に終わりが戻ってきた気がした。



 領都に戻ると、ハンナさんが厨房で待っていた。


 夜更けだというのに、竈には火が残っていた。煮込まれた根菜の匂い、焼いた黒パンの香ばしさ、薬草を吊るした棚の青臭さ。橋の上に染みついた焦げた文字の臭いが、そこに押し流されていく。人間は、温かい飯の匂いだけで少し救われる。実に単純で、ありがたい構造をしている。


「おかえり、坊や。死なずに帰ったね。——顔色が、いつもより悪いよ」


「いつも悪い顔色を基準にして、それより悪いって相当ですね」


「冗談が出るなら、まだ煮れば食える」


「俺は食材だったんですか」


 ハンナさんは鼻で笑い、俺の肩からほとんど溶けかけたピピを摘まみ上げるようにして、机の上へ導いた。ピピは文字の輪郭がへにょへにょに崩れ、普段の生意気さが半分くらい蒸発している。


「ハンナさん。世界の秘密って、知らないほうが、幸せですかね」


「さあね」


 ハンナさんは、煤入りミルクの皿を、ぐったりしたピピの前に置いてやった。ピピが、よわよわしく舐め始める。舌があるのかは謎だが、皿の中身はちゃんと減っていく。古代文明の神秘も、台所に置かれるとただの食いしん坊である。


「でもね、坊や。あたしは三十年、この黒い土地で飯を作ってきた。秘密なんか知らないよ。神罰の正体も、術式とやらも、さっぱりだ。——けど、あんたが井戸を直した村じゃ、今日も誰かが、水を飲んでる。それだけは、知ってる」


 ハンナさんは、俺の前に、湯気の立つ皿を置いた。木椀の中で、薄いスープに刻んだ野菜と干し肉が沈んでいる。王宮の食卓に比べれば質素だ。だが俺は、銀の皿に飾られた冷たい肉より、こっちのほうがよほど信用できた。


「世界の秘密は、賢い人に任せときな。あんたは、目の前の壊れたもんを、一つずつ直しゃいい。——そういう人間が、いちばん遠くまで行くんだ。三十年見てきた、あたしが言うんだから、間違いない」


 ……この人には、敵わないな。


 俺はスープを口に運んだ。あったかい。生きてる味がする。塩気は少し強い。干し肉は硬い。根菜は煮崩れている。完璧からは遠い。だからこそ、今の俺にはちょうどよかった。


 完璧な文書なんて見たことがない。完璧な術式もない。国だって、たぶん同じだ。どれほど偉そうな署名があろうと、放っておけば綻び、焼かれれば壊れ、読まれなければ意味を失う。


 肩の上で、いや、今は机の上で、ピピが、ミルクで元気を取り戻して、ぴょこんと跳ねた。輪郭がまたきれいな文字列に戻っている。


『ノエル! ピピ、きめたのら! ピピ、こげくさい字、ぜんぶ、みつけるのら! ノエルが、なおすのら! ふたりで、ぜんぶ、なおすのら!』


「ぜんぶ、って簡単に言うな。俺の手首は一本しかないんだぞ」


『ピピが、みちをしめすのら』


「道案内が迷子の常習犯じゃなければ頼もしかったな」


『むむ。ピピは、きょうから、すこしだけ、ちゃんとするのら』


「……おう。頼りにしてる、相棒」


 そう言うと、ピピは皿の縁で胸を張った。胸がどこかは知らないが、態度だけは立派だった。



 その夜、辺境伯の執務室。


 俺とリゼと辺境伯は、燭台の灯りの下で、一枚の古い地図を囲んでいた。フォグレス領の、汚染分布図。


 羊皮紙は何度も広げられた跡があり、端が擦り切れている。黒い斑点、赤い線、煤で塗ったような危険区域。地図というより、病人の身体に浮かんだ痣の記録に見えた。窓の外では夜風が唸り、執務室の壁に掛けられた古い剣がかすかに鳴った。


 辺境伯は椅子に深く腰掛けていたが、その目は眠っていなかった。領主というのは便利な椅子に座れる職業だと思っていたが、実際は椅子ごと重荷を背負う仕事らしい。俺なら三日で腰を痛めて逃げる。


「祈祷師モルグは消えた。だが」辺境伯が低く言った。「奴の背後の『署名の主』とやらは、健在だ。そして、教会上層がそれと通じている」


 燭火が揺れ、辺境伯の顔に深い影を作った。


 教会。神罰を語り、土地の痛みに名前を貼り、治す代わりに祈らせ続けた者たち。全員が悪人だとは思わない。末端には本気で人を救おうとする者もいるだろう。だが、上のほうにいる連中が、焦げた術式を見て見ぬふりどころか、焼け跡に油を足していたなら話は別だ。


 俺は地図の上に手を置いた。指先に、乾いた羊皮紙のざらつきが伝わる。


「閣下。一つ、提案が」


 俺は地図に、これまで直した三つの村に、印をつけた。井戸、橋、守護術式。どれも小さな点だ。国全体から見れば、針で突いた穴にも満たない。


 それでも、そこには水を飲む人がいる。橋を渡る人がいる。呪いを呪いだけで終わらせなかった騎士がいる。


「モルグは二十年、この国の術式を『焼いて』回ってました。神罰を維持するために。なら、俺がやるべきことは、逆です。——この国の壊れた術式を、片っ端から、直して回る」


「神罰を、消すと?」


「神罰が消えれば、教会は人々を従える理由を失う。署名の主が何を企んでるかは、まだわからない。でも、そいつの『焼いた跡』を、俺が一つずつ直していけば——いつか必ず、そいつの本体に、辿り着く」


 口にしてから、我ながら無茶だと思った。国中の誤字を一人で直す。しかも相手は千年前から残るかもしれない術式の作者。普通なら酒場の酔っ払いが言っても相手にされない話だ。


 だが俺は、魔法を撃てない代わりに、文字だけは読める。読めるなら、追える。追えるなら、直せる場所もある。


 校正者が、原作者を、追う旅だ。


 なんだそれは。地味にもほどがある。吟遊詩人が聞いたら、たぶん途中で寝る。剣も炎も英雄の血筋もない。あるのは安物のペンと、手首の痛みと、やたら元気な残響だけだ。


 それでも、俺にはそれしかない。


 辺境伯は、長いこと地図を見ていた。やがて、太い指で、王都の方角を指した。


「……王都の魔法が、近頃おかしいと噂だ。三席魔術師ロイクの火が、急に制御を失っただの。洗礼の聖水が、濁っただの」


 俺は、思わず笑ってしまった。


 俺が七年間、こっそり直してきた写本の誤字。直す者がいなくなった王都の魔法が、ゆっくり、確実に、劣化し始めてる。


 誰も気づかなかった小さな綻び。俺が机の陰で直していたときは、ただの雑用扱いだった。魔力ゼロの役立たずが、せめて埃をかぶった本でもいじっていろ、という程度の仕事。


 その埃の下に、王都の連中が踏んで立っていた床板があったらしい。


 追放した連中の、知ったことか——と思っていた。

 でも、たぶん、そういうわけにも、いかなくなる。


 王都には嫌な記憶が多すぎる。薄暗い地下書庫、上から降ってくる命令、俺の名前を覚える気もない魔術師たち。ロイクの得意げな顔など、思い出すだけで胃が仕事を放棄しそうになる。


 だが、あそこには建国文書の本物がある。署名の主へ続く、たぶん最も古くて太い糸が。


「閣下。俺、いつか王都に戻ることになる気がします。あそこの地下書庫に、建国文書の、本物があるので」


「その時は」リゼが、剣の柄に手を置いた。「私が連れて行く。お前の盾だからな」


「堅っ。……でも、ありがとうございます」


 リゼは当然のことを言っただけ、という顔をしていた。俺の命を守ると宣言するのが、今日の天気を告げるくらい自然なのだろう。ありがたい。ありがたいが、照れるのでやめてほしい。俺の心臓は、古代術式ほど頑丈に作られていない。


『ピピもいくのら! 王都のこげくさい字も、ぜんぶ、くんくんするのら!』


「お前、鼻ないだろ」


『こころの鼻なのら』


「便利な器官だな」


 辺境伯が低く笑った。その笑いには疲れもあったが、ほんの少しだけ、先を見る人間の響きが混じっていた。


 窓の外、汚染地帯の夜空に、千年前の術式の燐光が、いつものように、ゆらゆら漂っていた。


 かつては、不気味な神罰の光に見えた。

 今は——直されるのを待っている、壊れた手紙の束に見える。


 誰が書いたのか。何のために書いたのか。なぜ、この土地は忘れられ、焼かれ、なお生き残っているのか。


 答えはまだ遠い。遠すぎて、普通なら見なかったことにしたい。だが、見えてしまった文字を、俺はもう読まなかったことにできない。悲しいかな、これが職業病というやつだ。給金は安いし、命の危険は高い。労働条件としては最低である。


 俺はインク壺の蓋を開けた。古い金具が小さく鳴り、濃いインクの匂いが立ち上る。ピピが嬉しそうに身を乗り出す。リゼが静かに地図を押さえ、辺境伯が新しい印を置く場所を示した。


 世界でただ一人の読み手の、長い長い校正の旅は——まだ、始まったばかりだ。


(第一部「辺境修理行」完 第二部「王都校正編」へ続く)

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