眠る石碑
祈祷師モルグが消えてから、三日が過ぎた。
領内はおかしいくらい静かだった。静かすぎて、逆に耳鳴りがする。人は騒ぎの中では恐怖を忘れられるが、平和が戻ると、壊れた桶や、焦げた杭や、昨夜まで泣いていた子どもの寝息まで、やけにはっきり聞こえるらしい。
モルグが焼いて回った術式の修理は、俺の台帳に従って順番に片付いている。腐った井戸、暴れる灌漑、落ちかけた橋。古代語の一語を読み、一語だけ書き換える。俺にできるのはそれだけだ。派手な光も、雷も、火球も出ない。出せたら人生がもう少し見栄えしただろうが、あいにく俺は見栄えに嫌われている。
直すたびに村人が泣いて、ハンナさんの飯がうまくて、ピピがインクを舐めて太る。紙の端で丸くなった小さな文字の残響は、最近、歩くより転がるほうが速い。
「太ってないのら。字が豊かになっただけのら」
「便利な言い換えだな。今度、俺の借金にも使わせてくれ」
リゼは窓辺で鼻を鳴らした。獣化の呪いを抱えた女騎士は、雨上がりの土と鉄と革の匂いをまとっている。本人は気にしているが、俺にはその匂いが、きちんと生きて戦っている者の匂いに思えた。口に出すと怒られるので、黙っておく。俺にも生存本能くらいはある。
平和だ。
平和なときほど、人は先送りにしていたことを思い出す。傷は戦いが終わってから痛むし、請求書は飯がうまい日に届く。だいたい世の中は、弱い者にだけ段取りが厳しい。
「ハンナさん。約束、覚えてますか」
厨房で芋の皮を剥いていたハンナさんの手が、止まった。
鍋では豆の煮える匂いがしていた。湯気が梁に当たって白くほどけ、古い木の匂いと混ざる。いつもなら、ハンナさんは包丁を止めない。泣いている村人をなだめながらでも、リゼに追加の皿を出しながらでも、ピピがインク壺に頭から突っ込んでも、手だけは正確に動いている。
その手が、止まった。
「……眠る石碑、ですか」
「ええ。次に触れる誰かが眠らないように、直すって言いました。——でも俺、本当はもう一つ、確かめたいことがあって」
俺は言葉を選んだ。選んだつもりで、たぶん選びきれていなかった。言葉というのは、古代語でも日常語でも厄介だ。一語違えば橋は落ちるし、一言余れば人を傷つける。俺はどちらも経験済みで、どちらにも向いていない。
「旦那さんを、起こせるかもしれない」
包丁の刃先から、芋の皮が一筋落ちた。
ハンナさんはすぐには何も言わなかった。怒鳴られるかもしれないと思った。期待させるな、と。十五年を軽く扱うな、と。その通りだ。俺なら自分の胸ぐらをつかんでいる。
けれど彼女は、濡れた指を前掛けで拭き、静かにうなずいた。
「……見て、やってください」
◇
ハンナさんの夫——名はトマスといった——が眠る部屋は、領主館の北の離れにあった。
廊下を歩く間、リゼは黙って俺の少し後ろをついてきた。ピピは俺の肩で、紙片みたいな体を小さく折り畳んでいる。
「怖いのら?」
「怖いさ。俺はいつだって怖い。怖くないふりが下手なだけで、実物は臆病の見本市だ」
「でも行くのら」
「行かなかった場合の自分の顔を見るほうが怖い」
北の離れは日当たりが弱く、石壁に湿り気が残っていた。それでも廊下には埃がない。手すりは磨かれ、窓辺には小さな布がかけられている。誰かが毎日ここへ来る場所だった。忘れられた病人の部屋ではない。忘れることを許されなかった人の部屋だ。
十五年。
その言葉の重さを、俺は部屋に入って初めて、本当の意味で知った。
寝台に横たわった男は、生きていた。胸は静かに上下し、頬には血の気がある。ただ、十五年ぶん歳を取らなかった顔だけが、時間から取り残されていた。眠っているというより、そこだけ朝が来ていないみたいだった。
枕元には、新しい花。毎日替えられている花。十五年、毎日。
花瓶の水は濁っていない。窓布は洗われている。寝具からは陽に干した布の匂いがした。俺はそれだけで、胸の奥を雑に掴まれた気がした。こういう手入れは、誰かに見せるためには続かない。祈りだけでも続かない。怒りと愛情と意地が、毎朝同じ形をしていないと続かない。
「毎朝、髭を剃ってやるんですよ」
ハンナさんが、夫の頬に触れた。
「目を覚ましたとき、むさ苦しい顔だと、この人、嫌がるから」
彼女の指は慣れていた。壊れ物に触れる指ではない。長年連れ添った相手の頬を、今日も当然のように撫でる指だった。
……俺は、軽々しく「起こせるかもしれない」なんて言うんじゃなかった、と思った。
十五年、この人は希望と諦めのちょうど真ん中で、毎朝髭を剃ってきたんだ。希望だけならいつか折れる。諦めだけなら部屋を閉ざせる。そのどちらにも逃げず、毎朝、刃を研ぎ、湯を沸かし、眠る夫の顎を支えてきた。そこに俺が、無責任な希望を投げ込んでいいのか。
でも。
投げ込まないなら、俺の鼻は、俺の能力は、なんのためにある。
誰かが焼いた術式を見つけて、読んで、一語だけ直す。たったそれだけの、情けないほど狭い力だ。狭いなら狭いなりに、届く場所では手を伸ばすしかない。
「ハンナさん。トマスさんに、触れます。——術式を、読むので」
「お願いします」
リゼが扉のそばに立った。外に誰も入れない位置だ。獣じみた耳がわずかに動く。彼女の爪が手袋の内側で軋む音がした。
「ノエル。無理はするな」
「無理をしない俺に価値があると思うか?」
「ないな」
「即答は傷つくんだぞ」
少しだけ空気が緩んだ。ありがたい。俺の心臓はさっきから鍋の蓋みたいに跳ねていた。
◇
眠る男の額に、手をかざす。
肌からはかすかな薬草と石鹸の匂いがした。体温がある。生きている。十五年も眠っているのに、ここにいる。俺は息を細く吐き、目の焦点を奥へ沈めた。
いた。
うっすらと、しかし確かに。トマスの体の上を、古代文字が巡っていた。石碑から「感染」した術式が、十五年、この人の中で動き続けている。
文字は薄い金色に見えた。実際に光っているわけじゃない。俺の目と鼻と頭の奥が、そう認識しているだけだ。説明するとだいたい変人扱いされるので、普段は黙っている。世間は魔法が使える人間には寛大だが、文字の匂いを嗅ぐ男には冷たい。
読む。
『——鎮めよ。痛みを鎮めよ。意識を鎮めよ。眠りに沈めよ。【欠落】、覚めよ』
……麻酔術式だ。
古代の医療用。手術や、激しい痛みのとき、患者を深く眠らせて苦しみから守る。優しい術式だ。本来なら。
古代の人間がどれだけ傲慢で、どれだけ器用だったかは、遺跡を読めば嫌でもわかる。橋を架け、井戸を清め、病の痛みを眠らせる。彼らの文字は命令であり、祈りでもあった。たぶん、これを書いた誰かは、苦しむ人を助けたかったのだ。
問題は、最後。
『【欠落】、覚めよ』——「覚めよ」を起動させる条件節が、欠けている。
だから術式は、永遠に「鎮めよ」だけを実行し続ける。覚ます合図が、来ない。
十五年、来ない。
俺は喉の奥が乾くのを感じた。あまりにも単純で、あまりにも残酷だ。扉に取っ手がないだけで、部屋は牢になる。優しい術式が、一語欠けただけで、十五年の眠りになる。
「……ハンナさん。トマスさんは、病気でも、寿命でもありません。麻酔をかけられて、それを解く合図が来ないまま、眠らされ続けてるだけです」
「……それは」ハンナさんの声が震えた。「それは、直せるってことですか」
答えようとして、俺は欠落部に目を凝らした。
そして、息を呑んだ。
欠けた条件節の、縁。
——焦げていた。
摩耗じゃない。経年劣化でもない。古い術式が自然に崩れるときは、もっと鈍く、砂がこぼれるように薄れる。これは違う。縁が黒く縮れ、文字の流れが痛みに身をよじるように歪んでいる。
リゼの呪い、井戸の浄水術式、橋の支柱と、まったく同じ。誰かが、故意に、焼いた痕。
「……そんな」
思わず漏れた声は、自分のものとは思えないほど低かった。
十五年前。
まだ祈祷師モルグが領内を巡り始めるより、ずっと前。
その頃から、この国の術式は、焼かれていた。
胸の中で、怒りが静かに温度を上げた。派手に燃える怒りではない。鍋底にこびりつく焦げみたいな、削っても残るやつだ。俺はああいう焦げが嫌いだ。洗うのに時間がかかるし、だいたい俺の担当になる。
「ノエル?」
リゼの声に、俺はまばたきをした。
「ハンナさん。一つ、聞かせてください。——トマスさんが眠ったのは、十五年前。そのとき、領内に、誰か、よそ者の祈祷師か、巡礼者か……『災いを告げる』ような人間が、来ませんでしたか」
ハンナさんは、長いこと黙っていた。
沈黙の中で、トマスの寝息だけが規則正しく響いた。窓の外では風が枝を揺らし、古いガラスが小さく鳴った。彼女の目が、今の部屋から少しずつ離れていく。十五年前の道、十五年前の声、十五年前の夫の笑い方へ戻っていく。
それから、記憶の底から、震える声で、それを引き上げた。
「……来ました。痩せた、青白い、不思議なほど穏やかに笑う人が。『この地に、眠りの災いが満ちている』と。……トマスは、その人を、笑って追い返したんです。『神罰なんざ知るか、俺は石工だ』って」
ハンナさんは苦しそうに笑った。
「この人、腕はいいけど、口が悪くてね。神さま相手でも値切るような男でした」
「いい職人ですね」
「ええ。馬鹿な職人です」
俺の背筋を、冷たいものが走った。
追い返した。
その三日後に、トマスは「眠る石碑」に触れて、二度と覚めなくなった。
偶然、と言えたらよかった。俺は偶然が好きだ。責任の所在がぼやけるからだ。だが、この焦げ跡はぼやけてくれない。古代文字は嘘をつかない。読む俺が間違えることはあるが、焦げは焦げだ。
モルグは、人外の残響だった。十五年前に「同じ笑い方をする者」がいたなら——それはモルグ自身か、あるいは。
あるいは、モルグを作った、その「署名の主」が。
あの黒い署名。読めなかった名前。喉の奥に棘みたいに残っている、あの気配。
「……アルクムさん?」
ハンナさんが、俺の顔を覗き込んでいた。よほどひどい顔をしていたんだろう。鏡を見なくてもわかる。俺の顔はもともと景気が悪いのに、今はたぶん不況そのものだ。
俺は、ぐっと拳を握った。怒りは、直してからでいい。いつもそうだ。怒っている間に井戸は腐るし、橋は落ちるし、人は眠り続ける。順番を間違えると、正義はただの邪魔になる。
「直します。トマスさんの中の術式の、焼かれた『覚めよ』の条件を、書き直します。——ただ」
ここで嘘をつくのは、この人に対して、一番してはいけないことだと思った。
希望は薬になる。だが量を間違えると毒になる。俺は医者ではないし、英雄でもない。魔力のない、古代語だけが読める半端者だ。だからせめて、言葉だけはごまかさない。
「十五年、『鎮めよ』だけが動き続けた体です。書き換えても、すぐ目を覚ますとは、限りません。最悪、何も起きないかもしれない。それでも——やって、いいですか」
ハンナさんは、夫の手を握った。十五年握り続けた手を。
その手の甲には、細かな傷があった。火傷の跡もある。包丁だこも、鍋の持ち手で作った固い皮もある。彼女がこの十五年を、泣くだけで過ごしていない証拠だった。
そして、笑った。泣きながら、笑った。
「やってください。……この人、諦めの悪いところだけは、あんたにそっくりだ」
俺は息を吸った。豆の匂いはもうしない。ここにあるのは花と石鹸と、長い眠りの匂いだけだ。
「それは困りますね。目覚めたら、きっと口が悪い」
「最初に文句を言ったら、粥を薄くしてやりますよ」
「それを聞いたら、必死で起きると思います」
ピピが俺の肩で小さく震えた。
「ノエル、文字が泣いてるのら」
「ああ。泣き止ませる」
俺はトマスの額の上に指を置かず、空中で止めた。触れなくても読める。だが書き換えるには、息を合わせる必要がある。古代語の流れに、自分の命令を一語だけ滑り込ませる。俺に許されているのは、それだけ。
焼かれた欠落部を見つめる。
『鎮めよ』の流れはまだ生きている。ならば『覚めよ』へつなぐ条件を戻す。余計なことはしない。強く起こそうとすれば、十五年眠った体を壊すかもしれない。命令は短く、穏やかに、逃げ道を残して。
俺は心の中で古代語を組んだ。
朝が来たなら、覚めよ。
それだけだ。英雄の台詞としては地味すぎる。だが、眠っている人に必要なのは大演説じゃない。朝だ。
指先が熱を持つ。魔力じゃない。俺にそんな上等なものはない。焼けた文字を読み、読み取った形を、別の一語へ押し戻すだけの痛みだ。
ハンナさんが息を止めた。リゼが扉の前で身構える。ピピが「のら」と言いかけて、飲み込んだ。
俺は、欠けた条件節へ、たった一語を書き込んだ。
(第十二話へ続く)




