契約者が、目覚めを望んだとき
トマスの術式を書き換える準備は、丸一日かかった。
丸一日、と言うと聞こえはいい。実際には、床に尻を貼りつけ、背中を丸め、目を皿にして、うんうん唸っていただけだ。英雄譚ならここで聖なる光が降り注ぐところだろうが、残念ながら俺には魔法の火花ひとつ出せない。あるのは目の痛みと、読めるだけの古代語と、安物のペンを握り続けたせいで固まった指だけである。
リゼの呪いや井戸と違って、今回は相手が「生きた人間の中で十五年動き続けた術式」だ。下手に触れば、眠りが深くなるどころか、二度と戻れないところまで沈むかもしれない。慎重すぎるくらいでちょうどいい。俺みたいな鼻だけが取り柄の男が、うっかりで人の十五年を終わらせたら、ミュゲ家の墓石が恥で割れる。
離れの中は、薬草を煮詰めた匂いと、長く閉じた布団の湿った匂いで満ちていた。そこにリゼの革鎧と鉄、それから彼女の獣化の呪いが連れてくる、森の奥みたいな獣の気配が薄く混じる。嫌な匂いではない。むしろ、ここがまだ生きている場所だと教えてくれる匂いだった。
俺は床に座り込んで、トマスの体を巡る術式を、頭から尻尾まで、何度も読み返した。人の体に尻尾はないが、術式にはある。始まりがあり、胴があり、最後にぴたりと巻き込む尾がある。そこまで読まなければ、どこを噛んでいるのか分からない。
「ピピ。手伝ってくれ。お前の目で、文字の流れの『淀み』を見てほしい」
『まかせるのら』
ピピが、トマスの胸の上にちょこんと乗って、巡回する文字をじっと追う。小さな体は文字の切れ端でできているのに、こういうときだけ妙に頼もしい。本人に言うと調子に乗って俺の頭の上で踊るので、黙っておく。
残響であるピピには、術式の「流れの澱み」が、俺以上によく見えるらしい。俺が目で読むなら、ピピは流れそのものに耳を当てている感じだ。文字が擦れる音、詰まる息、同じ命令を繰り返し続けた疲れ。そういうものを拾う。
『……ノエル。ここ、ここがへんなのら。「鎮めよ」の字が、ぐるぐる、ふとってる』
ピピの小さな指が、トマスの鳩尾あたりで止まった。俺はそこに意識を寄せ、薄く浮かぶ古代語を読む。
なるほど。十五年も同じ命令を実行し続けたせいで、『鎮めよ(ネブラ)』の文字が、繰り返しの澱みで肥大化している。インクを継ぎ足し続けた帳簿の、同じ行だけが分厚くなったみたいに。帳簿なら最悪、燃やせばいい。人の中にある術式は燃やせない。燃やしたら本体まで燃える。そんな当たり前のことを得意げに言う日が来ない人生でありたかった。
この肥大した『鎮めよ』を、いきなり止めるのは危険だ。十五年走り続けた水車を、心張り棒一本で急に止めれば、軸が折れる。軸が折れるだけなら職人を呼べばいいが、人間の軸はそうはいかない。
だから、二段構えでいく。
まず、焼かれて欠けた『覚めよ』の起動条件を、彫り直す。
次に、肥大した『鎮めよ』の出力を、少しずつ、少しずつ絞る。
言葉にすれば簡単だ。包丁で魚を三枚におろす説明だって、言葉にすれば簡単である。実際にやると骨に身が残り、身に骨が刺さり、最後は猫にも笑われる。俺の場合、笑う猫の代わりにピピがいる。
「コルム。お前の出番だ」
部屋の隅で待機していたコルムが、ぴゃっと背筋を伸ばした。トルク村から、わざわざ手紙のやり取りで「修行」を続けている弟子第一号。今回、どうしても見学したいと言って、ばあちゃんの許可をもぎ取って来た。ばあちゃんは最後まで渋ったらしいが、コルムが字母表を暗唱してみせたところで、鼻を鳴らして許したそうだ。あの人の鼻息は、王都の門番より厳しい。
「お前に、字母表の十二文字、ぜんぶ書かせる。俺の隣で、声に出して読みながら。——人手が要るんだ。『覚めよ』の条件節は、一人で支えるには長すぎる」
「オラが……手伝って、いいのか」
コルムの声は細かった。農具を握ってきた手が、羊皮紙を握るときだけ少し震える。昔の俺なら、その震えを見て余計な軽口を叩いたかもしれない。今は分かる。読めるようになるというのは、怖いことでもある。読めなかったものが見え、見えたものに責任が生まれる。
「読み手は、多いほうがいい。一人より二人だ。お前、もう半分は読めるんだろ」
「半分……いや、七つは読める。残りも、形なら分かる」
「十分だ。俺なんか最初は三つ読んだだけで、鼻血を出して倒れた」
『それは自慢にならないのら』
「うるさい。歴史的事実だ」
コルムの目が、潤んだ。が、すぐにぐしっと袖で拭いて、羊皮紙を握りしめた。
「やる! オラ、やる!」
その声を聞いて、ハンナさんが寝台の向こうで小さく頭を下げた。何度も何度も礼を言われるより、その仕草のほうが重かった。十五年分の願いを、人はこんなに静かに抱えるものなのかと思う。
◇
夜半。
月が窓の真上に来た時刻を、俺は選んだ。トマスの術式の巡回が、一日でいちばん緩やかになる刻だ。一日中読み続けて、ようやくそのリズムを掴んだ。昼は呼吸とともに文字が少し速く流れ、夕方には『鎮めよ』が重く沈む。夜半だけ、眠りの底で波が凪ぐ。
離れの灯りは絞った。明るすぎる火は文字の淡い光を潰すし、暗すぎれば俺の目が死ぬ。俺の目は高級品ではない。替えも利かない。だから、できるだけ大事に使う。大事に使ってこの有様なのだから、世の中はだいぶ手厳しい。
リゼが寝台の脇に立つ。万一トマスが暴れたとき、彼を傷つけずに押さえられるのは、銀の腕を持つ彼女だけだ。彼女の尾が低く揺れ、耳がわずかに伏せられている。緊張しているのが分かった。強い人間ほど、傷つけない力の難しさを知っている。
「始めます。——コルム、合わせろ」
コルムが喉を鳴らし、俺の隣に膝をついた。羊皮紙を置く手が震えていたので、俺は自分の肘で軽く小突いた。
「震えるなとは言わない。震えたまま読め」
「……うん」
『ノエルも震えてるのら』
「俺は年季の入った震えだ。味が違う」
ピピが肩の上で小さく笑った。リゼも、ほんの少しだけ息を漏らした。その一瞬で、部屋の張り詰めた糸が切れずに済んだ気がした。
『汝、眠れる者』
俺が読み、半拍遅れてコルムが、たどたどしく、しかし必死に追う。
「汝、眠れる者」
トマスの全身の文字が、ぴたりと止まった。読まれている。聞いている。人の言葉に耳を傾けるように、古い命令がこちらを向いた。
俺はペンに銀朱を含ませ、焼かれた『覚めよ』の条件節へ、差し入れた。銀朱は高い。手元にある量を考えると、失敗したら俺の財布も一緒に永眠する。だがそんな情けない事情で手を鈍らせるわけにはいかない。
欠けているのは、起動の合図。本来なら「術者が覚醒を命じたとき」とか「危機が去ったとき」とか、そういう条件が入る。でも術者はとっくにいない。命令する者が消えたまま、命令だけが残っている。まったく、古代の連中は後片付けという概念をどこかに置き忘れて滅びたのか。
なら——
俺は、迷わず書いた。
『契約者が、目覚めを望んだとき』
覚ます権利を、本人に。
リゼの呪いを直したときと、同じ思想だ。他人に握られた命の主導権を、本人の手に返す。それが、ミュゲ家の鼻の、たった一つの矜持だ。鼻で笑われる家名なら、せめて鼻先くらいは弱いほうへ向けておきたい。
文字が、灯った。
淡い光が、トマスの胸の奥で息をした。ハンナさんが喉の奥で何かを飲み込む音がした。泣き声ではない。泣くのを我慢した音だ。俺は聞かなかったことにした。こういうとき、編集者でも医者でもない俺にできる優しさは、見ないふりくらいである。
次。肥大した『鎮めよ』を、絞る。
いきなりゼロにはしない。十五年ぶんの惰性を、一画ずつ、削っていく。ネブラの肥大した画を、一本、また一本。削るたびに、文字は嫌がるように滲んだ。眠らせる命令は、自分が正しいと信じ込んでいる。十五年も働かされれば、命令にだって癖がつくのだろう。
「続けろ、コルム」
「汝、眠れる者……契りに従い……」
コルムの朗読が、術式を「聞かせ」続けてくれているおかげで、文字は暴れずに、俺のペンを受け入れる。読みが一瞬乱れると、『鎮めよ』の太った線がぬるりと戻ろうとした。俺は歯を食いしばって、そこへ銀朱の細い線を重ねる。
『そこ、早いのら。右のはね、まだ残ってるのら』
「分かってる」
『分かってる顔じゃないのら』
「俺の顔に期待するな。生まれつきだ」
額の汗が、目に染みた。手が痺れてきた。腰はとっくに抗議文を出している。それでも止めない。ここで澱みを残したら、半端な覚醒になる。目を開けても心が眠ったまま、言葉は届くのに返せない。そんな残酷な中途半端を、助けたなどとは呼べない。
やるなら、最後の一画まで。
リゼが無言で布を差し出してくれた。俺はペンを持たないほうの手で汗だけ拭う。彼女の指先が一瞬、俺の肩に触れた。鉄と革の匂い、獣の温かい息。大丈夫だと言われた気がした。実際には何も言われていないので、俺の都合のいい解釈である。こういう解釈は、たまに人を立たせる。
「……ノエル先生、次、どこ読む」
「先生をつけるな。むず痒い。次は反復節の頭だ」
「反復節の……頭」
「そうだ。噛んでもいい。止まるな」
コルムは頷き、汗で濡れた唇を開いた。拙い読みだった。けれど、逃げない読みだった。俺はその声に乗せるように、肥大した画をさらに削る。
一本。
また一本。
太っていた『鎮めよ』が、少しずつ本来の細さを取り戻す。まるで長い眠りで絡まった糸を、切らずにほどいていくようだった。苛立って引けば切れる。怖がって触らなければ絡まったまま。厄介なことに、ほどくしかない。
——絞りきった。
術式が、静かになった。
肥大も、暴走も消えて、ただ一文だけが、淡く灯って残った。
『契約者が、目覚めを望んだとき、覚めよ』
あとは。
あとは、トマス自身が、目覚めを望むかどうか。
俺にできるのは、ここまでだ。扉の鍵を、内側から開けられるように直した。でも、扉を開けて出てくるかどうかは——十五年眠った本人の、意志だ。
部屋が、静まりかえった。
ハンナさんが、夫の手を握る。節くれだった指で、眠り続けた手を包む。その手つきが、祈りよりも生活に近かった。毎朝水を替え、髭を剃り、爪を切り、体を拭いてきた手だ。奇跡を待つ手ではない。今日まで一日ずつ守ってきた手だ。
リゼが、息を殺す。コルムが、羊皮紙を抱えたまま、トマスの顔を見つめる。ピピが、俺の肩で、ぷるぷる震えている。
トマスは、眠ったままだった。
一分。
二分。
……起きない。
俺の書き換えは、正しかったはずだ。扉の鍵は、開いた。でも——十五年は、長すぎたのかもしれない。望むべき「外の世界」を、この人はもう、覚えていないのかもしれない。目覚めることは、救いだけではない。失った時間を一度に突きつけられることでもある。
俺は急に、自分の書いた一文がひどく傲慢なものに思えた。目覚めを望め、などと誰が言える。寝ているあいだに季節は十五回巡り、知っていた声は老い、畑の形も、家の匂いも、少しずつ変わったはずだ。戻ってこいと呼ぶ側は勝手だ。戻る側は、その全部を背負わされる。
ハンナさんの肩が、落ちかけた。
その、ときだった。
「……は、な」
掠れた声が、十五年ぶりに、その喉から漏れた。
誰も動けなかった。動いたら、その声が割れて消えてしまいそうだった。
「ハンナ……髭……剃って、くれたのか……ちくちく、する……」
ハンナさんの顔が、泣くより先に笑った。
俺はようやく息を吐いた。腰は痛い。目は痛い。財布もたぶん痛む。けれど、悪くない痛みだった。
(第十三話へ続く)




