石工の見た顔
トマスの回復は、ゆっくりだった。
十五年眠った体は、赤ん坊みたいに弱っていた。匙で重湯を飲み、ハンナさんに支えられて寝返りを打つ。それだけで一日が終わる。腕は枯れ枝みたいに細く、指先を少し動かすだけで額に汗が浮いた。石工だった男の手は、まだ厚い皮と傷跡を残しているのに、握る力だけが置いてけぼりを食ったように失われていた。
それでも、人間の体というやつは案外しぶとい。いや、俺みたいな魔力ゼロの貧乏校正屋が言うと説得力があるのかないのか微妙だが、とにかくしぶとい。
頬には日ごとに血の気が戻り、目には光が宿っていった。最初は水面に落ちた月みたいにぼんやりしていた視線が、三日目には窓の外の雲を追い、五日目にはハンナさんの顔を見て、申し訳なさそうに笑うようになった。
ハンナさんは、その笑顔を見るたびに、台所へ逃げた。たぶん泣き顔を見せたくなかったのだろう。十五年も待った人間に、今さら涙の一つや二つで格好をつける必要があるのか、俺には分からない。だが、分からないことを分からないまま黙っておく程度の分別は、俺にも一応ある。
医者は「奇跡だ」と言い、司祭ペトルは苦虫を百匹噛み潰した顔で押し黙った。神罰が、平民の小娘上がりの「異端者」に直されたのだ。教会の面目は丸潰れだった。
ざまあみろ、と思わないでもなかったが、口には出さない。俺は石碑を直しに来たんであって、司祭をやり込めに来たんじゃない。ついでに言えば、やり込めたところで俺の財布は厚くならないし、背も伸びない。人生というのはだいたい肝心なところでけちだ。
——本体のほうも、ちゃんと直した。
離れの石碑の麻酔術式は、欠落を補修して、二度と誰も眠らせないようにしておいた。石面に残った古代語は、長い眠りの中で摩耗し、ところどころ欠け、悪い冗談みたいに意味をねじ曲げていた。俺はそこへ一語だけ、慎重に書き足した。
魔法を撃つわけじゃない。俺にはそんな上等な芸はない。剣も振れない。筋肉は荷物持ちの少年にも負ける。だが、古代語の一語なら読める。一語なら、書き換えられる。
たったそれだけで、人は十五年の眠りから戻る。
たったそれだけで、人は十五年を奪われもする。
その差が、どうにも喉に引っかかった。
数日して、トマスが、ようやくまともに喋れるようになった頃。
俺は、どうしても聞かなければならないことを、聞きに行った。
◇
「あんたが、俺を起こしてくれた坊主か」
寝台に半身を起こしたトマスは、痩せてはいたが、目は石工のものだった。何十年も石と向き合ってきた、まっすぐな目。眠っていた十五年分、肌は白く、頬は削げている。それでも瞳の奥には、石の割れ目を見極める職人の静けさがあった。
「ノエル・アルクムです。——トマスさん。つらいことを思い出させるかもしれませんが、聞かせてください。十五年前、あんたを眠らせた『石碑』に、触れたときのことを」
ハンナさんが、寝台の脇で布を握りしめた。口を挟みたいのを堪えているのが分かった。俺だって、できれば聞きたくない。病み上がりの人間に古傷をほじくらせる趣味はないし、そんな趣味があると思われたら、今後の人生でますます友人が減る。
だが、聞かなければならなかった。
同じ石碑が、同じ言葉が、同じ笑い方が、またどこかで誰かを眠らせる前に。
トマスは、しばらく天井を見ていた。視線が梁をなぞり、煤けた木目に引っかかり、遠い場所へ沈んでいく。
「……あの石碑はな、俺が見つけたんだ」
意外な言葉だった。
「領境の古い採石場でな。半分土に埋まってた。雨上がりで、崖の土が崩れてよ。黒い石肌が、ぬっと顔を出していた。彫りが見事でなあ、こいつぁ古いもんだ、領主様に届けりゃ褒美が出るかもしれん、と。欲を出したのさ」
トマスは、自分の細い指を見下ろした。
「石工のくせに、石の顔色を見誤った。いや、見えてたのに、見なかったことにしたんだろうな。あれはただの石じゃねえと、どこかで分かってた。彫りが深すぎた。欠けたところも、妙にきれいでな。人の手で削ったというより、言葉そのものが石に染み込んでいるみてえだった」
古代語の術式を見慣れた俺の背筋に、冷たいものが走った。石に刻まれた文字は、ただの傷ではない。意味を持った傷だ。意味は、ときどき刃物より深く刺さる。
「掘り出して、館へ運ぶ途中で……触れた瞬間、すうっと、眠くなって」
「その採石場に、誰か、いませんでしたか。あんたより先に、その石碑を見ていた人間が」
トマスの眉が、寄った。記憶を、慎重に手繰る石工の手つきで。急かしてはいけないと思い、俺は息を殺した。ピピも肩の上で黙っていた。文字の体が、俺の襟元で小さく震えている。
「……いた。今、思い出した。掘り出してるとき、ずっと、こっちを見てる男がいた。痩せた、青白い男だ。旅人みたいな格好で、靴だけ妙に汚れてなかった。採石場にいるのに、土埃ひとつ被ってねえ。声をかけたら、笑って言いやがった。『それは、起こしてはいけないものだよ』ってな。俺ぁ、墓荒らしの忠告かと思って、笑い飛ばした」
俺の心臓が、嫌な音を立てた。
『それは、起こしてはいけないものだよ』。
耳の奥で、その声がもう一度形を取る。橋の上で聞いた、あの穏やかすぎる声音。怒鳴るでも、脅すでもない。むしろ親切そうで、だからこそ足元から冷えてくる声。
「トマスさん。その男の、笑い方。……穏やかすぎて、逆にぞっとするような、笑い方じゃなかったですか」
トマスの顔が、強張った。
「……なんで、知ってる」
モルグだ。
いや——十五年前、まだモルグが領内を「巡回」する前。橋の上で消えた、あの残響。
残響は、作られたものだ。作った者が、十五年前にも、同じ笑い方で、ここにいた。
俺が橋の上でモルグから聞いた言葉が、蘇る。
『この国は、千年前から、たった一人の手で書かれた、一篇の長い長い術式なんだよ』。
署名の主。
千年前の作者。それが、十五年前、この採石場にいた。
……いや、待て。落ち着け。
千年前の人間が、十五年前に「いた」?
残響として? それとも——本人が、千年、生きている?
考えれば考えるほど、足元が抜けていく感覚がした。俺が直して回っている壊れた術式は、ただの「忘れられた道具」じゃない。誰かが——千年を生きるか、千年ごしに干渉する「作者」が——意図をもって、この国に張り巡らせた、生きた仕掛けなのかもしれない。
俺は古代語を読む。読めるだけだ。剣もない。魔力もない。世間的な信用も、だいたい財布の中身と同じくらい薄い。そんな俺が、国そのものに刻まれた文章を相手にしている。
冗談なら、もう少し笑いやすい形で出てきてほしい。
「坊主」
トマスの声が、俺を引き戻した。
石工は、起こしたばかりの体で、まっすぐ俺を見ていた。息はまだ浅い。けれど、その視線だけは寝台の上の病人のものではなかった。
「俺ぁ、十五年、夢の中にいた。長い、長い夢だ。体は動かねえ。目も開かねえ。だが、耳だけがどこかへつながってるみてえでな。その夢の中で、ずっと、声が聞こえてた」
「……声?」
「『繰り返せ、繰り返せ』ってな。優しい声でもあり、淋しい声でもあった。命令みてえでもあり、頼みごとみてえでもあった。まるで、ずっと一人で、誰かに読まれるのを待ってるみたいな声だった」
俺の肩で、ピピが、びくりと震えた。
『……ノエル。それ、ピピと、おなじ言葉のら』
繰り返せ。
ピピが生まれた、灯り石の術式の言葉。『繰り返す者』。
眠りの底でトマスが聞いた声と、俺の相棒が生まれた言葉が、同じ。
偶然か。それとも——この国に満ちた壊れた術式たちは、全部、同じ「一人」の、孤独な声でできているのか。
ピピの文字の体が、俺の首筋に触れた。紙を焦がす前のような、かすかな熱と、インクの匂いがした。こいつは無邪気に「のら」と鳴いて、よく分からないものをよく分からないまま怖がる。だが今だけは、その小さな震えが、俺よりずっと正直に真実へ触れている気がした。
ハンナさんが、震える声で言った。
「それは……まだ、あの人を呼んでいるんですか」
俺はすぐには答えられなかった。無責任な安心を売るのは簡単だ。俺みたいな小男でも、口先だけなら司祭より立派なことを言える。けれど、言葉を扱う人間が言葉を安売りしたら、残るのはただの詐欺師だ。
「今の石碑は、もう眠らせません」
だから、言えることだけを言った。
「けれど、その声の正体は、まだ分かりません。分からないままにはしないつもりです」
トマスは、疲れたように目を閉じた。
「なら、頼む。俺みてえな欲張りの石工で済むうちに、止めてくれ」
欲張り、という言葉に、ハンナさんが小さく首を振った。責めるためではなく、十五年かけてもまだ責められないというふうに。
俺は頭を下げた。約束というものは重い。俺の細い肩には似合わない。だが、似合わないから背負わないで済むなら、世の中の大半の荷物は道端に転がっているはずだ。
◇
その夜。離れの窓から、俺は満ちていく月を見ていた。
村は静かだった。昼間は人の声と足音で埋まっていた庭も、今は夜露の匂いに沈んでいる。遠くの厩から馬が鼻を鳴らし、湿った草の匂いに、リゼの獣じみた体臭がかすかに混じった。鉄と革と、雨に濡れた毛皮みたいな匂い。本人に言ったら剣の柄で小突かれるので、心の中だけでそう記録しておく。
リゼが、隣に立った。
「ノエル。お前、王都へ行く決心、固まったな」
「……顔に出てました?」
「出ていた。盛大にな。読めない私でも読めるくらいだ」
俺は苦笑した。この騎士は、術式は読めないくせに、俺のことだけはやたら読む。しかも誤読が少ない。困ったものだ。俺の人生で、そんな高精度の読解力を発揮してほしい相手は、借金取り以外にもいたらしい。
「王都の地下書庫に、建国文書の本物があります。署名の主の正体に、いちばん近い場所だ。写しじゃ駄目です。本物に刻まれた筆跡、癖、削り直しの跡。そういうものを見ないと、作者の手は追えない」
「行けば、教会も領主も黙ってはいない」
「でしょうね。俺はすでに十分嫌われていますし、これ以上嫌われても在庫は潤沢です」
「笑い事か」
「笑わないと、膝が震えるんですよ」
正直に言うと、もう震えていた。王都。地下書庫。建国文書。署名の主。口に出すだけで、俺みたいな端の人間には分不相応な言葉ばかりだ。
それに、と俺はハンナさんの離れの灯りを見た。トマスの回復を看病する、温かい灯りを。窓の向こうで影が動く。水差しを取るハンナさんの影と、寝台で身じろぎするトマスの影。十五年止まっていた時間が、不器用に、けれど確かに動き出している。
「十五年前も、千年前も、誰かが『起こしてはいけない』と笑って、人を眠らせ、村を焼いてきた。俺は、その逆をやります。眠らされたものを起こして、焼かれたものを直して、全部、読んでやる。——作者の、許しがなくてもね」
口にしてから、少し後悔した。格好をつけすぎた。俺の体格でこういう台詞を言うと、だいたい服のほうが照れる。だがリゼは笑わなかった。
リゼが、ふっと笑って、剣の柄を叩いた。
「いい啖呵だ。なら、私は盾だ。どこへでも連れて行く」
短い言葉だった。けれど、その音は月明かりの中でまっすぐ立っていた。リゼは強い。呪いを背負い、獣の匂いをまとい、それでも人を守る側に立つ。俺が文字の隙間を覗き込むなら、彼女はその間に飛んでくる刃を受けるのだろう。
ありがたい話だ。
同時に、怖い話でもある。
『ピピも行くのら! こげくさいの、ぜんぶ見つけるのら!』
肩の上でピピが跳ねた。小さな文字の残響は、月明かりを浴びて薄く透けている。インクの線が羽虫みたいに揺れ、語尾だけは相変わらず間抜けに元気だった。怖がっていたくせに、置いていかれる気はまるでないらしい。頼もしいのか、無謀なのか。たぶん両方だ。
「オラも……っ、オラも、いつか追いつくから!」
コルムの声が、廊下の向こうから飛んできた。盗み聞きしてたな、お前。
振り向くと、少年は柱の陰に半分隠れていた。隠れているつもりらしいが、鼻先から靴先まで見えている。隠密の才能は今のところ壊滅的だ。だが、拳を握る手だけは本気だった。
「まずは盗み聞きがばれない訓練からだな」
「うっ……!」
「それと、飯を食え。追いつく前に倒れられたら、俺の評判がまた下がる」
「下がる余地、あるのか?」とリゼが言った。
「ありますよ。底だと思った床の下にも、だいたい地下室があるんです」
コルムが笑い、ピピが『地下室こわいのら』と騒いだ。ほんの少しだけ、夜の空気がやわらかくなった。
俺は、インク壺の蓋を開けた。ピピが、嬉しそうに身を乗り出す。黒いインクの匂いが立ちのぼる。紙を出し、王都で見るべきもの、聞くべき名前、確かめるべき古代語を短く書きつけた。手はまだ震えていたが、文字はどうにか曲がらなかった。
辺境の修理は、ひと区切り。
次は——王都だ。この国を書いた、たった一人の作者の、心臓に近い場所へ。
(第二部「王都校正編」へ続く)




