王都の綴り間違い
王都の城壁は、遠くから見ると立派だった。
近づくと、そうでもない。
石は黒ずみ、門塔の金飾りは雨でくすみ、上から垂れた旗は風に負けてだらしなく腹を見せている。人間と同じだ。遠目には威厳、近目には生活疲れ。俺の場合は遠目でも生活疲れなので、王都のほうがまだ格上である。
辺境伯ガルド様が用意してくれた馬車は頑丈で、乗り心地は正直ひどかった。尻が板と親睦を深めすぎて、もう家族同然だ。向かいではリゼが腕を組んで座っている。鎧の金具が揺れるたび、鉄と革と、雨に濡れた毛皮みたいな匂いがした。旅の埃も混じっている。つまり、強そうな匂いだ。便利な表現を発明したので本人には黙っておく。
『王都、字がいっぱいなのら?』
俺の肩で、ピピが荷物袋から顔を出した。途中の宿でインクを舐めすぎ、口元が黒い。小さな文字の残響がインクで口髭を作っている姿は、威厳という概念に対する挑戦だった。
「いっぱいある。だが読める字は少ない」
『字なのに読めないのら?』
「王都ではよくある。人も同じだ」
リゼが横目で俺を見た。
「帰ってきた気分は?」
「門前で腹痛を起こしたい気分です」
「正直だな」
「誠実さだけが売りなので。ほかに売るものがありません」
追放された写本係が、追放された場所へ戻る。感動的に聞こえるかもしれないが、実際は古傷を見せに行くようなものだ。しかも見せた相手が『まだ治っていないのか』と鼻で笑う未来まで、だいたい読める。
王都西門には、入城を待つ列ができていた。商人の荷車、巡礼者、職人、野菜を積んだ農夫。列の先頭では、門の内側に据えられた青白い検閲石が低く唸っている。
俺は眉をひそめた。
唸り方が悪い。
術式にも機嫌がある、と言うと学者は怒る。だが、ある。少なくとも壊れかけの術式は、人間の役人より分かりやすく不機嫌になる。音が尖り、光が濁り、文字がやたら早足で巡る。
『へくちっ』
ピピが小さくくしゃみをした。
「こげくさいのら……でも、火事じゃないのら」
「写しの劣化だな」
門兵が杖を掲げた。検閲石の前に立たされたのは、荷車を引く母親と幼い娘だった。娘は片手に布人形を握りしめ、もう片方の手で母親の服をつかんでいる。
青い光が二人をなぞった瞬間、石の表面に古代語が浮いた。
俺の目が勝手に読む。
――汚れを持つ者、近づけば焼け。
「おい」
思わず声が出た。
現代の門検閲は、本来なら病や呪詛の強い反応を門外へ退けるだけの術式だ。焼く必要などない。というか、焼くな。人を選別する石に火力を持たせる発想は、料理人に斧を持たせるようなものだ。たまねぎは泣くし、客も泣く。
門兵が母子を押し戻した。
「反応あり。荷を開けろ」
「ただの染料です、旦那様。村で織った布を売りに――」
母親が袋を開く。中の布は濃い藍色だった。呪詛ではない。安い染料に混ぜられた鉄分が、劣化した検閲石に引っかかっただけだ。
次の瞬間、石の文字列が一段明るくなった。
焼け、の語が脈を打つ。
娘が泣き出した。
俺は馬車から飛び降りた。飛び降りた、というより落ちた。尻がまだ板と別れを惜しんでいたせいで、足が少しもつれた。英雄譚ならここで華麗に着地するのだろう。俺の場合、膝が現実に忠実だった。
「止めろ!」
門兵が振り向く。
「何者だ」
「元写本係です。職業的には弱いですが、今だけ信じてください」
「下がれ。王都式検閲に口を出すな」
王都式。嫌な言葉だ。意味を知らない者が、意味を知らないまま偉そうに唱えるための立派な包装紙である。
リゼが俺の前に出た。
「フォグレス辺境伯家の者だ。石を止めろ」
獣の気配を帯びた声だった。門兵たちの手が槍に伸びる。場が張りつめる。俺はその隙間から検閲石を見た。
文字列は露出している。だが巡回が早い。触れられるのは、一呼吸。
いつものことだ。俺の人生、余裕という項目だけ誰かが書き忘れている。
「リゼ、三秒ください」
「二秒でやれ」
「給金もないのに厳しい」
リゼが踏み込んだ。門兵の槍を剣の鞘で弾き、石と俺の間に体を入れる。銀に近い獣毛が首筋に浮かんだ。呪いが表へ出かけている。彼女はそれを押さえ込まず、盾として使う。
俺は検閲石に手を伸ばした。
熱い。
石の表面を巡る文字が指先を切る。魔力のない俺には術式を撃つことなどできない。火も風も雷も出ない。出るのは冷や汗くらいだ。だが、文字が出ているなら読める。読めるなら、一語だけ触れる。
――焼け。
その一語に爪を立てる。
「違うだろ」
インクも羽ペンもない。俺が持っているのは、写本係時代にさんざん紙で切った指先だけだ。古代語の傷に、古代語の癖を重ねる。
焼け、を、退け、へ。
ただ一画。けれど、意味は別物になる。
青い光が弾けた。
母子を包みかけていた熱が、風にほどけるように消えた。検閲石の唸りが低く落ち、娘の布人形だけがぽすんと地面に落ちる。
泣き声が、止まった。
門前の列が静まり返る。誰も拍手しない。現実はそういうものだ。人が助かった直後、たいてい最初に来るのは称賛ではなく、面倒ごとの気配である。
母親が震える手で娘を抱きしめた。
「ありがとう、ございます……」
「礼は結構です。できれば、王都で高い壺を買わされないよう気をつけてください。今のところ、壺より門のほうが危険ですが」
娘が涙目で俺を見た。
「お兄ちゃん、魔法使い?」
「違う。字の雑用係だ」
『ピピはえらい残響なのら!』
「お前はインク泥棒だ」
ピピがむくれた。母子が小さく笑ったので、それでよしとする。弱い人が笑えるなら、俺の評判くらい燃料にしても安い。燃えやすいし。
だが、門兵は笑わなかった。
「術式への干渉は重罪だ」
「暴走した術式を止めた場合は?」
「許可がない」
「人が焼ける許可はあったんですか」
門兵が黙った。沈黙は便利だ。たまに正論より強い。たまに、正論を言った側の胃を余計に痛くする。
そこへ、聞き覚えのある声が降ってきた。
「相変わらず、余計な行を足す男だな」
門塔の階段から、一人の老人が降りてきた。薄い髪を丁寧になでつけ、深い皺を権威の飾りのように顔へ貼りつけている。王都書記院の長、オズワルド。俺の元上司で、俺を追い出す書類にきっと美しい署名をした男だ。
胃が冷えた。
できれば再会は、俺がもう少し背が伸びて、財産が増え、過去の恥を笑い飛ばせる程度に立派になってからがよかった。つまり来世代の話である。
「お久しぶりです、オズワルド書記長」
「フォグレスの獣姫を連れて凱旋か。辺境では、無能にも役目があるらしい」
リゼの目が細くなる。俺は片手で制した。剣で解決すると早いが、その後の書類が増える。俺は書類に負けて追放された男だ。同じ敵に二度負けたくない。
「王都では、有能な方々だけで検閲石をここまで育てたんですね。焼き加減が絶妙でした」
オズワルドの頬がぴくりと動いた。
「口だけは衰えん。だが、貴様が触れた修正はすぐ戻る。正式な補修ではない」
「知っています」
実際、石の奥では元の語が戻ろうとしていた。俺の一語は応急処置だ。巡回する術式に爪を引っかけただけ。数分もすれば、また焼けに戻る。根元の写し間違いか、故意の焼損を直さなければ意味がない。
そして俺は、石の底に見てしまっていた。
焼け焦げた欠落。
トルク村の井戸、眠る石碑、リゼの呪い。あれと同じ痕だ。
『のら……このこげ、知ってるのら』
ピピが小さく震えた。
オズワルドは俺の視線に気づいたのか、杖で石の前を隠した。
「王都の術式は書記院の管轄だ。追放者が覗くものではない」
「では、正式に覗かせてください。地下書庫の建国文書を閲覧したい。フォグレス辺境伯の紹介状もあります」
俺は懐から封書を出した。ガルド様の封蝋が押されている。熊みたいな人の圧力が、蝋になっても分かる。便利だ。できれば俺にも封蝋で威圧感を分けてほしい。
オズワルドは封書を見て、薄く笑った。
「遅かったな、ノエル」
「遅い?」
「建国文書の本巻は、今朝、王宮礼拝堂へ移された。教会の監査だ。署名照合のためにな」
胸の奥が冷たくなった。
教会。監査。署名照合。
嫌な単語が三つ並ぶと、だいたいろくな文章にならない。
そのとき、王都の鐘が鳴った。昼を告げる鐘ではない。短く、硬く、城壁の石を震わせる警鐘だった。
門の検閲石に、勝手に文字が浮かぶ。
俺は読むつもりもないのに読んでしまった。
――建国文書、第一行、開封。
続いて、末尾に小さな署名が灯る。
千年前の石碑で見た、あの筆跡と同じだった。
オズワルドの笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。
王都の空の下で、見えない巨大な頁がめくられる音がした。
(第15話へ続く)




