表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

14/33

王都の綴り間違い

 王都の城壁は、遠くから見ると立派だった。


 近づくと、そうでもない。


 石は黒ずみ、門塔の金飾りは雨でくすみ、上から垂れた旗は風に負けてだらしなく腹を見せている。人間と同じだ。遠目には威厳、近目には生活疲れ。俺の場合は遠目でも生活疲れなので、王都のほうがまだ格上である。


 辺境伯ガルド様が用意してくれた馬車は頑丈で、乗り心地は正直ひどかった。尻が板と親睦を深めすぎて、もう家族同然だ。向かいではリゼが腕を組んで座っている。鎧の金具が揺れるたび、鉄と革と、雨に濡れた毛皮みたいな匂いがした。旅の埃も混じっている。つまり、強そうな匂いだ。便利な表現を発明したので本人には黙っておく。


『王都、字がいっぱいなのら?』


 俺の肩で、ピピが荷物袋から顔を出した。途中の宿でインクを舐めすぎ、口元が黒い。小さな文字の残響がインクで口髭を作っている姿は、威厳という概念に対する挑戦だった。


「いっぱいある。だが読める字は少ない」


『字なのに読めないのら?』


「王都ではよくある。人も同じだ」


 リゼが横目で俺を見た。


「帰ってきた気分は?」


「門前で腹痛を起こしたい気分です」


「正直だな」


「誠実さだけが売りなので。ほかに売るものがありません」


 追放された写本係が、追放された場所へ戻る。感動的に聞こえるかもしれないが、実際は古傷を見せに行くようなものだ。しかも見せた相手が『まだ治っていないのか』と鼻で笑う未来まで、だいたい読める。


 王都西門には、入城を待つ列ができていた。商人の荷車、巡礼者、職人、野菜を積んだ農夫。列の先頭では、門の内側に据えられた青白い検閲石が低く唸っている。


 俺は眉をひそめた。


 唸り方が悪い。


 術式にも機嫌がある、と言うと学者は怒る。だが、ある。少なくとも壊れかけの術式は、人間の役人より分かりやすく不機嫌になる。音が尖り、光が濁り、文字がやたら早足で巡る。


『へくちっ』


 ピピが小さくくしゃみをした。


「こげくさいのら……でも、火事じゃないのら」


「写しの劣化だな」


 門兵が杖を掲げた。検閲石の前に立たされたのは、荷車を引く母親と幼い娘だった。娘は片手に布人形を握りしめ、もう片方の手で母親の服をつかんでいる。


 青い光が二人をなぞった瞬間、石の表面に古代語が浮いた。


 俺の目が勝手に読む。


 ――汚れを持つ者、近づけば焼け。


「おい」


 思わず声が出た。


 現代の門検閲は、本来なら病や呪詛の強い反応を門外へ退けるだけの術式だ。焼く必要などない。というか、焼くな。人を選別する石に火力を持たせる発想は、料理人に斧を持たせるようなものだ。たまねぎは泣くし、客も泣く。


 門兵が母子を押し戻した。


「反応あり。荷を開けろ」


「ただの染料です、旦那様。村で織った布を売りに――」


 母親が袋を開く。中の布は濃い藍色だった。呪詛ではない。安い染料に混ぜられた鉄分が、劣化した検閲石に引っかかっただけだ。


 次の瞬間、石の文字列が一段明るくなった。


 焼け、の語が脈を打つ。


 娘が泣き出した。


 俺は馬車から飛び降りた。飛び降りた、というより落ちた。尻がまだ板と別れを惜しんでいたせいで、足が少しもつれた。英雄譚ならここで華麗に着地するのだろう。俺の場合、膝が現実に忠実だった。


「止めろ!」


 門兵が振り向く。


「何者だ」


「元写本係です。職業的には弱いですが、今だけ信じてください」


「下がれ。王都式検閲に口を出すな」


 王都式。嫌な言葉だ。意味を知らない者が、意味を知らないまま偉そうに唱えるための立派な包装紙である。


 リゼが俺の前に出た。


「フォグレス辺境伯家の者だ。石を止めろ」


 獣の気配を帯びた声だった。門兵たちの手が槍に伸びる。場が張りつめる。俺はその隙間から検閲石を見た。


 文字列は露出している。だが巡回が早い。触れられるのは、一呼吸。


 いつものことだ。俺の人生、余裕という項目だけ誰かが書き忘れている。


「リゼ、三秒ください」


「二秒でやれ」


「給金もないのに厳しい」


 リゼが踏み込んだ。門兵の槍を剣の鞘で弾き、石と俺の間に体を入れる。銀に近い獣毛が首筋に浮かんだ。呪いが表へ出かけている。彼女はそれを押さえ込まず、盾として使う。


 俺は検閲石に手を伸ばした。


 熱い。


 石の表面を巡る文字が指先を切る。魔力のない俺には術式を撃つことなどできない。火も風も雷も出ない。出るのは冷や汗くらいだ。だが、文字が出ているなら読める。読めるなら、一語だけ触れる。


 ――焼け。


 その一語に爪を立てる。


「違うだろ」


 インクも羽ペンもない。俺が持っているのは、写本係時代にさんざん紙で切った指先だけだ。古代語の傷に、古代語の癖を重ねる。


 焼け、を、退け、へ。


 ただ一画。けれど、意味は別物になる。


 青い光が弾けた。


 母子を包みかけていた熱が、風にほどけるように消えた。検閲石の唸りが低く落ち、娘の布人形だけがぽすんと地面に落ちる。


 泣き声が、止まった。


 門前の列が静まり返る。誰も拍手しない。現実はそういうものだ。人が助かった直後、たいてい最初に来るのは称賛ではなく、面倒ごとの気配である。


 母親が震える手で娘を抱きしめた。


「ありがとう、ございます……」


「礼は結構です。できれば、王都で高い壺を買わされないよう気をつけてください。今のところ、壺より門のほうが危険ですが」


 娘が涙目で俺を見た。


「お兄ちゃん、魔法使い?」


「違う。字の雑用係だ」


『ピピはえらい残響なのら!』


「お前はインク泥棒だ」


 ピピがむくれた。母子が小さく笑ったので、それでよしとする。弱い人が笑えるなら、俺の評判くらい燃料にしても安い。燃えやすいし。


 だが、門兵は笑わなかった。


「術式への干渉は重罪だ」


「暴走した術式を止めた場合は?」


「許可がない」


「人が焼ける許可はあったんですか」


 門兵が黙った。沈黙は便利だ。たまに正論より強い。たまに、正論を言った側の胃を余計に痛くする。


 そこへ、聞き覚えのある声が降ってきた。


「相変わらず、余計な行を足す男だな」


 門塔の階段から、一人の老人が降りてきた。薄い髪を丁寧になでつけ、深い皺を権威の飾りのように顔へ貼りつけている。王都書記院の長、オズワルド。俺の元上司で、俺を追い出す書類にきっと美しい署名をした男だ。


 胃が冷えた。


 できれば再会は、俺がもう少し背が伸びて、財産が増え、過去の恥を笑い飛ばせる程度に立派になってからがよかった。つまり来世代の話である。


「お久しぶりです、オズワルド書記長」


「フォグレスの獣姫を連れて凱旋か。辺境では、無能にも役目があるらしい」


 リゼの目が細くなる。俺は片手で制した。剣で解決すると早いが、その後の書類が増える。俺は書類に負けて追放された男だ。同じ敵に二度負けたくない。


「王都では、有能な方々だけで検閲石をここまで育てたんですね。焼き加減が絶妙でした」


 オズワルドの頬がぴくりと動いた。


「口だけは衰えん。だが、貴様が触れた修正はすぐ戻る。正式な補修ではない」


「知っています」


 実際、石の奥では元の語が戻ろうとしていた。俺の一語は応急処置だ。巡回する術式に爪を引っかけただけ。数分もすれば、また焼けに戻る。根元の写し間違いか、故意の焼損を直さなければ意味がない。


 そして俺は、石の底に見てしまっていた。


 焼け焦げた欠落。


 トルク村の井戸、眠る石碑、リゼの呪い。あれと同じ痕だ。


『のら……このこげ、知ってるのら』


 ピピが小さく震えた。


 オズワルドは俺の視線に気づいたのか、杖で石の前を隠した。


「王都の術式は書記院の管轄だ。追放者が覗くものではない」


「では、正式に覗かせてください。地下書庫の建国文書を閲覧したい。フォグレス辺境伯の紹介状もあります」


 俺は懐から封書を出した。ガルド様の封蝋が押されている。熊みたいな人の圧力が、蝋になっても分かる。便利だ。できれば俺にも封蝋で威圧感を分けてほしい。


 オズワルドは封書を見て、薄く笑った。


「遅かったな、ノエル」


「遅い?」


「建国文書の本巻は、今朝、王宮礼拝堂へ移された。教会の監査だ。署名照合のためにな」


 胸の奥が冷たくなった。


 教会。監査。署名照合。


 嫌な単語が三つ並ぶと、だいたいろくな文章にならない。


 そのとき、王都の鐘が鳴った。昼を告げる鐘ではない。短く、硬く、城壁の石を震わせる警鐘だった。


 門の検閲石に、勝手に文字が浮かぶ。


 俺は読むつもりもないのに読んでしまった。


 ――建国文書、第一行、開封。


 続いて、末尾に小さな署名が灯る。


 千年前の石碑で見た、あの筆跡と同じだった。


 オズワルドの笑みが、ほんの一瞬だけ消えた。


 王都の空の下で、見えない巨大な頁がめくられる音がした。


(第15話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ