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王都は誤字でできている

 王都の空の下で、見えない巨大な頁がめくられる音がした。


 比喩ではない。石畳が一枚ずつ薄く鳴り、城壁の継ぎ目から青白い文字が這い出した。家々の軒、排水溝、馬車止め、門兵の兜の縁にまで、細い古代語が浮かぶ。


 王都は本当に一冊の本だったらしい。


 できれば俺は、もう少し読みやすい本から人生の再出発を始めたかった。料理帳とか。いや、料理帳も俺が読むと焦げた鍋の責任を取らされそうだ。


「ノエル」


 リゼが俺の前へ出た。声は落ち着いているが、肩の毛が少し逆立っている。獣化の呪いが警戒に反応して、耳の奥で低く唸っているのが分かった。鎧の革紐から、雨に濡れた獣と鉄の匂いがした。王都の香水まみれの空気より、よほど信じられる匂いだ。


『くしゅんっ、のら! 文字がいっぱいなのら! ピピの鼻がインクで溺れるのら!』


「お前に鼻があるのか、毎回疑問なんだが」


『気持ちの鼻なのら!』


「便利な器官だな。俺も胃の代わりにそれが欲しい」


 門前の列が崩れた。商人が荷車を捨て、旅人が叫び、貴族らしい男が従者に向かって「何とかしろ」と命じている。何とかできる従者なら、たぶん貴族より先に出世している。


 検閲石の文字がまた燃え上がった。


 ――王都へ入る者、その身、その名、その由緒を示せ。


 次の瞬間、列の先頭にいた老人の胸元へ青い線が伸びた。老人は市場へ干し肉を売りに来たのだろう。粗末な上着の内側に、震える手で通行札を探している。


「札が、札が濡れて……」


 紙はぐしゃぐしゃに崩れていた。雨にやられたのか、汗にやられたのか、人生にやられたのか。最後のやつなら俺も仲間だ。


 青い線が老人の胸に触れる。


 文字が変わった。


 ――示せぬ者、偽りなり。焼け。


「またそれかよ」


 俺は走った。走るのは嫌いだ。息が切れるし、足がもつれるし、何より俺の人生は走ったところで大体追いつかれる。だが、老人が焼かれるよりはましだ。


「リゼ!」


「任せろ」


 彼女が俺の横を抜けた。銀の尾がひらめき、門兵たちの槍をまとめて弾く。刃ではなく柄で叩いたのは、ちゃんと加減している証拠だ。俺なら自分の指を叩く。加減以前の問題である。


 青い線が老人の胸を焦がし始める。皮膚ではない。服に縫い込まれた古い護符の文字だ。王都の検閲術式は、札を失った者を偽者と決めつけ、持ち物に残る契約文字を焼いて本人確認を終えようとしている。


 王都らしいやり方だ。相手の話を聞かず、書類を燃やしてから規則通りだと言う。


「触れるぞ!」


 俺は老人の胸元に手を伸ばした。リゼが盾を斜めに差し入れ、検閲石から伸びる熱線を肩で受ける。呪いの獣毛が青く焦げ、嫌な匂いが立った。


「痛くないのか」


「痛い。だから早くしろ」


「正直で助かる。俺の罪悪感が増えるだけだが」


 護符の文字列に指が触れた。熱い。写本係時代、燭台を倒して机を焦がしたときの熱さを思い出す。あのとき俺だけが怒られた。燭台にも責任はあったはずだ。


 読む。


 ――名を示せ。由緒を示せ。示せぬ者を偽りと定め、偽りを焼け。


 乱暴な術式だ。しかも継ぎ目が古い。建国文書の第一行が開いたせいで、門の検閲石が原文に近い命令を思い出している。現代の通行札制度など、千年前の文にとっては薄い後付けの注釈にすぎない。


 俺ができるのは一語だけ。


 焼け、を、待て、へ。


 指先で一画を押し込む。魔力なんて上等なものはない。あるのは、紙で切れた痕と、追放されても捨てられなかった癖だけだ。


 青い火が止まった。


 老人の膝が崩れる。俺は支えようとして、逆に一緒に沈みかけた。十九歳の腕力は、机と本を運ぶ用途にしか育っていない。人命救助には向かない。


「すまん、重い」


「助けてもらって、重いと言われるとは思わなんだ」


「俺も助けながら文句を言う人間になりたくはなかったです」


 老人は息を吐き、焦げた護符を握りしめた。


「ありがとうよ、若いの。わしは、ただ干し肉を売りに来ただけでな」


「王都ではそれが重罪になりかけています。肉の恨みは深い」


 老人がかすかに笑った。よかった。笑える人間は、まだこちら側にいる。


 だが検閲石の奥で、俺の書き換えが軋んだ。待て、の文字が震え、元の焼けへ戻ろうとしている。応急処置は所詮、濡れた壁に貼った紙だ。剥がれるのが仕事である。


 オズワルドが杖を鳴らした。


「勝手な干渉を繰り返すな、ノエル。王都の秩序を乱す気か」


「秩序が人を焼くなら、乱れたほうがまだ健康です」


「その場しのぎで誇るな。貴様の修正は数分で消える」


「はい。だから正式に直す必要があります」


 俺は検閲石を指さした。


「この石の底に焼損があります。しかも辺境で見たものと同じです。自然劣化じゃない。誰かが欠落部を焼いている」


 門兵たちがざわついた。オズワルドの顔は動かない。こういう老人は、感情も公文書の余白に隠す。だが杖を握る指だけが白くなっていた。


「根拠は」


「俺が読んだ」


「追放者の証言だ」


「では、王都書記院長の証言をどうぞ。あなたは読めますか」


 言ってから、少しだけ後悔した。俺は弱い者には誠実でいたいが、元上司には舌が勝手に性格を悪くする。長年の職場環境汚染だ。


 オズワルドの目が細くなった。


「古代語の意味など、完全に伝わってはいない。書記院は音写と保存を司る」


「つまり読めない」


「貴様」


「読めないこと自体は罪じゃありません。読めないまま読める人間を追い出したのが、少し愉快なだけです」


 リゼが小さく咳払いした。止めろ、という合図だ。分かっている。俺も自分の口に縄をつけたい。たぶん真っ先に首が締まる。


 そのとき、王都の奥から二つ目の鐘が鳴った。


 門だけではない。城門通りの街灯が一斉に灯り、まだ昼だというのに青い光で道を縁取った。石畳に文字が流れる。


 ――第一行、照合開始。名なき者を外へ。誤れる綴りを正せ。


『のら……この声、ピピ知ってる気がするのら』


 ピピが俺の肩にしがみついた。普段はインク壺を見ると恋人に再会したみたいな顔をする残響が、今は文字の輪郭を縮めている。


「繰り返せ、か?」


『ちがうのら。でも、近いのら。大きすぎて、さびしい音なのら』


 大きすぎて、さびしい。


 妙な言い方だが、分かる気がした。王都じゅうに広がる術式の声は、命令の形をしているのに、どこか空っぽだった。誰かが千年も同じ文を読み返し、返事のない余白に向かって筆を置き続けたような寒さがある。


 オズワルドが門兵へ命じた。


「封鎖だ。許可なき者を通すな。フォグレスの一行もここで待機させろ」


「待機している間に、次の老人が焼けます」


「王宮から指示が来る」


「指示が歩いてくる速度をご存じで? 人間より遅いですよ。特に責任が絡むと」


 俺はガルド様の封書をもう一度掲げた。


「建国文書の本巻を開いたのは王宮礼拝堂ですね。そこに行きます。原因の頁を見ないと、門も街も止まりません」


「行かせると思うか」


 リゼが一歩前に出た。剣は抜かない。ただ、金色の獣眼で門兵たちを見渡す。


「フォグレス辺境伯名代、リゼ・フォグレスが告げる。王都術式の暴走により民に被害が出た。原因調査のため、ノエル・アルクムを王宮礼拝堂へ護送する。妨げるなら、後で父上が正式な文書を山ほど送る」


 門兵たちの顔色が変わった。


 剣より怖いものはある。辺境伯の抗議文だ。紙は人を刺さないが、出世を殺す。


 オズワルドは沈黙した。門の検閲石では、俺の待てがとうとう半分ほど焼けに戻っている。時間がない。


 やがて老人は、吐き捨てるように言った。


「……礼拝堂の外陣までだ。建国文書には触れさせん」


「触らないで直るなら、俺は今ごろ王都で高給取りです」


「口を慎め」


「努力します。成功例は少ないです」


 俺たちは門をくぐった。


 王都の大通りは混乱していた。街灯は昼を夜と誤認し、噴水は水を空へ戻そうとして逆流し、パン屋の焼き窯からは「未納税の粉を焼くな」という古代語が浮かんで店主を泣かせている。王都の繁栄は、思ったより多くの誤字と妥協の上に乗っていたらしい。俺と似ている。俺は繁栄していないが。


 それでも、人々は助け合っていた。倒れた子を抱き起こす女、荷車を押す兵士、青い文字を踏まないよう隣人に声をかける職人。術式は古くても、そこに暮らす人間は今を生きている。だから、放っておけない。


 礼拝堂へ近づくほど、文字の密度が増した。ピピが俺の襟の中に潜り込み、インクと古紙の匂いをぷすぷす漏らす。くすぐったい。


『ノエル、奥にいるのら』


「誰が」


『書いたひと、じゃないのら。書いたひとの、まねをするもののら』


 リゼが剣の柄に手を置いた。


 礼拝堂の扉は開いていた。中から聖歌ではなく、紙を焼く匂いが流れてくる。祭壇の前に、黒い表紙の巨大な本が置かれていた。建国文書の本巻。ページの端は青い炎をまとい、第一行だけが空中に浮かんでいる。


 そして、その横に白い法衣の男が立っていた。


 ペトル司祭だった。


 彼は俺を見ると、あの薄い笑みを浮かべた。


「遅かったですね、校正者殿。第一行はもう、王都を読み始めました」


 空中の文字が反転する。


 俺は読んだ。読んでしまった。


 ――誤れる民を正し、正しき王を目覚めさせよ。


 祭壇の奥で、誰も触れていない棺の蓋が、内側から一度だけ叩かれた。


(第16話へ続く)

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