棺の中の綴り
棺の蓋が、もう一度叩かれた。
王宮礼拝堂にいた全員が黙った。こういうとき、人間は意外と礼儀正しい。生きている者が死者を恐れるのは分かる。俺だって怖い。特に相手が建国王ともなれば、苦情の宛先が大きすぎる。
ペトル司祭だけが笑っていた。
「聞こえましたか。正しき王がお目覚めになる音です」
「寝起きに棺を内側から叩く王は、だいたい正しくないと思います」
俺は祭壇の上の建国文書を見た。黒い表紙。金具。青い炎。いかにも触ったら人生が終わりそうな見た目だ。俺の人生はもう何度か終わっているので、少し割引が効くかもしれない。
浮かんだ第一行が、礼拝堂の天井へ糸のように伸びていた。
――誤れる民を正し、正しき王を目覚めさせよ。
正せ、目覚めさせよ。
文字は命令の顔をしているが、中身がねじれている。民を守るための文ではない。民を材料に、王という単語を起こそうとしている。
『のら、のら、くしゃみ出るのら……っぷしゅん!』
襟元でピピが跳ねた。小さな文字の体が震え、インクと古紙の匂いがふわりと上がる。礼拝堂の香の匂いと混ざって、たいへんありがたくない筆記具屋みたいになった。
リゼが俺の前へ出る。鎧の革と鉄、獣化した体温の匂いが近い。安心する、と言うと怒られそうだが、俺は高潔な騎士より汗をかく相棒のほうを信用する。
「ノエル。読めるか」
「読める。嫌になるほど読める」
「止められるか」
「触れれば、一語は」
いつもの答えだ。俺は魔法を撃てない。祈れない。王宮の偉い本を前にしても、できることは貧相な写本係の校正だけ。つまり、世界が本当に困っているときには案外役に立つ。ありがたいのか悲しいのか、判断は後世の暇人に任せたい。
ペトルが両手を広げた。
「触れさせませんよ。これは王国の根幹です。魔力も持たぬ追放者が、建国文書に手を入れてよいはずがない」
「魔力のある方々が手を入れなかった結果、棺が打楽器になっていますが」
「黙りなさい」
彼の足元から、白い文字列が立ち上がった。教会式の拘束術。俺でも読める。読めるだけで、食らえば縛られる。知識は万能ではない。鍋の作り方を知っていても、空腹は勝手に去らないのと同じだ。
――罪ある舌を縛れ。
俺の舌を狙うあたり、ペトル司祭は俺をよく分かっている。腹立たしいことに正確だ。
「リゼ!」
呼ぶより先に、リゼが動いた。床を蹴る音が礼拝堂に響き、銀の髪が青い炎を裂く。獣眼がぎらりと光り、彼女は剣の鞘で文字列の根を叩いた。術そのものは消えない。ただ、軌道が逸れる。
白い文字が柱に巻きつき、柱が「罪ある舌」と判定された。王宮建築も大変だ。今日から無口に生きてほしい。
「乱暴な女騎士ですね」
「礼拝堂で棺を起こす司祭に言われたくない」
リゼの声は低い。喉の奥に獣の響きが混じっていた。彼女自身の術式も、建国文書の声に反応している。守れ、守れ、と古い命令が牙の内側で鳴っているのだろう。
俺は祭壇へ走った。
床に青い文字が走る。
――名を照合せよ。血を照合せよ。王を照合せよ。
足を置いた瞬間、靴底が熱くなった。照合対象が俺に移る。まずい。俺の血筋に王の気配などあるわけがない。せいぜい祖父から受け継いだのは偏屈と古文書を読む目、それから悪い椅子に長く座っても耐える尻だ。
「ノエル、左!」
リゼが俺の襟首をつかみ、横へ投げた。
俺は祭壇脇の聖卓に尻から落ちた。痛い。王宮の家具は格式高い硬さをしている。庶民の骨に配慮がない。
青い文字が俺のいた場所を焼いた。
ペトルが建国文書に手を置く。彼の手の甲にも、細い焼け跡のような文字があった。
俺は目を細めた。
「その手、誰に書かれました」
ペトルの笑みが一瞬だけ歪む。
「祝福です」
「便利な言葉ですね。痛いことも怪しいことも、布で包めば祝福になる」
手の甲の文字は現代の祈祷印ではない。古い。だが完全な古代語でもない。写し間違いの混じった命令だ。
――頁を開け。王を起こせ。疑うな。
疑うな。
ああ、最悪だ。人を動かすには、長い呪いより短い命令のほうが効く。俺も昔、上司に「黙って写せ」と言われ続けていた。あれは呪いではないが、似た種類の汚れだった。
「ペトル司祭」
「何です」
「あなた、自分の意思で本巻を開いたつもりですか」
「当然です。王都を正すため、教会の権威を――」
「疑うな、と書かれた手で?」
司祭の顔から血の気が引いた。
その隙に、ピピが襟から飛び出した。小さな文字の塊が空中を泳ぐ。普段ならインク壺へ向かう食い意地の軌道だが、今日は違う。
『その字、まずいのら! ノエル、右の余白に裂け目のら!』
見ると、建国文書の第一行の端、王という語の直後に黒い焦げがあった。自然に古びた傷ではない。焼かれている。井戸も、リゼの術式も、眠る石碑も、同じ手口だった。
誰かが「王」を眠らせる文を、起こす文へ変えた。
しかも雑に。
「王宮の禁書にまで落書きですか。犯人はずいぶん出世したな」
俺は聖卓から身を起こした。祭壇までは五歩。だがペトルがいる。青い炎もある。棺もある。ついでに俺の運動能力は、机から本を落とさない程度にしか鍛えられていない。
リゼが低く言った。
「行け。三息、稼ぐ」
「三息で足ります?」
「足らせろ」
「騎士団式の励ましは乱暴だな」
リゼは笑わなかった。牙が少しのぞいていた。
彼女がペトルへ踏み込む。司祭は白い拘束文字を連ね、さらに祭壇の炎を盾にした。リゼの剣が文字を受けるたび、火花ではなく青い音が散った。
一息。
俺は走る。
二息。
床の照合文字が足首に絡む。冷たい。次に熱い。俺の名を読むな、と心の中で思う。読まれる側になるのは嫌いだ。俺は読むほうで、読まれてもろくな内容がない。
三息。
ペトルの白い文字がリゼの肩をかすめた。彼女の獣化紋が浮く。守護の命令が暴れ、腕の輪郭が一瞬だけ大きく歪む。
「リゼ!」
「触れ!」
怒鳴られて、俺は祭壇へ手を伸ばした。
指先が建国文書の空中文字に触れる。
熱い。
紙ではない。国の骨に触ったような感触だった。王都中の石畳、門、街灯、井戸、屋根、寝床。その下に絡む千年分の命令が、指先から流れ込んでくる。読める。読めてしまう。全部を読めば、たぶん俺の頭は立派な灰になる。
だから一語だけを見る。
――目覚めさせよ。
ここだ。
焼け跡の端に、不自然な継ぎ目がある。本来の語は違う。古い筆致がまだ残っていた。
眠らせよ、ではない。
鎮めよ。
王を目覚めさせるのではなく、正しき王を鎮める。建国文書は王を呼ぶ文ではない。王という巨大な術式を、王都の底で静かに保つための栓だ。
誰かが栓に「開け」と書いた。
「趣味が悪いにも程がある」
俺は爪で空中の一語を押さえた。魔力はない。筆もない。だが、露出した術式に触れ、一語をずらすことだけはできる。
目覚めさせよ、を、鎮めよへ。
文字が抵抗した。指の皮が焼ける。痛い。痛いが、痛みはまだ俺のものだ。なら動かせる。
「書き換わ、れ……!」
青い炎が爆ぜた。
第一行が反転する。
――誤れる民を正し、正しき王を鎮めよ。
礼拝堂の外で鳴っていた鐘が、ぴたりと止まった。
街へ伸びていた文字の糸が、一本ずつほどける。遠くで人々のざわめきが上がった。悲鳴ではない。驚きと、息を取り戻す声だ。
棺の蓋が、最後に小さく軋んだ。
それきり、動かなくなった。
俺は膝をついた。指先が赤く腫れている。写本係の手にしては勤勉すぎる負傷だ。給金に反映してほしい。今は無職に近いが。
リゼが駆け寄り、俺の手を取った。
「無事か」
「指が焼けた。あと寿命が少し縮んだ気がする」
「それを無事と言う」
「騎士団の基準は信用できない」
ピピが俺の手にしがみつき、涙の代わりに小さな点をぽろぽろ落とした。
『ノエル、焦げてるのら。おいしくなさそうなのら』
「食べ物として評価しないでくれ」
ペトル司祭はその場に崩れ落ちていた。手の甲の命令文字が薄れている。完全には消えない。消せない。ただ、いまは効力を失っていた。
彼は震える声で言った。
「私は……王都を救うと……そう言われて……」
「誰に」
俺が問うと、ペトルは唇を動かした。
「青白い男です。祈祷師を名乗った。名は――」
言い終える前に、建国文書の余白がひとりでにめくれた。
風はない。
ページの奥から、黒い焦げが浮かび上がる。俺が直した第一行ではない。もっと深い、製作者の署名に近い場所だ。
そこに、細い文字が新しく書かれていった。
――校正者を確認。
――次頁を開け。
俺の背中を、冷たいものが撫でた。
ペトルが青ざめる。リゼが剣を構える。ピピが小さく呟いた。
『のら……これ、呼ばれてるのら』
棺は沈黙している。
だが建国文書の次の頁で、俺の名前に似た綴りが、ゆっくりと燃え始めていた。
(第17話へ続く)




