名前を間違えるな
俺の名前に似た綴りが燃えている。
似ている、というのが嫌だった。人間、悪口を言われるより名前を雑に扱われるほうが腹の底に来る。俺の人生はだいたい雑に扱われてきたが、せめて表記くらいは丁寧であってほしい。元写本係としての最後の矜持である。最後が多いな、俺の矜持。
建国文書の次頁は、ひとりでに開ききらなかった。半分だけめくれ、そこから青黒い焦げが這い出す。焦げは文字になり、文字は細い指みたいに宙へ伸びた。
――校正者を確認。
――名を照合せよ。
「照合は嫌いです。だいたい給金が安い仕事なので」
俺は焼けた指を握った。痛みで手が震える。格好よく言えば限界、正直に言えば泣きそうだ。
リゼが俺の前に出る。獣化紋が首筋まで浮いていた。鉄と雨に濡れた獣の匂いが近い。いつもの彼女の匂いだ。俺の焦げた指よりはずっと頼もしい。
「下がれ、ノエル」
「下がりたい。すごく下がりたい。だが、文字が俺を読もうとしてる」
床の照合文字がまた動き出した。さっき止めた鐘の余韻みたいに、礼拝堂全体へ細い線が広がる。ペトル司祭は青ざめたまま這って後ずさった。権威ある聖職者の移動方法としてはかなり低姿勢で、説教のときもそのくらいでいてほしい。
「司祭様。あれを止める方法は?」
「知りません……私は、第一行を読めと言われただけで……」
「読みもしないで触ったのか」
「神意だと」
「便利な言葉ですね。鍋を焦がしても神意で済みそうだ」
皮肉を吐いている間に、宙の文字が俺の胸元へ迫った。
――ノエル・アルクム。
今度は正しい。
正しいから困る。間違っていれば赤を入れればよかった。俺の仕事は誤字に強い。正しい命令にはめっぽう弱い。人生と同じだ。正論をぶつけられると反論の余地がなくなる。
ピピが俺の肩に飛び乗った。小さな古代文字の体がぶるぶる震えている。
『くしゃみ、出そうなのら……焦げたにおい、こわいのら』
「俺の指の話なら傷つくぞ」
『ちがうのら。ページの奥、腐ったインクのにおいなのら』
ピピがくしゃん、と小さくくしゃみをした。墨の点が三つ散る。その点が空中の文字に触れた瞬間、照合文の端がにじんだ。
読めた。
――校正者を確認。該当者を保管庫へ送れ。
「保管庫?」
言った途端、床が鳴った。
棺の下だ。王を鎮めるための棺、その台座の真下で、石がずるりと沈む。礼拝堂の床に四角い継ぎ目が現れた。隠し扉。王宮という場所は、どうしてこう余計な部屋を地下に作りたがるのか。日の当たるところで仕事をしろ。
リゼが剣を構えたまま言った。
「罠か」
「たぶん。だが罠としては礼儀正しい。行き先を明記している」
「読める罠ほど悪質だ」
「同感です」
宙の文字が俺の足首に絡んだ。冷たい輪。引かれる。力は強くないが、命令そのものが床の術式と噛み合っている。俺が踏んでいる王都の石が、俺を地下へ渡そうとしている。
俺は魔力を持たない。踏ん張る筋肉も控えめだ。こういうとき役に立つのは根性ではなく、他人の腕力である。
「リゼ、俺を持って」
「言い方を選べ」
「俺を荷物として保護してください」
「よし」
彼女は片腕で俺の襟首をつかんだ。よし、ではない。首が締まる。だが床へ吸われるよりはましだ。人生には低い比較対象が必要である。
照合文は俺を引き、リゼは俺を引き戻す。ペトルは祈り始めた。役割分担としては一番楽そうだ。
俺は空中の文字へ目を凝らした。
命令は三つ。
校正者を確認。
該当者を保管庫へ送れ。
抵抗あれば静めよ。
静めよ。
さっき俺が直した語と同じだ。だが使い方が違う。王を鎮める文は、暴走を抑える栓だった。今この文字の「静めよ」は、俺を黙らせる命令だ。便利な言葉ほど、持ち主で性格が変わる。
「ノエル、触れるか」
「触れたらたぶん持っていかれる」
「なら私が切る」
「文字は切っても意味が残る。俺の評判みたいにしつこい」
リゼの眉が寄る。俺は笑おうとして失敗した。引きずられる足の裏から、床下の冷気が上がってくる。保管庫。何を保管する場所かは知らない。だが「校正者」を送れと書いてあるなら、少なくとも歓迎の菓子はない。
ピピが俺の耳元で囁いた。
『ノエル、名前なのら』
「名前?」
『呼ばれてるの、ノエルだけなのら。リゼは引っぱられてないのら。ピピも、ちょっとくすぐったいだけなのら』
そうか。
術式は俺を読んでいる。俺という人間を腕や足で捕まえているんじゃない。名を照合し、該当者として扱っている。なら、俺を変えられなくても、該当のほうを変えればいい。
問題は、俺の名前が正しく書かれていることだ。
正しい文字を誤らせるのは、写本係としては罪に近い。だが命はもっと大事だ。死んだ写本係は校正できない。死んでから評価される職業もあるらしいが、俺は生前に褒められたい。
「リゼ、三息」
「またか」
「今度は二息でも文句を言わない」
「三息だ。足らせる」
リゼが俺を放した。
同時に床が俺を引いた。足が滑る。俺は前のめりに落ちかけ、祭壇の縁をつかんだ。焼けた指に痛みが走る。視界が白くなる。痛みは俺のもの。なら、まだ動ける。
一息。
リゼが床の文字へ剣を叩きつけた。意味は切れない。でも光の流れは乱れる。俺の足首の輪が一瞬だけ緩んだ。
二息。
俺は宙に浮かぶ自分の名へ手を伸ばす。ノエル・アルクム。祖父が教えてくれた字だ。孤児院の台帳に曲がった字で書かれていた名を、祖父は何度も直してくれた。名は持ち主の家だ、と言っていた。俺の家はずいぶん安普請だが、雨漏りくらいは自分で直す。
三息。
指先が名の末尾に触れた。
変えるのは一語だけ。
ノエル・アルクム、を消すことはできない。消せない。だが、命令の対象をずらすことはできる。
――該当者を保管庫へ送れ。
該当者。
この一語だ。
俺は「該当者」の古代語を押さえた。似た綴りの語を探す。対象者、記録者、確認者、保管者。脳の奥で祖父の声が紙をめくる。
あった。
該当者、を、記録者へ。
命令は俺を送るのではなく、俺の記録を送る文になる。屁理屈だ。だが古代術式は屁理屈に弱い。人間が作ったものだからだ。人間はいつも、自分の抜け道だけ丁寧に残す。
「書き換われ!」
文字が跳ねた。俺の名前から細い火が上がり、胸の奥を引っかいた。息が詰まる。誰かが俺の名を内側から呼んだ気がした。
――ノエル。
俺の声ではない。ペトルでも、リゼでもない。
老人の声に似ていた。
祖父の声に、似ていた。
次の瞬間、照合文が反転した。
――記録者を保管庫へ送れ。
床下の隠し扉が開いた。だが俺の体は引かれない。代わりに、空中から薄い紙片のような光が剥がれ落ちた。俺の名前、体温、傷の数、焼けた指先、読んだ文の痕跡。そういう気味の悪いものを写した影が、ひらひらと地下へ吸い込まれていく。
「人の個人情報を勝手に保管するな」
俺は膝をついた。今度こそ立っていられなかった。
リゼが肩を支える。彼女の腕は熱かった。獣化の熱だ。焦げた革と獣の匂いが混じる。ここが礼拝堂でなければ、もう少し安心できたかもしれない。礼拝堂はたいてい安心の反対側にある。
「無事か」
「記録だけ地下送りになった。俺本体は安物なので残されたらしい」
「軽口が出るなら無事だ」
「騎士団の診断書には絶対に署名しない」
ピピが俺の髪に埋まり、ぷるぷる震えながら言った。
『ノエル、いまの声、ピピも聞いたのら』
「どんな声だった」
『古い声なのら。さびしい声なのら。でも、ピピの「繰り返せ」と同じところから来た感じなのら』
その言葉で、礼拝堂の空気が一段冷えた。
繰り返せ。
灯り石からこぼれてピピが生まれた言葉。眠る石碑の底でトマスが聞いた声。壊れた術式の奥に、何度も残っていた孤独な命令。
俺は地下へ開いた口を見た。石段が続いている。青い炎は消え、棺は沈黙し、王都の鐘も鳴らない。事件は終わった。王は起きなかった。街はひとまず息をした。
だが俺の記録は、保管庫へ行った。
招待状としては最悪だ。返事を出していないのに、出席簿だけ先に取られた。
ペトル司祭が震えながら床に額をつけた。
「私は……私は、こんなものがあるとは……」
「でしょうね。知っていたなら、もう少し上手に怯えたはずです」
俺は彼を見下ろした。怒りはあった。だが、いま彼を踏みつけても床が汚れるだけだ。俺の靴も安物だし、もったいない。
「ペトル司祭。青白い祈祷師の名を聞きます。今度は最後まで」
彼は唇を震わせた。
「モルグ、と。けれど、私に命じた男は別にいました。王宮書庫の奥で、顔を布で隠した者が……モルグを、ただの筆だと言った」
リゼの手が剣にかかる。
「名は」
「分かりません。ただ、その者は自分をこう呼ばせていました」
ペトルが言いかけた、そのとき。
地下の保管庫から、紙をめくる音がした。
一枚ではない。何百枚もの紙が、同時に息をするような音。
そして開いた闇の底から、淡い文字が浮かび上がった。
――先代校正者、アルクム老の記録を照合。
――血縁照合、一致。
――後継を地下書庫へ通せ。
俺は息を忘れた。
祖父の名が、そこにあった。
(第18話へ続く)




