地下書庫の招待状
祖父の名が、闇の底に浮かんでいた。
アルクム老。
王都では、古い紙に埃を払う老人など、だいたい名前では呼ばれない。おい、じいさん。写本係。そこの手の遅いの。俺の祖父はそう呼ばれて、それでも背筋だけはまっすぐだった。
その名が、王宮地下の術式に保存されている。
喜ぶべきか、怒るべきか、まず膝が痛かった。人間は感情より関節のほうが正直だ。礼拝堂の床は冷たく、焼けた指先は熱い。俺の体は会議を開いた末に「とりあえず寝たい」と結論を出していたが、地下書庫は待ってくれないらしい。
「後継、か」
リゼが低く言った。剣を握る手に、銀色の毛が薄く浮いている。獣化の熱で、焦げた革と血と、雨に濡れた獣みたいな匂いがした。安心する匂い、と言うには礼拝堂が陰気すぎる。
「勝手に後継にされる職業は、だいたい給料が安い」
「行くのか」
「行かなければ、向こうがまた俺の記録を勝手にめくる。書類に追われる人生はもう充分だ」
ピピが俺の襟元から顔を出した。小さな体を作る文字が震え、インクを舐めたあとの甘い匂いがかすかにする。
『ピピも行くのら。古い紙の音、くしゃみが出そうなのら』
「くしゃみだけで済むなら連れていく。爆発は遠慮してくれ」
『ピピは上品な残響なのら』
「上品な奴は俺の袖でインクを拭かない」
ペトル司祭は床に座り込んだまま、唇を青くしていた。さっきまで人を神罰の材料にしていた男としては、ずいぶん人間らしい顔だ。嫌いな相手が人間らしい顔をすると困る。怒鳴るにも、殴るにも、言い訳の在庫が減るからだ。
「司祭」
俺が呼ぶと、彼は肩を跳ねさせた。
「あなたは上で待ってください。逃げればリゼが追います。告解したければ、紙に書いておくといい。口よりは長持ちします」
「私は……本当に、王が蘇ると」
「死人を便利な道具にする話は、だいたい生きている人間の都合です」
ペトルは目を伏せた。赦したわけではない。赦しは俺の仕事ではないし、俺が配ると安っぽい。だが、今ここで彼を壊しても、壊れた術式は直らない。
リゼが短く部下に命じ、駆けつけた騎士たちが司祭を囲んだ。彼らの鎧にも煤がつき、誰も余裕のある顔をしていない。王都のきれいな礼拝堂は、ようやく辺境の現実に追いついたらしい。歓迎はしないが、遅刻として記録しておく。
俺たちは地下へ降りた。
石段は狭く、湿っていた。壁には燭台があるのに火はなく、代わりに文字が薄く光っている。読むなと言われても読める。俺の悪い癖であり、唯一の取り柄でもある。
――保管。照合。継承。閲覧制限。
嫌な単語ばかりだ。料理屋の看板に「腐敗」「腹痛」「支払い倍額」と書いてあるようなものだ。入る前から胃が重い。
途中で、リゼが俺の前に出た。
「足跡がない」
「掃除が行き届いているんだろう。王宮の地下書庫で一番怖いのは清潔さだ」
「冗談ではなく言っている」
「俺も半分は本気だ」
石段の終わりに扉があった。扉というより、石壁に文字だけが並んでいる。取っ手も鍵穴もない。読める人間以外を客と認めていない顔だ。俺も飲食店なら入店拒否される側なので、親近感はない。
文字が、俺の前でゆっくり動いた。
――後継者の身体照合を求む。
「また体か。王都は人を部品扱いするのが好きだな」
リゼが眉を寄せた。
「触れるな。罠かもしれない」
「罠じゃない術式のほうが珍しい。とはいえ、こいつはすでに俺の記録を持っている。照合のためにまた肉を要求するのは、手続きが重複している」
『お役所なのら』
「千年経っても直らない呪いだ」
俺は扉の文に指を近づけた。魔力はない。撃てる魔法もない。できるのは、そこにある命令を読み、触れられる場所で一語だけずらすこと。
身体照合。
この語を変えればいい。血を垂らす趣味はないし、リゼの前で倒れると、あとで食事量を増やされる。ハンナさんの飯はうまいが、療養食という名の山盛りは兵器だ。
身体、記録、署名、記憶。
祖父の声が、頭の奥で古い紙をめくる。
――名を読むときは、相手の居場所を読むんだ。
俺は息を止めた。
「身体」を「記録」へ。
指先が文字に触れた瞬間、焼けた皮膚が悲鳴を上げた。こちらも悲鳴を上げたいが、リゼの前で格好悪い声を出すのは人生の損失だ。もう何度も出している気はするが、帳簿は見ないことにする。
「書き換われ」
文字が反転した。
――後継者の記録照合を求む。
床下から、さきほど地下へ吸い込まれた俺の記録が薄い紙片となって舞い上がった。俺の名、傷、読んだ文字の痕跡。まるで俺という人間を雑にまとめた目録だ。せめて「性格に難あり」は小さく書いてほしい。
紙片が扉に吸い込まれる。
石壁が音もなく開いた。
中は書庫だった。
ただし、まともな書庫ではない。棚は天井まで伸び、巻物と石板と金属片が眠っている。紙の匂い、鉄の匂い、古い雨の匂い。王宮の地下にこんな湿った場所を作る設計者は、書物に恨みがあるか、書物より湿気を信じているかのどちらかだ。
そして中央に、机が一つ。
机の上に、一冊の黒い台帳が開かれていた。
リゼが周囲を見回す。肩の毛が逆立ち、獣の目が暗がりを拾っている。
「誰かいる」
「人か」
「わからない。匂いが薄い。紙と灰に混じっている」
『ピピ、くしゅんするのら……くしゅん!』
小さなくしゃみが響いた瞬間、棚の間から文字の帯が滑り出した。蛇のように床を這い、俺たちを囲む。リゼが剣を抜くより早く、帯は形を取った。
老人だった。
いや、老人の形をした文字だった。背は曲がり、肩は細く、片手に羽根ペンを持っている。顔の輪郭は崩れているのに、目元だけ妙にはっきりしていた。
俺は呼吸を忘れた。
「……じいちゃん」
文字の老人は答えなかった。代わりに、机の台帳が勝手にめくられる。
――先代校正者、アルクム老。記録残響、起動。
――後継者に保管庫規約を伝達する。
規約。
祖父の再会にまで規約を挟むあたり、王宮地下書庫は徹底している。泣く前に署名欄を探させるな。
老人の形が、かすれた声を出した。
『ノエル』
祖父の声だった。
正確には、祖父の声を紙でなぞったものだ。温度がない。咳の癖も、朝の茶をすする音もない。それでも俺の胸を、昔と同じ場所で乱暴につかんだ。
『これを聞くということは、おまえは読めてしまったのだな』
「悪かったな。字だけは得意で」
『得意でいい。だが誇るな。読める者は、読めない者より偉いのではない。先に危ない穴を見つける係だ』
「嫌な家訓を残すな」
リゼが黙って俺の横に立った。何も言わない。その沈黙がありがたかった。慰めの言葉は、今の俺には大きすぎる。落ちてきたら潰れる。
祖父の残響は続けた。
『王宮地下には、建国文書の写しがある。正しくは、文書ではない。国を国として保つための基礎術式だ。王、王都、街道、税、戸籍、祈祷、軍旗。すべてが一つの長い文に接続されている』
俺は黒い台帳を見た。
ページの隅に、見覚えのある署名があった。
フォグレスの千年術式。リゼの呪い。トルク村の井戸。眠る石碑。棺の中の綴り。
同じ筆致。
同じ、孤独な署名。
「国は一篇の術式」
喉から、勝手に言葉がこぼれた。
祖父の残響がうなずく。
『そして誰かが、そこから一語ずつ焼いている』
リゼの息が鋭くなる。
「祈祷師か」
『名は変わる。顔も変わる。人である時も、人でない時もある。だが筆は同じところへ戻る。署名の主へ』
ピピが俺の肩で縮こまった。
『ピピ、その言葉、こわいのら』
俺は指先でピピの頭を軽く撫でた。文字の体はひんやりしているのに、震えだけは生き物みたいだった。
「大丈夫とは言わない。俺は嘘が下手だし、下手な嘘はたいてい税金より高くつく。でも、おまえを道具扱いはさせない」
『のら……』
祖父の残響が、初めて俺たちを見たように顔を上げた。
『小さな残響を連れているのか』
「ピピだ。よく食う。インクを」
『ならば名を守れ。残響は命令から生まれる。名を得なければ、命令に戻される』
胸の奥が冷えた。
ピピが命令に戻る。繰り返せ、という一語にほどける。そんなものは解呪でも救済でもない。ただの巻き戻しだ。俺は巻き戻されるために字を読んできたわけではない。
「方法は」
『名を間違えさせるな。名を奪う文を見つけたら、一語だけで逸らせ。おまえにはそれしかできない』
「知ってるよ。俺は万能の英雄じゃない。便利な赤ペンだ」
『赤ペンは、時に剣より長く残る』
祖父がそんな気取ったことを言う人だったかどうか、少し疑わしい。記録残響は本人より真面目になるのかもしれない。死後に性格が校正されるなら、俺はかなり削られそうだ。
そのとき、黒い台帳の奥で、ページが勝手に止まった。
文字が浮かぶ。
――建国基礎術式、欠落進行率、七割二分。
――王都戸籍文、誤照合増加。
――次回自動校正、夜明け鐘三つ。
――校正者不在の場合、都市全域を初期文へ復帰。
「初期文?」
俺はページへ顔を近づけた。読める。読めてしまう。こういうとき、無学ならよかったと少しだけ思う。無学は罪ではないが、読めるのに読まないのは逃亡だ。逃亡するにも荷物が多すぎる。
初期文。
建国時の記録へ戻す命令。
今の住民、今の戸籍、今の街路、今の約束。それらを、術式が「誤差」とみなして削るのではない。消せないから、上書きする。古い国の形で、今を塗り潰す。
俺の背中を汗が伝った。
「王都が、千年前の文に戻される」
リゼの顔から血の気が引いた。
「人はどうなる」
「戸籍文に載らない者は、街の術式から住民として認められない。門、井戸、灯り、治癒院、配給。全部が弾く。最悪、棺の照合みたいに、存在しない者として処理される」
言いながら、胃が縮む。
弱い者から死ぬ。いつだってそうだ。書類の端に名前を書かれなかった子ども、病人、働けない老人、路地裏の職人、王都に流れ着いた者。立派な屋敷の連中は抜け道を買うだろう。祈祷も、証明書も、特別な印章も。
俺はそういう紙の外にいた。
だから、見捨てる理由がない。
「夜明け鐘三つまで、どれくらいだ」
リゼが即答する。
「二刻もない」
「徹夜仕事か。写本係を追放した王都が、最後に写本係へ夜勤を押しつける。美しい因果応報だな。美しすぎて吐きそうだ」
祖父の残響が薄れはじめた。文字の輪郭がほどけ、棚へ戻ろうとしている。
「待て。じいちゃん。どこを直せばいい」
『建国文書の中核は、この書庫にはない』
「は?」
『王宮の最下層。戴冠の間の下。そこに、原本がある。だが原本へ入る鍵は、ここに保管されている』
机の引き出しが開いた。
中には、一本の古い羽根ペンがあった。軸は黒く焼け、先端だけが銀色に光っている。触れる前から、指先の火傷が疼いた。
『アルクムの読み手に継がせる。決して新しい文を書くな。おまえに魔力はない。だからこそ、余計な願いで国を壊さずに済む』
「褒めてるのか、貧弱認定なのか、どっちかにしてくれ」
『両方だ』
祖父の残響が、ほんの少し笑った気がした。
俺は羽根ペンを取った。軽い。頼りない。世界を支える道具としては、拍子抜けするほど安っぽい。俺と似ている。非常に不本意だ。
その瞬間、書庫の奥で別の音がした。
紙をめくる音ではない。
誰かが拍手した。
一度。二度。三度。
棚の影から、布で顔を隠した細い人影が現れた。ペトルが言っていた、王宮書庫の奥の者。匂いは薄い。紙と灰と、乾いた血のようなものが混じっている。
リゼが剣を構え、低く唸った。獣の匂いが濃くなる。
人影は笑った。
「よく読めました、後継者」
声は男とも女ともつかない。だが、その言葉の末尾に、俺は見覚えのある筆致を聞いた。
モルグを筆だと言った者。
署名の主へ戻る筆。
人影は、焼けた指のように黒い手を伸ばし、黒い台帳の最後のページを開いた。
そこには、俺の名がすでに書き込まれていた。
ノエル・アルクム。
その横に、小さく一語。
――材料。
(第19話へ続く)




