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材料ではなく名前

 人は、自分の名前の横に「材料」と書かれているのを見ると、意外なほど冷静になる。


 いや、嘘だ。冷静なふりをするだけだ。内臓は全員で逃げ出す相談を始めているし、膝は職務放棄の申請書を書いている。俺の身体は王都の役所より仕事が早い。


「材料、か。せめて備品にしてくれ。写本係は消耗品扱いに慣れている」


 布で顔を隠した細い人影は、棚の影から半歩だけ出た。黒い台帳の文字が、その足元へ細い根のように伸びている。


「謙遜を。あなたは大事な部品です。読める者は、今や希少ですから」


「褒めるなら給金で頼む。言葉は食えない」


「残響は食べますよ」


 その一言で、俺の肩の上にいたピピがびくりと跳ねた。インク瓶を抱えていた小さな文字の塊が、俺の襟にしがみつく。


「の、のら……ピピは食べられる側じゃないのら」


「名を持った残響。かわいらしい誤差ですね」


 人影の声が笑った。男にも女にも寄らない、湿った紙を裂くような声だ。リゼが一歩前に出る。剣先は相手の喉へ向いているが、相手の喉が本当に急所なのかは分からない。王都に来てから、急所の定義が日に日に怪しくなっている。


「下がれ、ノエル」


「下がりたい気持ちは山ほどある。山脈にして売れるくらいある」


 だが、俺は黒い台帳から目を離せなかった。


 そこには俺の名があり、横に「材料」。そしてその下に、さらに小さな文字列が浮かび上がっていた。


 ――不足校正者を素材化し、中核へ送付。


 嫌な言い回しだ。素材化。料理人が肉を切るときでも、もう少し敬意がある。


「俺を中核に運んで、何をする」


「読むためです。建国基礎術式は、読み手なしでは自動校正を完了できない。ならば読み手を組み込めばよい」


「人を栞みたいに挟むな」


「栞は本を傷めません」


「それは栞の側の意見を聞いてから決めろ」


 リゼが踏み込んだ。


 獣化の呪いが腕に走り、銀の毛並みが手首から肩へ広がる。彼女の匂いが濃くなる。鉄、革、雨に濡れた獣の体温。それは恐怖ではなく、ここに生きている者の匂いだった。


 剣が人影の布を裂いた。


 だが、中身は空だった。


 布の奥から、灰色の文字がほどけて舞う。モルグと同じだ。人の形をした命令。違うのは、こちらの筆致がずっと細かく、古いことだった。


「切れぬか」


 リゼが舌打ちした。


「切れますよ。形は」


 文字の灰が笑い、人影の形に戻る。


「意味は切れない」


「嫌な理屈だな。俺の上司に似ている」


 台帳から黒い文字列が伸びた。蛇のように床を這い、俺の足首へ絡みつく。触れた場所が冷える。痛みはない。ただ、俺という記述を勝手に分類されている感覚がした。


 俺は慌てて羽根ペンを握った。祖父から受け取った、焼けた軸の古いペン。軽いくせに、指先の火傷だけはしっかり疼かせてくる。性格が悪い。道具は持ち主に似るのか。いや、祖父に失礼か。


「ノエル!」


 リゼが文字の束を断ち切る。だが切れた端からまたつながる。剣では意味を殺せない。俺が知っている。知っているから腹が立つ。


 黒い文字列が俺の靴を覆い、膝へ上がってくる。


 ――素材化。


 その単語だけが、他より濃い。


 読める。


 触れれば、変えられる。


 だが床に這う文字は速い。俺が屈む前に、リゼが俺の襟首をつかんで引きずった。情けない悲鳴が出た。英雄譚なら決して採用されない音だ。


「届くか」


「届かせる」


「無茶を言う」


「いつも言われている」


 リゼは俺を片腕で抱え、もう片方の爪で床を削った。獣化した脚が石床を蹴る。俺の視界が棚、天井、リゼの肩、ピピの涙目でぐるぐる回る。吐く暇もない。仕事熱心な胃袋だけが不満を申し立てている。


 文字列が追ってくる。


 ピピがくしゃみをした。


「くしゅんっ、のら! 黒いの、ピピの名も見てるのら!」


 台帳の端で、新しい行が開いた。


 ――残響個体、ピピ。

 ――名を命令へ還元。


 胸の奥が、すっと冷えた。


 怒るより先に、理解してしまった。名を得なければ命令に戻される。祖父の残響が言った通りだ。ピピは「繰り返せ」という命令からこぼれた小さな命だ。なら、名を奪われれば、また命令へ戻される。


 小さな相棒が、ただの一語になる。


 そんな校正は認めない。


「リゼ、台帳だ。床じゃない。本体はページにある」


「近づけるか」


「近づけてくれたら、たぶん生きる」


「たぶんを作戦に入れるな」


「俺の人生はだいたいたぶんでできてる」


 リゼは答えず、俺を抱えたまま台帳へ突っ込んだ。


 人影が手を広げる。灰色の文字が壁になった。そこに古代語が並ぶ。


 ――侵入者を拒め。


 単純で強い命令。嫌いではない。嫌いではないが、仕事の邪魔だ。


 リゼがぶつかる直前、俺は腕を伸ばした。指先が文字の壁に触れる。熱い。いや、冷たい。痛みの種類まで校正されている感じがする。


 拒め。


 俺は羽根ペンの銀の先を押し当て、一語を削るようにずらした。


 ――侵入者を導け。


 壁が開いた。


「便利だな」


「便利じゃない。寿命が縮む」


「あとでハンナに飯を作らせる」


「それは延びる」


 俺たちは台帳の前に転がり込んだ。正確にはリゼが着地し、俺が床に配達された。王宮書庫の床は高級そうだが、背中に優しくはない。高級品とはそういうものだ。庶民に冷たい。


 台帳のページがめくれ上がる。


 俺の名。材料。


 ピピの名。還元。


 どちらも濃い。どちらにも触れられる。だが俺にできるのは一語だけだ。何度も書き換えればいい、というほど甘くない。巡回する術式はすぐ元へ戻る。ここは建国文書の鍵を握る台帳だ。反発も強い。指一本で大河を押し返すようなものだ。俺の指は大河どころか、朝の硬いパンにも負ける。


 どちらを変える。


 俺を救えば、中核へ行ける。ピピを救えば、俺は素材になるかもしれない。


 ピピが俺の袖をつかんだ。


「ノエル、ピピはだいじょうぶのら。ピピは繰り返すの、得意のら」


「黙れ」


 思ったより低い声が出た。


 ピピが目を丸くする。文字でできた顔に、ちゃんと驚きが浮かぶ。命令にそんな顔はない。


「得意でも、戻っていい理由にはならない」


 俺は台帳を読んだ。


 材料。還元。素材化。送付。命令。


 一語で逸らせ。祖父の声が頭の奥に残っている。俺にはそれしかできない。何もかも救う文は書けない。だが一語なら、意味の流れを曲げられる。


 俺の名の横の「材料」に触れれば、俺だけ変わる。


 ピピの「還元」に触れれば、ピピだけ助かる。


 違う。


 本当に触るべきは、その上の命令だ。


 ――不足校正者を素材化し、中核へ送付。


 中核へ送るのは必要だ。夜明け鐘三つまでに原本へ行かなければ王都が古い文へ戻る。問題は素材化だ。俺を人の形のまま送ればいい。荷物扱いは不満だが、粉末にされるよりはましだ。


 俺は「素材化」に羽根ペンを突き立てた。


 焼けた軸が熱を持つ。指先の皮が裂ける感覚。血がにじんだ。魔力はない。だから血で押すしかない。安い身体だが、たまには役に立つ。


「素材化」を一語、書き換える。


 ――同行化。


 意味としては苦しい。古代語の文法としても品がない。祖父が生きていたら眉間にしわを寄せただろう。だが通る。通ってくれ。俺は美文家ではない。締切前の修理屋だ。


 台帳が震えた。


 文字列が一斉にほどけ、俺の足首から離れる。代わりに、床へ円が描かれた。俺、リゼ、ピピを囲む細い文字の輪。


 人影の笑いが止まった。


「……校正者以外まで」


「同行だ。荷物持ちと、護衛と、食費担当を含む」


「規定外です」


「王都の規定はだいたい人を殺す方向に親切だからな。少し不便にした」


 ピピがぽかんと俺を見る。


「ピピ、荷物持ちのら?」


「インク瓶を持ってるだろ」


「重要任務のら!」


「そうだ。だから名札を落とすな」


 ピピは両手で自分の胸を押さえた。そこに小さく浮かぶ「ピピ」の二文字が、淡く光る。命令ではない。名前だ。


 リゼが俺の手を見た。


「血が出ている」


「出血くらいなら慣れてる。給料よりよく出る」


「あとで縛る」


「できれば優しく」


「状況による」


 優しさにも条件がある。実に現実的な女騎士で、俺は信頼している。


 人影が台帳を押さえた。灰色の文字が乱れ、布の下の顔らしき部分が崩れる。そこに一瞬だけ、古い署名の端が見えた。


 建国王ヴェルバ最後の王。


 いや、王の名だけではない。末尾に続く、さらに小さな筆致。まるで王の署名の下に、誰かが本当の筆を置いたような跡。


 俺が目を凝らすと、人影は布を引き寄せて隠した。


「見るな」


「読むな、じゃないんだな」


「あなたは読む。だから見るな」


「無理な注文だ。写本係から目を奪ったら、残るのは貧弱な腰と悪い口だけだぞ」


 文字の輪が強く光り始めた。台帳の命令が発動する。同行化。中核へ送付。俺の雑な一語が、どうにか道を作ったらしい。


 人影がこちらへ手を伸ばす。


「後継者。原本に触れれば、あなたは知る。国とは民を守る器ではない」


「だろうな。器にしては、よく漏れる」


「国は、ひとつの願いを繰り返すための文です」


 ピピが小さく震えた。


 繰り返す。


 またその言葉だ。


 床が抜けた感覚がした。実際には抜けていない。文字の輪が俺たちを下へ運んでいる。石の床、書庫の棚、黒い台帳、人影が上へ遠ざかる。落下ではなく、文章の行間へ滑り込むような移動だった。説明しても誰も信じないだろうし、俺も信じたくない。


 最後に、人影の声が降ってきた。


「夜明けまでに直せなければ、王都は初期文へ戻る。直せたとしても、原本はあなたを校正者として記録する」


「それの何が困る」


「校正者は、誤字がなくなるまで終われない」


 返事をする前に、光が途切れた。


 次の瞬間、俺たちは冷たい石床に投げ出された。今度は高級ではない床だ。背中への遠慮がさらにない。王宮の最下層は、客を迎える作法を地下に埋めたらしい。


 リゼがすぐに立ち上がり、周囲を確認する。ピピは俺の胸の上で目を回していた。


「のらら……文字酔いのら……」


「吐くならインク瓶には吐くなよ。貴重品だ」


「吐かないのら。ピピは上品のら」


 上品な残響は俺の襟で鼻を拭いた。まあ、命令に戻るよりはずっといい。


 そこは円形の広間だった。壁一面に古代語が刻まれている。床にも、柱にも、天井にも。文字でできた洞窟。王宮の下に、こんなものが眠っていたのか。


 中央には巨大な扉があった。


 戴冠の間の下。建国文書の原本。


 扉の表面には鍵穴がない。ただ、銀の羽根ペンと同じ形の溝が一本、縦に走っている。


 俺は息を吐いた。


「ここに差せ、ってことか。もっと分かりやすく『ようこそ死地へ』と書いておけ」


 リゼが扉を見上げる。


「ノエル。読めるか」


「読める」


 読めてしまった。


 扉の上部に刻まれた一文。


 ――校正者入室時、同行者の不要名を整理する。


 俺は黙った。


 不要名。


 その下に、すでに二つの名前が浮かび始めていた。


 リゼ・フォグレス。


 ピピ。


 俺の手の中で、銀の羽根ペンがかすかに震えた。


 夜明け鐘三つまで、もう時間はない。


(第20話へ続く)

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