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不要名を、必要名へ

 人は追い詰められると、案外どうでもいいことを考える。


 俺の場合は、巨大な扉に相棒二人の名前が殺されかけている最中に、「不要名」という言葉の響きが役所の書類みたいで腹立つな、だった。


 リゼ・フォグレス。


 ピピ。


 二つの名前が扉の下部に浮かび、細い銀線で囲われていく。整理される名。つまり、入室記録から外す。古代語は遠回しに残酷だ。斬首台に花柄の布をかけるような品の悪さがある。


 ピピの胸の「ピピ」の二文字が、薄く滲んだ。


「のら……? ノエル、ピピ、薄くなってるのら?」


「気のせいだと言いたいが、俺は嘘が下手でな。給金交渉にも失敗し続けた男だ」


 リゼが剣を抜いた。革と鉄と、血の乾いた匂いが近い。獣化の呪いを抱えた彼女の気配は、いつも少し熱を持っている。無害な香水とは真逆だが、今の俺にはそれがひどく頼もしかった。


「斬るか」


「扉を?」


「名前を囲っている線を」


「やめろ。古代術式に物理で勝とうとすると、たいてい物理の方が負ける。俺の人生と同じだ」


「なら読め」


「読んでる」


 扉の文章は短い。


 ――校正者入室時、同行者の不要名を整理する。


 問題は「不要名」だ。


 不要と判定された名は、扉の内側へ入れない。身体だけ弾かれるならまだいい。いや、よくはないが、まだ怒鳴れる。だがこれは名前を整理する術式だ。名前が術式上から外れれば、リゼは守護対象でも騎士でもなくなる。ピピに至っては、名前そのものが芯だ。消されれば、ただの散った文字に戻る。


 消せない。解けない。壊せない。


 俺にできるのは、いつだって一語だけだ。


「ピピ、こっちに来い」


「もう来てるのら。ノエルの襟にしがみついてるのら」


「上品な残響は襟を握る力が強いな」


「命綱のら」


 リゼが一歩、俺の前に出た。


「時間は」


「少ない。夜明け鐘三つまで、という親切な脅迫を受け取っている」


「突破する」


「突破する。ただし俺が触るまで、お前は名前から目を離すな。変化したら教えろ」


「了解した」


 俺は銀の羽根ペンを握り直した。王宮地下の冷気が指に食い込む。さっき切った掌の血が固まりかけて、ペン軸に嫌な感触を残していた。高価な道具に安物の血。美術品への冒涜だが、先に俺たちへ冒涜してきたのは向こうである。


 扉へ近づく。


 すると文字が動いた。


 浮かんだリゼの名から、最初の一画がほどけた。リゼ・フォグレスの「リ」が細い糸になり、扉の溝へ吸われていく。


「ノエル」


 リゼの声が低くなる。


「一画消えた」


「見えてる。嫌な趣味だな、まったく」


 俺は扉に触れようとして、弾かれた。


 指先に火花が散る。痛い。痛いが、火傷で済んだ。俺の魔力がゼロで助かったのかもしれない。術式は魔力ある侵入者を焼くつもりだったのだろう。俺の空っぽさが、たまに鍵穴の形をする。誇るには泣ける特技だ。


 扉の中央に、別の文が浮かぶ。


 ――校正者以外、原本に触れるべからず。


「堅いな」


「破れるか」


「破らない。破れない。俺は校正者だ。門番と喧嘩するより、門番の勤務表に落書きする方が向いてる」


 触れないなら、触れる場所を探す。


 扉本体ではなく、浮かんだ名前。リゼとピピの名は整理対象として露出している。つまり術式の処理中だ。処理中の文字には触れられる。厳密には、触れられてしまう隙がある。


 俺は身をかがめ、消えかけたリゼの名へ指を伸ばした。


 銀線が蛇のように跳ねる。


 リゼが俺の肩を掴み、横へ引いた。次の瞬間、俺のいた場所を銀線が抉る。石床に細い焦げ跡が走った。


「助かった」


「二度目は引けないかもしれない」


「俺の運動神経に二度目を期待するな。初回限定品だ」


 ピピがくしゃみをした。


「くしゅんっ。焦げた字のにおいのら。まずいのら、これ、モルグのにおいに似てるのら」


 俺の背筋が冷えた。


 モルグ。朽ちよ、と一字違いの名を持つ、人の形をした残響。あいつの灰色の文字列と、この扉の銀線。似ている。単に古いからではない。命令が、名を道具として扱う手つきが似ている。


 ピピは怯えながらも、俺の襟から顔を出した。


「ノエル、ピピの名前、まだあるのら?」


「ある」


「ちゃんとピピのら?」


「ちゃんとピピだ。誰かの部品じゃない」


 口にしてから、俺は自分の声が少し強くなっていることに気づいた。


 名前を材料扱いする連中には、どうも腹が立つ。王都の机で俺を便利な誤字取り機にした連中も、教会で呪いを布施の袋にした連中も、古代の扉でリゼとピピを不要品棚へ片づけようとする何かも、根は同じだ。


 人を読むな。


 まず名で呼べ。


「リゼ、俺を投げろ」


「どこへ」


「あの文字の輪の内側。名前に触れればいい」


「受け身は」


「期待するな。写本係の受け身は、床に謝ることだ」


「本当に投げるぞ」


「頼む」


 リゼは一瞬だけ俺を見た。瞳の奥に、獣の金色が揺れる。呪いに削られながら、それでも人を守る目だ。


「命を預けると言った」


「ああ」


「私の名前も預ける」


 重い。


 俺の薄い胸板に載せるには、あまりに重い言葉だ。だが、載せられたなら落とせない。落としたら俺は本当に、悪い口だけの男になる。


「返す。少しも削らずに」


 リゼが俺の腰帯を掴んだ。


 次の瞬間、俺は投げられていた。


 人間は飛べない。少なくとも俺は飛べない。だが騎士団長代理に投げられた写本係は、短時間だけ飛翔物として扱われる。分類はたぶん危険物だ。


 銀線がこちらへ走る。


 俺は空中で羽根ペンを突き出した。狙うのは、扉の本文ではない。処理中の「不要名」の一語。扉の上部に刻まれた語の影が、名前の銀線に投影されている。そこなら触れられる。


 指先が焼ける。


 痛みで視界が白くなる。


 それでも読めた。


 不要名。


 不要、とは誰が決めた。


 校正者一名だけを原本へ通すための安全規定。余計な名を捨て、文章を純化する。いかにも古代の偉い誰かが好みそうな冷たい理屈だ。だが文章は、削ればいつも良くなるわけじゃない。余白がなければ息ができず、呼び名がなければ返事ができない。


 俺は一語を書き換えた。


 ――不要名。


 ――必要名。


 美しくはない。だが正しい。


 扉が鳴った。


 鐘ではない。巨大な本の背を叩いたような、低い音だった。銀線が硬直し、リゼの名からほどけていた一画が逆流する。消えかけた「リ」が戻る。ピピの胸の二文字も、滲みを止めてくっきり光った。


「のらっ!」


 ピピが叫んだ。


「ピピ、濃くなったのら!」


「インクをこぼしたみたいな言い方をするな」


 俺は床に落ちた。受け身はない。床に謝る暇もない。肺から空気が逃げ、ついでに尊厳も少し逃げた。


 リゼが駆け寄り、俺を抱き起こす。


「腕は」


「ある。痛い。つまり生きてる」


「無茶をした」


「投げたのはお前だ」


「頼んだのはお前だ」


「責任の所在が円満に分裂したな」


 リゼはため息をついた。怒っているのか、安堵しているのか、その両方だろう。彼女の鎧からは汗と革と石埃の匂いがした。生きている者の匂いだ。扉に整理される無臭の記録とは違う。


 扉の文が変わっていた。


 ――校正者入室時、同行者の必要名を整理する。


 必要名。


 文字の輪が三つ浮かぶ。俺の足元に一つ。リゼの足元に一つ。ピピには小さすぎるせいか、俺の肩の高さに一つ。輪はそれぞれの名を読み上げるように淡く震えた。


 ノエル・アルクム。


 リゼ・フォグレス。


 ピピ。


 そして、扉の溝が開いた。


「銀の羽根ペンを」


 リゼが言う。


「差すんだな」


「罠では」


「罠だろうな。だが罠ではない王宮設備を俺はまだ見ていない」


 ピピが俺の肩で胸を張る。


「ピピも必要名のら」


「ああ。必要だ」


「荷物持ちだからのら?」


「それもある」


「それも、のら?」


 俺は少しだけ言葉を探した。古代語なら読める。現代語で大事なことを言うのは、いつだって難しい。


「名前を呼ぶ相手が減ると、道中が退屈になる」


「遠回しのら」


「俺にしては素直だ」


 ピピは頬をふくらませ、それから俺の耳元に額を押しつけた。文字でできた身体は少し温かい。インクと焦げた紙の匂いがした。


 俺は銀の羽根ペンを扉の溝へ差し込んだ。


 ぴたりとはまる。


 扉の表面を覆っていた古代語が、外側から内側へ向かって流れ始めた。文章がページをめくるように裂ける。奥から白い光が漏れた。いや、白いというより、紙の色だ。まだ何も書かれていない羊皮紙の、嫌に清潔な明るさ。


 扉が開く。


 その先に、部屋があった。


 広くはない。玉座も黄金もない。あるのは円形の机と、その上に置かれた一冊の巨大な本だけだ。本の表紙には金具が打たれ、鎖で机に繋がれている。周囲の壁には、この国の地図のような線が刻まれていた。山脈、河、街道、城壁。だがよく見れば、それらはすべて文章だった。


 国は一篇の術式。


 人影の言葉が、胃の底に沈む。


 リゼが剣を構えたまま入る。ピピは俺の肩で震えながら、鼻をひくつかせた。


「くしゅ……ここ、いっぱいあるのら」


「何が」


「同じにおいのら。モルグと、ピピと、もっと古い声のにおいのら」


 俺は本へ近づいた。


 表紙の中央に、建国王ヴェルバ最後の王の署名がある。第十九話までに何度も見た、あの大仰で立派な署名だ。王様らしく、無駄に線が長い。権威はだいたい曲線が多い。


 だが、その下。


 扉の前で一瞬見えた、小さな筆致が今度は隠れていなかった。


 俺は息を止める。


 末尾に添えられた真の署名。


 ――反復記録者、ピピア。


 ピピが俺の肩で固まった。


「のら……?」


 その瞬間、巨大な本がひとりでに開いた。


 白いページに、黒い文字が走る。


 ――必要名三件を確認。

 ――校正者ノエル・アルクムを原本編集者として仮登録。

 ――残響ピピ、原署名との類似率、九十七。


 俺の喉が乾いた。


 リゼが低く問う。


「ノエル。どういう意味だ」


「分からない」


 分かりたくない、の方が正しい。


 ページの文字は止まらない。


 ――夜明け鐘三つまで残り一刻。

 ――初期文復元を開始する。

 ――対象、王都全域。


 遠くで、鐘が一つ鳴った。


 まだ夜明けではない。


 だが王都の上で、何かが先に目を覚ました。


(第21話へ続く)

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