初期文を止めるな、折り返せ
鐘の音は、地下でもよく響いた。
石と土を何層も挟んでいるはずなのに、胸骨を内側から叩かれたみたいに鳴る。王都の鐘は立派だ。税金がどこへ消えたか分かりやすい。少なくとも俺の給料にはならなかった。
巨大な本の白いページに、文字が走り続ける。
――初期文復元、第一段階。
――王都全域の現行補正文を照合。
――不一致箇所を旧文へ戻す。
「旧文へ戻す、だと?」
俺は思わず声を漏らした。
リゼが剣を構えたままこちらを見る。
「危険なのか」
「危険という言葉に謝ったほうがいいな」
王都は古い。建物も、水路も、灯り石も、城壁の結界も、千年分の修理と継ぎ足しでどうにか立っている。古い椅子をだましだまし使っている家で、突然『購入時の形に戻します』と言い出す召使いがいたらどうなる。脚は抜け、背板は割れ、座った主人の尻だけが歴史に残る。
まして王都は椅子ではない。人が住んでいる。
ページの端に、小さな地図が浮いた。線ではなく文章でできた地図だ。通り、橋、排水溝、城壁、広場。文字の一部が黒く反転していく。
地上で、何かが軋んだ。
石の悲鳴だった。
「ノエル」
「水路だ。たぶん下水と上水の分岐文が古い形に戻りかけてる」
「戻ると?」
「飲み水が便所と仲直りする」
「止めろ」
「言い方だけ聞くと簡単そうで腹が立つな」
俺は本に手を伸ばした。ページの文字は生き物のように逃げる。いや、生き物ならまだ可愛げがある。こいつは役所の書類だ。人の都合など読まない。
俺は読める。魔力はない。火球も出せないし、雷も落とせない。せいぜい書類の誤字を見つけて、上司に嫌な顔をされる人間だ。だが、術式が文章であるなら、誤字は世界に穴を開ける。
なら、その穴を塞ぐ仕事くらいはできる。
「ピピ、匂いは」
肩の上で、ピピが震えながら鼻を鳴らした。文字でできた小さな体から、焦げた紙と薄いインクの匂いがする。いつもの匂いだ。生きているというには紙っぽすぎるが、記録というには温かすぎる。
「くしゅ……濃いのら。ページの奥、古い声がぐるぐるしてるのら」
「モルグと同じか」
「似てるけど、もっと大きいのら。ピピのお腹の奥もむずむずするのら」
ピピの胸には、さっきまで滲んでいた二文字が光っている。反復。繰り返す者。
表紙にあった真の署名。
反復記録者、ピピア。
俺はその名を見ないふりをした。見ないふりは大事だ。人間は見ないふりで税と借金と傷心をやり過ごしてきた。もっとも、見ないふりで術式は直らない。残念ながら現実は俺に冷たい。
ページが次の文を吐いた。
――照合完了。
――旧文復元率、一割。
――対象拡大、生活基盤文。
「生活基盤文?」
リゼの声が低くなる。
「灯り、水、門、井戸、暖房、街道標識。王都民が朝まで生きていたいと思うもの一式だな」
「お前の皮肉は今いらない」
「俺の皮肉はだいたい需要がない」
床が揺れた。
壁の地図の一角、東の市場を示す文章が白く剥がれた。そこから黒い糸のような文字が伸びる。文字はページへ吸い込まれ、旧文へ並べ替えられていく。
古代語の列を追う。
復元。復帰。初期化。整合。原本。
嫌な言葉が並んでいる。昔の写本室で、オズワルドが部下に向かって使っていた言葉に似ていた。『正しい形に戻せ』と言う奴ほど、何が正しいか読んでいない。だいたい机が大きい。
「止める文字はどこだ」
リゼが俺の前に立つ。剣先が床の文字を弾いた。火花ではなく、細い句読点が散る。
「止めるな」
「何?」
「復元そのものを止めると、たぶん防衛文が反応する。原本編集者として仮登録されたばかりの俺が、いきなり中核命令を削れば敵扱いだ。俺は人生で何度も敵扱いされてきたが、王都全域を相手にするのは遠慮したい」
「ではどうする」
「向きを変える」
術式は消せない。削れない。祈れば消えるなら俺の過去の失言も消えている。できるのは、既にある文の一語を書き換えることだけだ。
俺はページの流れを目で追った。
――対象、王都全域。
この文はさっきも出た。こいつが広すぎる。ここを狭めればいい。だが『全域』を『この室』に変えるのは文脈が合わない。古代語は意味で動く。似た形の字を入れればいいわけではない。間違えれば、『この室を王都全域として扱う』などという素敵な惨事になり、俺たちは本棚と一緒に国家規模の雑巾になる。
必要なのは、復元を止めずに、循環させる語。
初期文へ戻すのではなく、初期文を読み直して、現行文へ照合し直す。
「ピピ」
「のら?」
「反復って、ただ同じことを繰り返すだけじゃないよな」
ピピが目を瞬かせた。目と言っていいのか分からないが、そこはもう雰囲気で押し切る。
「ピピは、同じ言葉でも、ちょっと違う場所で聞くのら。だから覚えるのら」
「上出来だ。俺より賢い」
「いつもなのら」
「否定したいが、証拠がない」
ページの文字が一瞬、震えた。
――残響ピピ、原署名との類似率、九十八。
上がった。
リゼが俺の肩を掴む。
「ノエル、ピピに何か起きている」
「分かってる」
分かっているから、胃が冷える。
ページの奥から、細い声がした。
声というより、濡れた筆が紙を撫でる音に近い。
――記録者、戻れ。
ピピの体がふらりと浮いた。肩から離れかける。俺は反射でつかんだ。指先に文字の温度が触れる。温かい。インク臭い。少し焦げ臭い。俺たちの道中で何度も鼻を鳴らし、インクを舐め、余計なことを言い、必要なことを言った小さな残響の温度だ。
「戻るな」
俺は言った。
命令ではない。頼みだ。俺は命令が下手だ。昔、写本室で命令される側ばかりだった人間は、声の張り方からして貧しい。
「ピピはピピだ。ピピアだか何だか知らんが、今ここで俺の肩を勝手に空けるな。左肩は既に人生に占領されている。右肩くらい選ばせろ」
「意味が分からないのら」
「俺も半分分からん」
ピピが、ぎゅっと俺の指にしがみついた。
「でも、戻らないのら」
それで十分だった。
ページが怒ったように黒く染まる。
――原署名回収、失敗。
――復元を継続。
床の文字列が立ち上がった。細い刃のような文が、俺の腕へ向かって走る。触れられれば、たぶん俺の名前も古い台帳のどこかへ整理される。十九年分の失敗がきれいに消えるなら少し魅力的だが、成功も一緒に消える。成功は少ないので貴重品だ。
リゼが吼えた。
人の喉と獣の喉が重なった声だった。彼女の腕に銀毛が走り、爪が伸びる。獣化の呪い。忌まわしい焼け跡。だが今は、俺の前で文字の刃を砕く盾だ。
鉄と爪が古代語を裂く。
「早くしろ!」
「今、急かされると字が汚くなる!」
「綺麗に死にたいのか!」
「汚く生きたい!」
俺は本に身を乗り出した。
リゼが腕で文字刃を受ける。鎧の隙間から血が飛んだ。獣の匂い、鉄の匂い、汗と革の匂いが混ざる。生きた戦場の匂いだ。無垢な紙の白さより、よほど信じられる。
俺の指がページの一語に触れた。
――復元。
これを書き換える。
消すのではない。戻すのでもない。
復元を、反復へ。
初期文を現行文へ押し潰すのではなく、初期文と現行文を往復させ、差分を記録させる。修理屋がまず傷を確かめるように。医者がいきなり足を切らず、どこが膿んでいるか見るように。
俺は銀の羽根ペンを握った。
魔力は流れない。いつも通りだ。俺の体は高価な杖としては最低で、安物の筆置きとしてはまあまあだ。だが羽根ペンは扉の鍵であり、この本の備品でもある。文字に触れ、既存の線を一語だけなぞり替える。
復元。
反復。
一画、違う。
意味は、まるで違う。
黒い文字が跳ねた。ページが俺の指を噛むように締めつける。爪の間に痛みが刺さり、血がにじんだ。俺の血は魔力を含まない。術式からすれば水増しされた赤インクだろう。安上がりで悪かったな。
「ノエル!」
「書いてる!」
最後の線を引いた。
――初期文反復。
本が沈黙した。
鐘の余韻が消える。
壁の地図を走っていた黒い反転が、ぴたりと止まった。次に、反転した部分がゆっくり元へ戻る。東市場、水路、橋、灯り石。旧文へ引きずり戻されかけた現行文が、押し潰されず、ページの端に写し取られていく。
――初期文反復、開始。
――現行補正文との差分を記録。
――王都全域への旧文上書きを保留。
保留。
この世でいちばんありがたい役所言葉だった。
俺は息を吐き、その場に膝をついた。床が近い。最近の俺は床と親しい。社交界に出せるほどの付き合いだ。
リゼが俺の肩を支えた。彼女の腕から血が垂れている。
「腕」
「浅い」
「嘘だな」
「お前もよく言う」
「俺は弱いから嘘が小さい」
リゼは鼻で笑った。獣化の名残で少し牙が見える。その顔を見て、俺はやっと胸の奥が緩んだ。
ピピが俺の指にしがみついたまま、へなへなと肩へ戻ってくる。
「ピピ、吸われかけたのら」
「ああ」
「ピピアって、だれのら」
「分からない」
「ピピは、ピピのら?」
俺はすぐに答えなかった。
軽く言えば嘘になる。重く言えば、この小さな文字の体には重すぎる。
「少なくとも、俺に余計なことを言うピピは、お前だけだ」
「それ、褒めてるのら?」
「俺の語彙では最上級だ」
ピピは不満そうに頬をふくらませ、それから小さく笑った。
本のページがまた動いた。
今度は暴走ではない。整然と、筆記係が報告書を書くように文字が並ぶ。
――差分記録、第一項。
――王都現行文、過去二十年の補正欠落多数。
――欠落原因、校正者不在。
「耳が痛い報告だな」
俺が王都を追い出されてから、写本室は呪文の意味を読めない連中だけで回っていた。いや、回っているふりをしていた。古代語を知らない者が古代術式を写し、間違え、誤魔化し、神妙な顔で印章を押す。王都は誤字でできている。第十五話の俺が言った通りだ。誰だ、あんな嫌な予言をした奴は。俺だ。
さらに文字が続いた。
――欠落補正責任者、王立写本局長オズワルド・ケイン。
――署名照合。
――改竄痕、二百十三件。
俺は目を細めた。
「……おい」
リゼが覗き込む。
「お前の元上司か」
「元が付くと少し胃に優しいな」
オズワルド。
俺を追放した男。魔力のない写本係など不要だと笑った男。王都魔法の劣化を、たぶん自分の机の下に押し込んできた男。
だが改竄痕。
ただの無能ではない。無能はここまで丁寧に隠せない。あの男は読めないはずだ。なら、誰かに読ませたか、誰かの指示でやった。
ページの下部に、焼け焦げたような黒い穴が浮かんだ。
トルク村の井戸。リゼの呪い。眠る石碑。何度も見た、故意に焼かれた欠落の跡。
俺の背筋が冷えた。
――改竄補助署名、照合不能。
――ただし筆致、祈祷師モルグの残響文と一致率、六十一。
――上位署名を検出。
ページの白が、すっと暗くなる。
黒い文字が一行だけ浮かんだ。
――夜明け鐘三つ、第二鐘まで残り半刻。
――反復記録者ピピアの回収に失敗したため、代替手順を起動。
「代替手順?」
ピピが俺の襟を握る力を強めた。
リゼが剣を構え直す。
本の中央に、王都の地図とは別の文が現れた。
王宮のさらに下。
俺たちがいる地下書庫よりも深い場所へ伸びる、細い階段の文章。
その先に、棺の形をした余白が描かれていた。
余白の中に、名前が一つずつ書かれていく。
ノエル・アルクム。
リゼ・フォグレス。
ピピ。
そして、四つ目。
――オズワルド・ケイン、入室許可済。
俺の口の中が、ひどく乾いた。
地上で、二つ目の鐘が鳴り始めた。
(第22話へ続く)




