二つ目の鐘の下へ
二つ目の鐘は、一つ目よりずっと近く聞こえた。
地下書庫の天井を抜け、石壁の奥で鳴っている。音というより、巨大な手で王都全体の背骨を叩いているようだった。上品な比喩ができなくて申し訳ない。俺の背骨はさっきから床と階段に叩かれっぱなしで、語彙まで打撲している。
ページに描かれた細い階段の文章は、俺たちの足元の床へ写った。
――下層建国文庫、入室経路開放。
――許可名、四。
俺の名、リゼの名、ピピの名。そしてオズワルド・ケイン。
「罠だな」
リゼが即答した。血の匂いと、獣化の名残の熱い獣毛の匂いが近い。本人は平然としているが、腕の傷は平然の顔をしていい深さではない。騎士という職業は、痛覚を領主館の納戸にでも預けてくる決まりがあるのか。
「罠でも、行くしかない」
「分かっている。だから嫌な顔をした」
「俺の仕事を取るな」
ピピが俺の襟から顔を出した。文字でできた小さな体が、薄く震えている。いつものインクの匂いに、焼けた羊皮紙みたいな焦げ臭さが混じっていた。
「下、くしゃみ出そうなのら」
「汚染か」
「あと、知らない文字の匂いがするのら。甘くて、苦いのら」
「文字の味見をするな。お前は子どもか」
「ピピは文字なのら」
反論として強すぎる。
俺はページの端に残った報告文を見た。夜明け鐘三つ。第二鐘まで残り半刻、という表示はもう過去になった。つまり残るは三つ目。代替手順が何かは分からない。分からないものほど律儀に人を殺す。世の中の呪いはだいたい説明不足だ。
「リゼ、腕を」
「下りながらでいい」
「よくない。血で滑ったら俺が死ぬ」
「お前の心配か」
「俺の命は俺にとって大事なんだ。希少価値だけはある」
リゼは短く息を吐き、渋々腕を差し出した。俺は書庫の机に残っていた写本用の布で傷を縛る。きつく結ぶと、リゼの眉が一瞬だけ動いた。
「痛いなら痛いと言え」
「痛い」
「素直でよろしい」
「すごく痛い」
「そこまで素直でなくてもいい」
俺たちは床に現れた文章の階段へ足を踏み入れた。
石が開く。実際に階段があったわけではない。床に書かれていたはずの文章が、意味に従って形を取り始めた。古代語はいつもそうだ。文字のくせに、物より物らしい顔をする。
一段目に足を置いた瞬間、壁に白い文字が浮いた。
――入室者、名を確認。
俺の胸元でピピがびくりと跳ねた。
――ノエル・アルクム。
――リゼ・フォグレス。
――ピピア。
「違うのら!」
ピピが叫んだ。
階段の縁が黒く染まる。名の照合がずれた。たった一文字。たった一文字で、床は床でなくなり、俺たちを落とす口になる。
「ピピはピピなのら! アはいらないのら!」
「落ち着け」
「落ち着けないのら!」
壁の文字が続く。
――反復記録者ピピア、未回収。
――代替固定、開始。
階段が鳴った。下から細い黒線が這い上がる。線ではない。文字列だ。小さすぎて普通なら読めないが、俺の目はそういう嫌なところだけ役に立つ。
――名を戻せ。
――戻せ。
――戻せ。
ピピの体から文字が一画ずつ浮き上がった。小さな腕がほどける。頬の丸みが崩れ、知らない名へ並び替えられようとしていた。
俺は舌打ちした。
「リゼ、三歩分だけ時間をくれ」
「三歩でいいのか」
「俺の人生で一番大きく出た」
リゼが前に出た。
彼女の剣が黒い文字列を叩き落とす。斬るというより、刻まれる前の意味を弾く動きだった。獣化の呪いが腕に浮かび、銀の毛が皮膚を覆う。傷口からまた血がにじんだが、リゼは止まらない。
俺は壁へ手を伸ばした。
文字へ触れる。冷たい。凍った水ではなく、長いあいだ誰にも読まれなかった言葉の冷たさだ。
――反復記録者ピピア、未回収。
消すことはできない。解呪なんて便利な言葉は、祈祷用の金皿に乗せて売ればいい。俺にできるのは、一語だけ変えること。
未回収。
そこをなぞる。
未固定。
一画、ほんの一画違うだけでいい。
指先が裂けた。血が文字の溝に入り込む。魔力のない血だ。術式から見れば、また安物の赤インクである。だが安物にも使い道はある。少なくとも、俺の財布とは違って空ではない。
――反復記録者ピピア、未固定。
黒線の動きが止まった。
ピピの体から浮いた文字が、ぱちんと音を立てて戻る。小さな体は俺の襟をつかみ、震えながらも自分の形を保った。
「ピピは、ピピのら」
「ああ。今は固定されていないらしいからな。名乗り放題だ」
「それ、いいことなのら?」
「少なくとも、勝手に別名で呼ばれるよりはいい」
俺は壁から手を離した。書き換えた文字が、もう薄く戻り始めている。巡回する術式の一語は長くもたない。分かっていた。分かっていても、毎回むかつく。徹夜で書いた報告書を上司に赤線一本で返される気分だ。しかもその上司がオズワルドだった場合、殺意まで付属する。
「急ぐぞ」
リゼが俺の背を押した。
階段を下りるほど、空気が重くなった。古い紙、湿った石、油、鉄。そこに、かすかに花のような甘さが混じる。王宮の地下で花の匂いがする時点でろくなものではない。だいたい死体か、金持ちの趣味か、術式の腐敗だ。三つとも王都名物である。
壁の左右には、建国史で見た紋章が並んでいた。剣、麦穂、王冠、そして開いた本。
ただし本の紋章だけ、頁が棺の形をしている。
「趣味が悪いな」
「王家の紋章に言うことか」
「聞こえていたら改善してほしい」
「千年遅い」
「俺の出世もだいたいそれくらい遅れている」
階段の途中で、足元に紙片が落ちていた。
新しい。王宮の封蝋が割れている。俺は拾って広げた。
王立写本局長オズワルド・ケインに対し、下層建国文庫への臨時入室権を与える。
王印は本物だった。
その下に、もう一行。
――校正者不在時、写本局長を代替筆頭とする。
俺は思わず笑った。
「俺を追い出しておいて、不在時の代替だと」
「笑うところか」
「笑わないと胃が抗議文を書く」
オズワルドは読めない。古代語の意味を知らない。だが肩書きだけは持っている。術式は人間の愚かさに妙に寛容だ。判子が押してあれば中身を見ない役所と同じで、たまに国を滅ぼす。
いや、たまにではないかもしれない。
下から声が聞こえた。
「なぜだ……なぜ開かん!」
聞き覚えがありすぎて、胃が古傷のように痛んだ。
オズワルド・ケイン。
俺を追放した時は、ふかふかの椅子に座り、指先ひとつ汚していなかった男。その声が今は濡れた石に反響し、みっともなく裏返っている。
「局長殿はお困りらしい」
「助けるのか」
リゼの問いは冷たくなかった。ただ確認だった。
俺は少しだけ黙った。
助けたくない。正直に言えば、階段の踊り場からそっと帰りたい。ついでに領都へ戻って、ハンナの飯を食べ、コルムの生意気な手紙に赤を入れ、ピピにインク壺の蓋を閉め忘れるなと叱る生活がしたい。
だが下にあるのは建国文庫だ。王都全域の術式に繋がる場所だ。そこに読めない男が入って、読めないまま何かをしようとしている。
読めない者が触るな、というのは俺が昔から言われてきた言葉だ。魔力のない者が触るな。役立たずが触るな。不要な名前が触るな。
だから俺は、同じ言葉を同じ形では返したくなかった。
「助ける。殴るのはその後だ」
「順番が大事だな」
「俺は礼儀正しい男だからな」
ピピが小さく鼻を鳴らした。
「ノエル、ちょっとかっこいいのら」
「珍しいことを言うな。三つ目の鐘より怖い」
俺たちは階段を駆け下りた。
最下層には扉がなかった。代わりに、巨大な頁が空間そのものに立っていた。紙ではない。白い石に、無数の文字が刻まれている。頁の中央には棺の形をした余白。その前で、オズワルドが両手を石に押し当てていた。
痩せた肩。乱れた白髪。豪奢な局長服は泥と煤で汚れ、袖口には黒い文字が絡みついている。
「開け……私は局長だぞ。王印もある。代替筆頭だ。開け!」
「肩書きで石が開くなら、俺は今ごろ王宮の風呂を私物化してる」
オズワルドが振り返った。
その顔に浮かんだ感情は、驚き、怒り、安堵、そしてすぐに安堵を隠すための怒りだった。人間は見栄のためなら、沈む船の上でも帽子を整える。
「ノエル……貴様、なぜここに」
「招待状をもらった。俺の名が勝手に書いてあったから、苦情を言いに来た」
「貴様のような魔力なしが入れる場所ではない!」
「その魔力なしを代替にしている頁の前で言う台詞か。芸が細かいな」
オズワルドの口が震えた。
「私は……私は命じられただけだ。王都の術式劣化を止めるため、建国文庫を開けと。古い補正文を戻せば、すべて正常になると」
「誰に」
「知らん。顔は見ていない。封書だ。上位の署名があった。王家にも教会にも通じる署名だ」
リゼが一歩前に出た。
「封書は」
オズワルドは懐を押さえた。その瞬間、袖口の黒文字が締まった。彼の手首から血が散る。
「ぐっ……!」
頁に文字が浮く。
――代替筆頭、接続済。
――読解能力、不足。
――血縁記録、不足。
――名簿補填、開始。
棺の形をした余白に、オズワルドの名が沈んでいく。
その下に、別の名が浮かんだ。
ノエル・アルクム。
「また俺か」
俺は乾いた声を出した。最近、厄介ごとの名簿は俺を自動登録する機能でも付いたのか。解約窓口を探したい。
オズワルドが叫んだ。
「助けろ、ノエル!」
その言い方は、命令ではなかった。
初めて聞く、ただの人間の声だった。
俺は走った。リゼが黒文字を斬り払い、ピピが俺の耳元で「右、下、焼けてるのら!」と叫ぶ。頁の右下、棺の縁。そこに見慣れた焦げ跡があった。
故意に焼かれた欠落。
俺はそこへ指を突っ込んだ。
痛みが肩まで走る。読める。嫌になるほど読める。
――不要名を棺へ収め、初期王文を再起動する。
不要名。
俺は前に、その言葉を必要名へ変えた。名前は材料ではない。人を部品みたいに扱う術式は、俺の嫌いなものランキングでかなり上位に入る。ちなみに一位は薄給で、二位がオズワルドだった。今は少し順位を考え直している。
一語だけ。
不要名を、必要名へ。
同じ手は通じるか。分からない。だが古代語は、意味を嫌うほど律儀だ。必要名なら、棺へ収める対象ではなく、起動に立ち会う証人になる。
俺はなぞった。
――必要名を棺へ収め、初期王文を再起動する。
違う。
収め、が残っている。
背筋が凍った。
俺が変えるべきだったのは、不要名ではない。
頁が笑うように震えた。
――必要名ノエル・アルクム、収棺開始。
「まずい!」
リゼが俺の胴をつかんだ。だが遅い。棺の余白が開き、白い手のような文字が俺の足首を絡め取る。
オズワルドの拘束は解けた。彼は床に倒れ、呆然と俺を見ている。
俺は歯を食いしばった。
「……ほら見ろ。人助けなんて、俺には向いてない」
「黙れ、引き上げる!」
リゼの腕に銀の獣毛が広がる。ピピが俺の襟にしがみつき、泣きそうな声で叫ぶ。
「ノエル、消えちゃだめのら!」
棺の内側に、文字が灯った。
そこには署名があった。
千年術式の末尾、建国禁書、井戸、石碑、リゼの呪い。そのすべての奥にあった、同じ筆致。
そして署名の下に、俺の知らない文章が一行だけ増えた。
――校正者を迎える。これより、建国王ヴェルバ最後の王、応答を開始する。
(第23話へ続く)




