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棺の中の王

 白い手に足首をつかまれた瞬間、俺は自分の人生で一番ましな走馬灯を期待した。


 幼い頃に祖父から古代語を叩き込まれた記憶とか、王都文書院で安月給に泣いた日々とか、リゼに首根っこをつかまれて辺境へ運ばれたこととか、そういう涙あり笑いありの名場面だ。


 だが現実は残酷である。


 最初に浮かんだのは、昨日の夕飯をもう一杯食べておけばよかった、だった。


「ノエル!」


 リゼの声が遠くなる。いや、俺が遠くなっている。棺の形をした余白に、腰まで沈み込んでいた。石の中なのに冷たくない。むしろ紙の束へ落ちるような、乾いた感触が全身を包む。


 ピピが襟にしがみついたまま、文字の尾をばたつかせた。


「いやのら! ノエルはしまっちゃだめのら!」


「同感だ。俺は整理整頓される側の人間じゃない」


 強がって言ったが、膝が震えていた。情けない話だが、俺の膝はだいたい正直者だ。持ち主よりずっと信用できる。


 リゼが両腕を獣化させ、俺の腕をつかむ。銀毛の間から血がにじむほど力を込めているのに、棺の文字はびくともしない。


 頁の奥で声が鳴った。


 声、というより文章が音のふりをしていた。


『校正者を迎える。必要名を収め、王文を検める』


「検めるだと」


 俺は息を呑んだ。


 さっき読んだ文は、初期王文を再起動する、だった。だが内側では違う。外から見える命令文と、内側で動く本文がずれている。


 嫌な仕組みだ。表紙に『健全な会計帳簿』と書いておいて、中身が横領記録だった文書院の倉庫を思い出す。あれを見つけた俺の給料は上がらず、倉庫の鍵だけ増えた。


「読めるか!」リゼが叫ぶ。


「読める。腹が立つほど読める」


「なら直せ!」


「簡単に言うな。俺は魔法使いじゃない。ただの誤字係だ」


 棺の内側には無数の古代語が流れていた。王都の水路、鐘楼、街路の灯り、城壁の防護、戸籍、税印、罪人名簿。国を国らしく見せている便利な仕掛けが、全部ひとつの頁から枝分かれしている。


 国は一篇の術式。


 以前、モルグが吐いた言葉が腹の底で重く沈む。


 その一篇が、今、俺を脚注として取り込もうとしていた。脚注ならまだいい。たぶん注釈にもならない。虫除けのしおりくらいだ。


 オズワルドが床から這い寄った。


「貴様、何をしている! 早く自分を外せ!」


「今やってる。横から怒鳴るだけで解決するなら、あんたは王都一の名医だ」


 言い返す余裕があるうちは大丈夫だ、と祖父は言っていた。祖父は酒代を借りる時も同じことを言っていたので、信用度は半分くらいだ。


 俺は指を動かした。


 触れる場所を探す。術式を書き換えるには、文字に触れなければならない。石の外側でなく、今は内側の文字列に指が届いている。幸運と言うべきか、不幸と言うべきか。棺に飲まれかけているおかげで、普段なら触れない本文へ触れていた。


 ただし、あと少し沈めば俺自身が本文になる。


 人生、得たものと失うものの釣り合いが雑すぎる。


『必要名を収め、王文を検める』


 問題は一語だ。


 必要名は変えたばかりで、今さら戻せない。戻せばオズワルドがまた棺へ入る。あの男を助けるために自分が入るのは癪だが、助けた直後に投げ返すほど器用でもない。


 なら、収め、だ。


 収めるから閉じ込める。必要名を材料ではなく証人にするなら、ここを変えなければならない。


 古代語の候補を頭の中で並べる。


 立てる。呼ぶ。記す。示す。


 違う。王文を検めるなら、必要なのは証人ではなく読み手だ。棺の中へしまうのではなく、頁の前に立たせる言葉。


「ノエル、早くのら!」


「急かすな。古代語は急ぐとろくなことにならない。現代人の契約書と同じだ」


 棺が胸まで来た。息が浅くなる。リゼの手が俺の手首をつかんでいる。獣の爪が皮膚に食い込むが、その痛みがありがたかった。痛ければ、まだ俺は俺だ。


 俺は文字へ爪を立てた。


 収め、を、読ませ、へ。


 たった一語。


 ――必要名を読ませ、王文を検める。


 棺が止まった。


 全身を締めていた白い文字が、ぴたりと静まる。


 次の瞬間、頁の内側から膨大な視線が俺に向いた。目などない。だが読まれている感覚があった。俺が文字を読むのではなく、文字が俺を読む。


 最悪の気分だった。人の心を勝手に覗くな。俺の中身は未整理の写本棚と、食費の計算と、リゼの匂いについて考えないようにしている努力でいっぱいだ。


 リゼの匂いは、鉄と獣毛と汗と薬草が混じったものだ。無臭ではない。むしろ戦場から帰った鎧の匂いがする。安心するかどうかは、その日の死にかけ具合による。


『読解、成立』


 低い声がした。


 棺の奥に、男の形が浮いた。


 王冠をかぶった華やかな王ではない。痩せた男だった。長い外套、骨ばった指、目の下の深い影。絵物語の英雄なら、画家に描き直しを要求する容貌だ。


 だがその指先の形を見た瞬間、俺は理解した。


 井戸の末尾。眠る石碑。建国禁書。リゼの呪いの奥。そこに残っていた署名の筆致と同じ癖が、この男の指にあった。


「お前が……ヴェルバか」


『最後の王。最初の筆。残った名で呼べ』


「呼び方に注文が多いな。俺は元写本係だ。王族の接客研修は受けてない」


 男は笑わなかった。残響だから感情が薄いのか、単に冗談の通じない性格なのか。後者なら千年前から職場に一人はいる種類だ。


『校正者、名を告げよ』


「ノエル・アルクム」


 言った瞬間、頁の外でオズワルドが息を呑むのが分かった。


 俺の名が棺に刻まれる。だが、今度は沈まない。石の表面に、立会人のように留まった。


『アルクム。血縁記録、微弱。読解系統、接続。欠落あり』


「俺の家系まで採点するな。欠落は家計簿だけで十分だ」


『先代読解者は、封じた』


 俺の喉が詰まった。


「祖父を知っているのか」


 リゼの手に力がこもる。ピピも黙った。あの騒がしい小さな残響が黙ると、空気が急に冷える。


『読んだ者はいた。直した者はいなかった。直す者を待った』


「待った結果がこれか。王都中を壊して、人を棺へ突っ込んで、必要名だの不要名だのと品定めして」


『初期文が折れた。鐘は二つ鳴った。三つ目で国は原文へ戻る』


 原文。


 その言葉だけで、背筋に嫌な汗が流れた。


 原文とは、できたばかりの形だ。国を術式として作った最初の状態。今の王都、人、街、記録、積み上がった暮らし。それらを無視して、最初の命令へ戻す。


 便利な言葉で飾れば再起動。実態は、今あるものを古い形に押し込む暴力だ。


「ふざけるな」


 俺の声は、自分で思ったより低かった。


「人は文書じゃない。古い版が美しいからって、今の頁を破っていい理由にはならない」


『破ったのは私ではない』


 男の影が、ゆっくりと右手を上げた。


 棺の内側に、黒い焼け跡が浮かぶ。井戸や石碑で見たものと同じ、故意に削った焦げ。


『焼いた者がいる。祈りの名で巡り、欠けを広げる者。私の文を、私でない命令へ変えた者』


「モルグか」


『モルグは声。手ではない』


 胃の奥が冷えた。


 モルグは残響。道具にされた声。では、その声を使って焼いている手が別にいる。


 教会か。王宮か。あるいは両方の奥に、もっと古いものがいるのか。


『三つ目の鐘までに、外文を止めよ。内文はまだ折れていない』


「止める方法を言え」


『校正者は読む。騎士は留める。小さき反復は継ぐ』


 ピピがびくっと震えた。


「ピピのことのら?」


 男の影が、初めてそちらを向いた。


『繰り返す者。まだ白い』


「白いって何のら。ピピはインク味が好きのら」


「そこは胸を張るところじゃない」


 軽口を挟んだが、俺の指先は冷えていた。ピピとモルグは同じ残響の側にいる。無垢なものと、道具にされたもの。その差を、この王の影は見ている。


 ヴェルバの像が薄れ始めた。


「待て。祖父のことをまだ聞いてない。リゼの呪いも、焼け跡も、あんたの署名が全部にある理由も」


『署名は責任の跡だ』


「なら責任者らしく説明しろ」


『頁を開け。二つ目の鐘の下、封書の灰を読め』


 封書。


 オズワルドが持っていた、上位の署名つきの命令書。


 袖口の黒文字が締めつけた時、血と一緒に燃えたはずだ。紙は灰になった。だが灰も、元は文字だ。


 俺は顔を上げた。


「リゼ、引け!」


 リゼが即座に動いた。理由を聞かない。命を預けると言った女は、こういう時に本当に預けてくる。重い。だが、ありがたい。


 彼女が俺を引き上げる。棺はもう俺を縛らない。白い文字がほどけ、足首から離れた。俺は石床へ転がり出て、情けなく咳き込んだ。


 ピピが俺の頬に体当たりしてきた。


「ノエル、生きてるのら! あったかいのら!」


「確認方法が雑だ。だが合ってる」


 リゼが片膝をつき、俺の肩をつかんだ。


「どこか痛むか」


「全身と自尊心」


「自尊心は元からだ」


「騎士団長代理は時々、治療より深く刺す」


 リゼは短く息を吐いた。笑ったのか、怒りを飲んだのか、その両方かもしれない。銀毛は少しずつ引いていくが、獣の気配はまだ残っていた。焦げた石と血と獣毛の匂いが混ざる。帰る場所とは言いがたいが、少なくとも俺をつなぎ止める匂いだった。


 オズワルドは呆然と座り込んでいた。


「今のは……何だ。王が、応答したのか」


「さあな。残響か、記録か、本人のふりをした面倒な何かか。少なくとも、あんたより説明は短かった」


「私は……私は利用されたのか」


「たぶんな」


 俺は立ち上がり、彼の前に手を差し出した。


 オズワルドはその手を見た。長い沈黙のあと、悔しそうに握った。


 助け起こした瞬間、彼は顔をそむけた。


「礼は言わんぞ」


「期待してない。言われたら体調を疑う」


「だが……封書は、燃えた。証拠が」


「灰はどこだ」


 オズワルドが床の隅を指した。黒い粉が血に濡れて固まっている。


 俺は膝をついた。


 灰に触れる。普通の人間なら、ただの燃えかすだ。俺にとっては、かすれた写本と大差ない。読みにくいだけで、読めないわけではない。


 指先に、焦げた命令文の残りが刺さる。


 ――代替筆頭を導け。

 ――不要名を集めよ。

 ――三鐘の前に、王文を原初へ戻せ。


 そして末尾に署名。


 王家でも教会でもない。


 だが、その双方の公印を使える位置にいる者の名だった。


 俺は灰から指を離し、乾いた喉で言った。


「リゼ」


「読めたのか」


「ああ」


 笑うしかなかった。笑わなければ、たぶん怒鳴っていた。


「封書を出したのは、王都大聖堂の聖印官だ。ペトル司祭の上役にあたる」


 ピピがくしゃみをした。


「へくちっ。くさいのら。灰の奥、まだ呪いの匂いがするのら」


 白い頁の奥で、二つ目の鐘が低く鳴った。


 続いて、まだ遠い場所から、三つ目の鐘が目を覚ますような軋みを立てた。


 俺は灰に残った最後の一行を読んだ。


 ――校正者を王都大聖堂へ運べ。棺が拒むなら、獣を使え。


 リゼの爪が、石床を深く削った。


(第24話へ続く)

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