獣ではなく騎士
三つ目の鐘は、音より先に文字を鳴らした。
石床の継ぎ目から白い行が這い出し、地下書庫の空気を薄く裂いていく。鐘というのは普通、耳に来るものだ。王都の古代術式は性格が悪いので、まず目と胃に来る。ついでに俺の寿命にも来る。まことに遠慮がない。
「ノエル、下がれ」
リゼの声が低く沈んだ。
見ると、彼女の首筋から銀の毛が波のように広がっていた。爪が伸び、石を噛む。焼けた石と鉄と、濡れた獣毛の匂いが鼻を刺した。無事な時のリゼは鎧油と革の匂いがするが、呪いが前に出ると、森の奥で雨に打たれた獣の気配が混じる。
つまり、ひどく生きている匂いだった。
「……来るな」
「命令される筋合いはない」
「これは願いだ」
なら聞くべきだった。普通の人間なら。
残念ながら俺は普通の人間の中でも、さらに実用性を削った品だ。魔力ゼロ。攻撃魔法は撃てない。防御魔法も張れない。できるのは、目の前の文を読んで、触れた一語だけ書き換えること。
巨大な火事に針一本で挑むような人生である。せめて針の先くらいは尖らせておきたい。
リゼの背に、黒い文字が浮かんだ。
――守護獣、起動。
――校正者を王都大聖堂へ運べ。
――棺が拒む時、獣を使え。
最後の一語が脈打った瞬間、リゼの肩が跳ねた。
彼女は俺に向かって一歩踏み出した。いや、踏み出させられた。すぐに自分の爪を石床へ突き立て、膝を落とす。石が砕ける音がした。
「近づくな、ノエル。私はおまえを運ぶ」
「そうだな。荷物扱いは慣れてる。王都でも辺境でも、写本係は棚と机の親戚だと思われてた」
「笑い事ではない!」
「笑ってないと手が震えるんだよ」
本当はもう震えていた。
リゼは強い。俺よりずっと強い。剣も、腕も、責任感も、たぶん朝の寝起きも強い。だが今、その強さを誰かが荷車の馬みたいに使おうとしている。
ふざけるな、と思った。
怒鳴る代わりに、俺は灰で汚れた指を握った。怒鳴って文章が直るなら、王都はとっくに名文の都になっている。
「ピピ」
「のらっ」
ピピは俺の肩で小さく震えていた。白い文字でできた体の端が、鐘の響きに合わせてほどけかけている。
「王様の影が言ってた。小さき反復は継ぐ、だ」
「ピピ、何を継げばいいのら」
「俺が直した一語を、少しだけ繰り返せるか」
ピピは大きな目をぱちぱちさせた。
「新しい文は作れないのら」
「作るな。俺も作れない。二人そろって才能が慎ましい」
「慎ましいのら……」
「褒めてはいない」
ピピは俺の耳元で、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「でも、ノエルの字なら追いかけられるのら。ちょっとだけなら、何度も言えるのら」
「上等だ」
巡回中の術式は、書き換えてもすぐ戻る。だから俺の修正は、時間稼ぎにしかならないことが多い。だが、数呼吸でも長くもてば、リゼが自分を取り戻す隙になる。
数呼吸。
俺の人生でだいたい足りないものの代表だ。
「オズワルド」
呆然としていた元上司が、はっと顔を上げた。
「何だ」
「そこの筆箱を蹴れ。黒水晶の留め具があるやつだ」
「命令するな。私はおまえの上司だぞ」
「今だけは役に立つ上司になれるぞ。歴史的瞬間だ」
オズワルドは顔を歪めたが、筆箱を蹴った。床を滑ってきた箱から、古い校正針が転がる。俺が王都で何百回も握らされた、細くて安くて、手に刺さるとやたら痛い道具だ。懐かしさで泣ける。だいたい痛みの記憶だが。
俺は針を拾い、灰と血を先にまとわせた。
リゼの喉から、唸りが漏れる。
「私は、抑えきれない」
「抑えろ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないことは、いつも君に任せてる」
リゼが一瞬だけ目を見開いた。
その金色の瞳に、獣の濁りと、騎士の意地が同時にあった。
「……三息だ」
「五息くれ」
「欲張るな」
「俺は貧乏育ちだ。もらえる時は多めにもらう」
リゼは牙をむき、笑ったように見えた。
「四息」
「交渉成立」
次の瞬間、彼女は自分の左腕を右手で押さえ込み、肩を石柱へ叩きつけた。衝撃で白い埃が落ちる。俺はその懐へ飛び込んだ。
怖くないと言えば嘘になる。
正直、ものすごく怖い。目の前にいるのは、人の形を半分残した刃物の塊だ。しかも俺は、世の中で一番刃物に向かない職業、写本係である。紙なら切れる。俺も切れる。だが勝てるとは限らない。
それでも、彼女の首筋に浮いた文字へ触れた。
熱い。
焼けた命令が、指の腹に噛みつく。
――獣。
古代語のその語は、ただの生き物を指す字ではなかった。所有され、命じられ、名を問われないもの。荷と同じ列に置かれるもの。
リゼを、そんな単語で読むな。
俺は校正針を押し込んだ。
消せない。呪いは消えない。なら直す。
――獣。
その一語の芯を引き裂き、別の意味を差し込む。
――騎士。
瞬間、リゼの全身が弓のように反った。爪が俺の頬をかすめ、血が一筋落ちる。痛い。ものすごく痛い。だが顔の造形は元から大した資産ではないので、損失は少ない。
「ピピ!」
「騎士のら、騎士のら、騎士のら!」
ピピが文字の上に飛び乗り、小さな体を光らせて叫んだ。
鐘の命令が戻ろうとする。
――獣。
「騎士のら!」
――獣。
「騎士のら!」
ピピの体が薄くなる。白い文字の端が煙のようにほどけ、俺の袖に散った。
「無理するな!」
「無理じゃないのら! ピピは繰り返す者のら!」
胸の奥が詰まった。
小さな残響が、自分の名を武器みたいに握っている。モルグのように誰かの声にされるのではなく、自分で選んで繰り返している。
リゼの唸りが変わった。
獣の声から、人の息へ。
彼女は俺の肩をつかんだ。爪はまだ鋭い。けれど、食い込ませない強さで止まっていた。
「ノエル」
「はい」
「私は、おまえを大聖堂へ運べる」
「そういう流れだったな」
「だが、命令で運ぶのではない」
リゼは血の混じった息を吐き、ゆっくり立ち上がった。
銀毛は残っている。牙も消えていない。呪いは直りきっていない。当たり前だ。一語で人生が全部片づくなら、写本係はもっと給金が高い。
それでも、彼女の背筋はまっすぐだった。
「私は騎士として、おまえを連れて行く。聖印官の首根っこをつかむために」
「目的語が少し物騒だが、文意は明快だ」
ピピが俺の手のひらに落ちてきた。
「インク……インクほしいのら……」
「あとで瓶ごとやる」
「瓶は食べないのら」
「そこは賢いな」
俺はピピを胸ポケットへ押し込み、オズワルドを見た。
彼は床に片膝をつき、震える手で眼鏡を押さえていた。いつもの高慢な顔ではない。自分が読めないものに利用された人間の顔だった。
「地下から大聖堂へ通じる道は」
「……ある」
オズワルドは苦い声で言った。
「王宮写字局が、聖印官へ清書を運ぶための古い通路だ。私は鍵を持っている」
「なぜ最初に言わなかった」
「言えば、おまえが行くだろう」
「今も行く」
「だから言わなかったのだ」
少しだけ、沈黙が落ちた。
この男は嫌な上司だった。俺を追い出した側の人間で、無能を隠すために権威を着込む名人だ。だが今の言葉には、妙なほど人間の匂いがあった。
「オズワルド」
「何だ」
「鍵を出せ。説教は帰ってからにする」
「帰れると思うのか」
「思ってないと、ハンナさんに飯を食わされる予定が立たない」
オズワルドは短く息を吐いた。笑ったのか、諦めたのかは分からない。たぶん両方だ。
その時、三つ目の鐘が本当に鳴った。
今度は耳を殴る音だった。地下書庫の柱が震え、棺の白い頁が一斉にめくれる。床に、黒い焼き文字が新しく刻まれていく。
俺は膝をついて読んだ。
――不要名二十四、第三鐘楼に収蔵。
――校正者ノエル・アルクムが来ぬ時、外文の補材とする。
補材。
人を、また材料と呼んだ。
リゼの爪が鳴った。ピピが胸ポケットで弱々しくくしゃみをする。
「くさいのら……泣いてる字の匂いがするのら」
俺はゆっくり立ち上がった。
聖印官は俺を運ばせ損ねた。だから今度は、人質を文章にした。二十四人。名前を持たない、あるいは奪われた者たち。助けを呼ぶ声さえ、鐘の中に畳まれている。
「行くぞ」
リゼがうなずく。
「今度は、私が選んで運ぶ」
「頼む。ただし着地は丁寧に」
「努力する」
「そこは約束しろ」
リゼは俺を片腕で抱え上げた。騎士というより荷担ぎ職人の手際だったが、本人が選んだなら文句は半分で済む。
オズワルドが震える手で古い鍵を差し出す。
通路の奥で、三つ目の鐘が二度目の息を吸った。
鳴り切る前に、第三鐘楼へ。
俺は胸ポケットのピピを押さえ、焼き付いた文字を最後にもう一度読んだ。
末尾には、王都大聖堂の本印。
その下に、小さく追記があった。
――校正者よ、次はおまえの名を焼く。
(第25話へ続く)




