表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/33

獣ではなく騎士

 三つ目の鐘は、音より先に文字を鳴らした。


 石床の継ぎ目から白い行が這い出し、地下書庫の空気を薄く裂いていく。鐘というのは普通、耳に来るものだ。王都の古代術式は性格が悪いので、まず目と胃に来る。ついでに俺の寿命にも来る。まことに遠慮がない。


「ノエル、下がれ」


 リゼの声が低く沈んだ。


 見ると、彼女の首筋から銀の毛が波のように広がっていた。爪が伸び、石を噛む。焼けた石と鉄と、濡れた獣毛の匂いが鼻を刺した。無事な時のリゼは鎧油と革の匂いがするが、呪いが前に出ると、森の奥で雨に打たれた獣の気配が混じる。


 つまり、ひどく生きている匂いだった。


「……来るな」


「命令される筋合いはない」


「これは願いだ」


 なら聞くべきだった。普通の人間なら。


 残念ながら俺は普通の人間の中でも、さらに実用性を削った品だ。魔力ゼロ。攻撃魔法は撃てない。防御魔法も張れない。できるのは、目の前の文を読んで、触れた一語だけ書き換えること。


 巨大な火事に針一本で挑むような人生である。せめて針の先くらいは尖らせておきたい。


 リゼの背に、黒い文字が浮かんだ。


 ――守護獣、起動。

 ――校正者を王都大聖堂へ運べ。

 ――棺が拒む時、獣を使え。


 最後の一語が脈打った瞬間、リゼの肩が跳ねた。


 彼女は俺に向かって一歩踏み出した。いや、踏み出させられた。すぐに自分の爪を石床へ突き立て、膝を落とす。石が砕ける音がした。


「近づくな、ノエル。私はおまえを運ぶ」


「そうだな。荷物扱いは慣れてる。王都でも辺境でも、写本係は棚と机の親戚だと思われてた」


「笑い事ではない!」


「笑ってないと手が震えるんだよ」


 本当はもう震えていた。


 リゼは強い。俺よりずっと強い。剣も、腕も、責任感も、たぶん朝の寝起きも強い。だが今、その強さを誰かが荷車の馬みたいに使おうとしている。


 ふざけるな、と思った。


 怒鳴る代わりに、俺は灰で汚れた指を握った。怒鳴って文章が直るなら、王都はとっくに名文の都になっている。


「ピピ」


「のらっ」


 ピピは俺の肩で小さく震えていた。白い文字でできた体の端が、鐘の響きに合わせてほどけかけている。


「王様の影が言ってた。小さき反復は継ぐ、だ」


「ピピ、何を継げばいいのら」


「俺が直した一語を、少しだけ繰り返せるか」


 ピピは大きな目をぱちぱちさせた。


「新しい文は作れないのら」


「作るな。俺も作れない。二人そろって才能が慎ましい」


「慎ましいのら……」


「褒めてはいない」


 ピピは俺の耳元で、ふん、と小さく鼻を鳴らした。


「でも、ノエルの字なら追いかけられるのら。ちょっとだけなら、何度も言えるのら」


「上等だ」


 巡回中の術式は、書き換えてもすぐ戻る。だから俺の修正は、時間稼ぎにしかならないことが多い。だが、数呼吸でも長くもてば、リゼが自分を取り戻す隙になる。


 数呼吸。


 俺の人生でだいたい足りないものの代表だ。


「オズワルド」


 呆然としていた元上司が、はっと顔を上げた。


「何だ」


「そこの筆箱を蹴れ。黒水晶の留め具があるやつだ」


「命令するな。私はおまえの上司だぞ」


「今だけは役に立つ上司になれるぞ。歴史的瞬間だ」


 オズワルドは顔を歪めたが、筆箱を蹴った。床を滑ってきた箱から、古い校正針が転がる。俺が王都で何百回も握らされた、細くて安くて、手に刺さるとやたら痛い道具だ。懐かしさで泣ける。だいたい痛みの記憶だが。


 俺は針を拾い、灰と血を先にまとわせた。


 リゼの喉から、唸りが漏れる。


「私は、抑えきれない」


「抑えろ」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないことは、いつも君に任せてる」


 リゼが一瞬だけ目を見開いた。


 その金色の瞳に、獣の濁りと、騎士の意地が同時にあった。


「……三息だ」


「五息くれ」


「欲張るな」


「俺は貧乏育ちだ。もらえる時は多めにもらう」


 リゼは牙をむき、笑ったように見えた。


「四息」


「交渉成立」


 次の瞬間、彼女は自分の左腕を右手で押さえ込み、肩を石柱へ叩きつけた。衝撃で白い埃が落ちる。俺はその懐へ飛び込んだ。


 怖くないと言えば嘘になる。


 正直、ものすごく怖い。目の前にいるのは、人の形を半分残した刃物の塊だ。しかも俺は、世の中で一番刃物に向かない職業、写本係である。紙なら切れる。俺も切れる。だが勝てるとは限らない。


 それでも、彼女の首筋に浮いた文字へ触れた。


 熱い。


 焼けた命令が、指の腹に噛みつく。


 ――獣。


 古代語のその語は、ただの生き物を指す字ではなかった。所有され、命じられ、名を問われないもの。荷と同じ列に置かれるもの。


 リゼを、そんな単語で読むな。


 俺は校正針を押し込んだ。


 消せない。呪いは消えない。なら直す。


 ――獣。


 その一語の芯を引き裂き、別の意味を差し込む。


 ――騎士。


 瞬間、リゼの全身が弓のように反った。爪が俺の頬をかすめ、血が一筋落ちる。痛い。ものすごく痛い。だが顔の造形は元から大した資産ではないので、損失は少ない。


「ピピ!」


「騎士のら、騎士のら、騎士のら!」


 ピピが文字の上に飛び乗り、小さな体を光らせて叫んだ。


 鐘の命令が戻ろうとする。


 ――獣。


「騎士のら!」


 ――獣。


「騎士のら!」


 ピピの体が薄くなる。白い文字の端が煙のようにほどけ、俺の袖に散った。


「無理するな!」


「無理じゃないのら! ピピは繰り返す者のら!」


 胸の奥が詰まった。


 小さな残響が、自分の名を武器みたいに握っている。モルグのように誰かの声にされるのではなく、自分で選んで繰り返している。


 リゼの唸りが変わった。


 獣の声から、人の息へ。


 彼女は俺の肩をつかんだ。爪はまだ鋭い。けれど、食い込ませない強さで止まっていた。


「ノエル」


「はい」


「私は、おまえを大聖堂へ運べる」


「そういう流れだったな」


「だが、命令で運ぶのではない」


 リゼは血の混じった息を吐き、ゆっくり立ち上がった。


 銀毛は残っている。牙も消えていない。呪いは直りきっていない。当たり前だ。一語で人生が全部片づくなら、写本係はもっと給金が高い。


 それでも、彼女の背筋はまっすぐだった。


「私は騎士として、おまえを連れて行く。聖印官の首根っこをつかむために」


「目的語が少し物騒だが、文意は明快だ」


 ピピが俺の手のひらに落ちてきた。


「インク……インクほしいのら……」


「あとで瓶ごとやる」


「瓶は食べないのら」


「そこは賢いな」


 俺はピピを胸ポケットへ押し込み、オズワルドを見た。


 彼は床に片膝をつき、震える手で眼鏡を押さえていた。いつもの高慢な顔ではない。自分が読めないものに利用された人間の顔だった。


「地下から大聖堂へ通じる道は」


「……ある」


 オズワルドは苦い声で言った。


「王宮写字局が、聖印官へ清書を運ぶための古い通路だ。私は鍵を持っている」


「なぜ最初に言わなかった」


「言えば、おまえが行くだろう」


「今も行く」


「だから言わなかったのだ」


 少しだけ、沈黙が落ちた。


 この男は嫌な上司だった。俺を追い出した側の人間で、無能を隠すために権威を着込む名人だ。だが今の言葉には、妙なほど人間の匂いがあった。


「オズワルド」


「何だ」


「鍵を出せ。説教は帰ってからにする」


「帰れると思うのか」


「思ってないと、ハンナさんに飯を食わされる予定が立たない」


 オズワルドは短く息を吐いた。笑ったのか、諦めたのかは分からない。たぶん両方だ。


 その時、三つ目の鐘が本当に鳴った。


 今度は耳を殴る音だった。地下書庫の柱が震え、棺の白い頁が一斉にめくれる。床に、黒い焼き文字が新しく刻まれていく。


 俺は膝をついて読んだ。


 ――不要名二十四、第三鐘楼に収蔵。

 ――校正者ノエル・アルクムが来ぬ時、外文の補材とする。


 補材。


 人を、また材料と呼んだ。


 リゼの爪が鳴った。ピピが胸ポケットで弱々しくくしゃみをする。


「くさいのら……泣いてる字の匂いがするのら」


 俺はゆっくり立ち上がった。


 聖印官は俺を運ばせ損ねた。だから今度は、人質を文章にした。二十四人。名前を持たない、あるいは奪われた者たち。助けを呼ぶ声さえ、鐘の中に畳まれている。


「行くぞ」


 リゼがうなずく。


「今度は、私が選んで運ぶ」


「頼む。ただし着地は丁寧に」


「努力する」


「そこは約束しろ」


 リゼは俺を片腕で抱え上げた。騎士というより荷担ぎ職人の手際だったが、本人が選んだなら文句は半分で済む。


 オズワルドが震える手で古い鍵を差し出す。


 通路の奥で、三つ目の鐘が二度目の息を吸った。


 鳴り切る前に、第三鐘楼へ。


 俺は胸ポケットのピピを押さえ、焼き付いた文字を最後にもう一度読んだ。


 末尾には、王都大聖堂の本印。


 その下に、小さく追記があった。


 ――校正者よ、次はおまえの名を焼く。


(第25話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ