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名を焼かせるな

 古い通路は、王宮写字局の性格をそのまま石にしたような道だった。


 狭い。暗い。湿っている。しかも妙に長い。


 人を通すためではなく、書類を迷わせるために造ったのではないかと思うほど、角を曲がるたびに似た壁が続く。これを毎日使っていた昔の清書係には同情する。俺なら三日で退職届を清書していた。もっとも、俺の退職は届を出す前に済まされたが。


 リゼは俺を片腕に抱え、石段を獣じみた速さで駆け上がっていた。


 銀毛に混じる汗と血の匂いが近い。無理をしている体の匂いだ。だが、その腕は震えていなかった。


「重くないか」


「軽い」


「それはそれで傷つく」


「痩せすぎだ。帰ったら食え」


「ハンナさんが二人に増えた」


 胸ポケットでピピが弱々しく鼻を鳴らした。


「インクの匂い、遠いのら……でも、焦げた字の匂いは近いのら」


「最悪の道案内だな」


「褒められたのら?」


「半分くらい」


 背後では、オズワルドが息を切らして追ってきている。年齢と日頃の運動不足と権威の重ね着は、こういう時にたいへん邪魔らしい。


「待て、ノエル……第三鐘楼の聖印盤は、聖印官以外には触れられん」


「触れられない文字なんてない。だいたい触るなと書いてあるものほど、触る必要がある」


「おまえは昔からそうだった」


「昔の俺を評価するなら、給金を上げてからにしてくれ」


 冗談を口にしながら、腹の底は冷えていた。


 二十四人。


 不要名と呼ばれた人間たち。


 俺はその言葉が嫌いだ。嫌いで済めば安いが、俺は安い男なので、まず嫌うところから始めるしかない。名を奪われた者を材料と呼ぶ文章など、校正以前に著者の性根を赤で囲みたい。


 石段の終わりに鉄扉があった。


 扉一面に聖印が刻まれている。古代語ではない。現代の権威語だ。つまり、読めても腹が立つだけの飾りである。


 オズワルドが鍵を差し込む。手が震えて、三度外した。


「貸せ」


「老眼ではない」


「誰も聞いてない」


 四度目で鍵が回った。


 扉が開いた瞬間、鐘の内側に入ったような圧が全身を押した。音ではない。鳴る前の息だ。巨大な喉が、俺たちの名前を吸い込もうとしている。


 第三鐘楼は、大聖堂の脇腹に突き刺さった石の塔だった。


 中央に黒い鐘が吊られている。鐘の表面には、無数の文字が這っていた。古代語の本文。その上から、聖印官の印が何重にも塗られている。絵具で傷口を隠すような仕事だ。雑で、尊大で、腹立たしい。


 鐘の下には二十四人がいた。


 少年、老婆、片腕の男、顔を布で隠した女。服装はばらばらだが、首には同じ札が下がっている。札には名前ではなく番号が書かれていた。


 不要名一。

 不要名二。

 不要名三。


 数えたくないのに、目が勝手に数える。二十四まであった。


 彼らは眠っていない。意識はある。だが声が出ない。口を開けても、喉からこぼれるのは薄い紙の擦れる音だけだった。


 リゼが俺を下ろした。


「間に合うか」


「間に合わせる。俺の長所は締切に弱いことだ」


「それは短所では」


「今は分類している暇がない」


 鐘の内側で文字が光った。


 ――不要名二十四、第三鐘楼に収蔵。

 ――校正者ノエル・アルクムが来ぬ時、外文の補材とする。


 同じ文章だ。だが今は、続きがある。


 ――校正者が来たりし時、その名を先に焼く。


「歓迎が雑だ」


 床から黒い線が伸び、俺の足首に絡んだ。冷たい。皮膚に文字が焼き付く感覚が走る。


 ――ノエル・アルクム。


 自分の名が床に書かれていく。


 人間、自分の悪口には慣れる。無能、魔力ゼロ、役立たず、紙魚の親戚。だが、自分の名前が焼かれるのは別だ。名は持ち物ではない。呼んでくれた誰かの手垢まで含めて、自分の居場所だ。


 俺は膝をつき、床の文字に触れた。


 熱い。


 指先の皮が焼ける匂いがした。リゼが動こうとする。


「来るな!」


 鐘が鳴りかけている。今リゼが入れば、彼女の守護術式がまた鐘の命令に噛まれる。


 俺は読んだ。


 この術式は、人の名を直接奪っているのではない。首札の番号を名の代わりとして登録し、その番号を材料欄へ送っている。やり口が役所じみていて腹が立つ。悪事まで事務処理にするな。


 要は、欄だ。


 ――補材。


 材料として扱うための一語。


 俺が触れられるのは、今露出した文字だけ。全部を書き直す時間はない。解呪はできない。消せない。なら、役目を変える。


 補材ではなく。


「保護名」


 俺は焼ける床に爪を立て、一語を書き換えた。


 ――補材。


 その芯を裂く。


 ――保護名。


 鐘の音が歪んだ。


 黒い鐘が低く唸り、首札の番号が一斉に震える。材料欄へ流れ込むはずだった二十四の番号が、保護欄へ押し戻される。人を守るための欄など、この術式にはなかったらしい。だから無理やり作った。俺の人生だいたいそれである。居場所がなければ欄外に書く。


「ピピ!」


「繰り返すのら!」


 胸ポケットから飛び出したピピが、床の文字列にぺたりと張り付いた。


「保護名のら、保護名のら、保護名のら!」


 戻ろうとする。


 ――補材。


「保護名のら!」


 ――補材。


「保護名のら!」


 ピピの声が掠れる。小さな体から、白い文字片が雪みたいに散った。


 リゼが床を蹴った。


 鐘の側面から、黒い鎖のような文字が飛び出す。リゼを獣へ戻そうとする命令文だ。


 ――獣、運べ、従え。


「断る」


 リゼは短く言った。


 牙の間から漏れた声は低く、獣の喉を通っている。だが言葉は人のものだった。


 彼女は鎖を爪で受け、俺から逸らす。銀毛が逆立ち、肩口から血が散った。汗と鉄の匂いが濃くなる。


「ノエル、長くは保たない」


「短く終わらせるのは得意だ。俺の職歴を見ろ」


「見たくない」


「正直でよろしい」


 俺は床を這う文章を追った。


 保護名に変えただけでは一時しのぎだ。数秒で戻る。恒久修正には欠落部を補修しなければならない。だが鐘の本文は厚い青銅の内側、上部の縁にある。普通の人間には届かない。


 普通でない騎士が隣にいる。


「リゼ、鐘の縁まで投げろ」


「丁寧な着地は」


「約束は次回に延期だ」


「了解した」


「了解するな、少し悩め」


 リゼは俺の襟首をつかみ、軽々と放った。


 空中で、俺は自分の人生がだいたい他人の腕力に左右されていることを悟った。悟りに価値はない。着地先が鐘の縁だからだ。


 指が青銅にかかった。


 熱い。鐘そのものが燃える文章になっている。


 内側の縁に、焼かれた欠落部があった。黒く焦げた痕。やはり自然劣化ではない。誰かが、意図してここを焼いた。


 欠落の前後を読む。


 ――名なき者を集め、外文を支える柱とせよ。

 ――ただし、王印なき名は……


 焼けている。


 ここが折れているせいで、王印を持たない者はすべて材料欄へ落ちる。なら本来は何だった。


 王印なき名は、何だ。


 俺の祖父の声が、記憶の底で紙をめくった。


 名は、印より先にある。


 そうだ。古い術式は、王印を絶対とはしない。建国文書の初期文にもあった。王は名を束ねる者であって、名を作る者ではない。


 焼け跡に触れる。


 欠落は完全には直せない。今の俺にできるのは、残った縁へ一語を噛ませることだけ。


 ――王印なき名は、民名として保て。


 俺は「柱」を「民名」へ書き換えた。


 鐘が悲鳴を上げた。


 音の波が塔を殴り、石壁に亀裂が走る。首札が次々と割れた。番号が剥がれ落ち、その下から、本当の名前が滲み出す。


「……ミラ」


 布で顔を隠した女が、かすれた声で言った。


「俺は、ダンだ」


 片腕の男が自分の胸を押さえる。


 少年が泣きながら、何度も自分の名を繰り返していた。名を思い出しただけで人はあんな顔をする。なら、奪った側は人の顔をしていても、人の仕事をしていない。


 ピピが床に落ちた。


「インク……大盛り……のら……」


「帰ったら樽でやる」


「樽は飲めないのら」


「賢さが戻ってきたな」


 俺は鐘の縁から滑り落ちた。着地は最悪だった。背中を打ち、息が詰まる。顔だけでなく背骨も資産価値が低いことを祈る。


 リゼが俺を抱き起こした。


「生きているか」


「だいたい」


「だいたいとは何だ」


「細部は後で校正する」


 オズワルドが二十四人を塔の端へ誘導していた。驚くほど不器用だが、逃がそうとしているのは確かだった。


「急げ! 階段へ行け! 名を言える者から互いを呼べ!」


 その声に、少しだけ昔の上司の面影があった。嫌味で人を動かすのではなく、責任で声を張る人間の面影だ。褒めると調子に乗るので言わない。


 鐘の表面に、新しい文字が浮いた。


 末尾。署名の前。聖印官の本印ではない。


 細く、古い筆跡。


 ――校正者、名を守るか。

 ――ならば次は、国の名を読め。


 塔の向こう、大聖堂の中心で、さらに大きな鐘が鳴った。


 床が沈む。壁の聖印が剥がれ、その下から建国文書と同じ署名が現れる。


 王都全体が、文字として目を覚まし始めていた。


 俺は焼けた指を握りしめた。


「リゼ」


「分かっている」


「今度こそ丁寧に運べ」


「努力する」


「だから約束しろ」


 返事の代わりに、リゼは俺を抱え上げた。


 第三鐘楼の黒い鐘が、砕けながら最後の一文を吐いた。


 ――大聖堂地下、建国初期文を開く。


(第26話へ続く)

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