国の名を読む
大聖堂の鐘が鳴ると、王都は息をした。
比喩ではない。石畳の隙間から白い文字が浮き、家々の壁が胸郭みたいに膨らみ、路地が細くうねった。建物というのは普通、住む者を守るために立っている。今の王都は、住む者を腹の中で数え始めていた。
「ノエル、掴まれ」
リゼの腕が俺の腰を締める。獣化したままの体は熱く、汗と血と濡れた毛皮の匂いがした。正直、安心する匂いだった。俺の人生で安心が毛皮臭いものになるとは、写本係時代の俺に教えたら泣くだろう。主に鼻で。
「丁寧に運べと言ったよな」
「階段が崩れた」
「なら苦情は階段へ出す」
背後で第三鐘楼が崩れた。オズワルドが二十四人の名を取り戻した人々を押し出すようにして階段へ追っている。
「走れ! 互いの名を呼べ! 名を忘れた者から落ちるぞ!」
嫌な励まし方だが、今は正しい。首札を割られた人々は、泣きながら互いの名を呼び合っていた。ミラ、ダン、サラ、ヨル、知らない名が夜の空気に縫い付けられていく。番号より名のほうが重い。だから人は簡単に捨てられない。
ピピは俺の肩にへばりついていた。白い文字の体が薄く、焦げた紙とインクの匂いがかすかに漂う。
「ノエル、下がくしゃいのら……古い文字が、腐った水みたいに煮えてるのら」
「食べるなよ」
「まだ食べる元気ないのら」
「それは重症だ」
大聖堂の中央祭壇へ続く扉は、もう扉ではなかった。白い石板に変わり、表面いっぱいに古代語が走っている。
――建国初期文、開示。
――王印を持つ者、聖印を持つ者、名を持たぬ者、順に入れ。
「順番が最悪だな」
王印を持つ者などここにはいない。聖印を持つ者は、聖印官たちが逃げたせいで不在。残るのは名を持たぬ者。ついさっき名を取り戻した人々を、もう一度材料扱いするための順番だ。
オズワルドが息を切らして俺たちに追いついた。額に血が流れ、いつもの整った嫌味顔がだいぶ雑に崩れている。
「アルクム、これは何だ」
「王都が自分の説明書を読み上げているところです」
「説明になっておらん」
「俺も読んでいて楽しい本ではありません」
扉の文字が光り、逃げ遅れた少年の足元から黒い行が伸びた。少年の名を絡め取り、石板のほうへ引く。
「ユリス!」
母親らしい女が叫ぶ。名が呼ばれた瞬間、黒い行がわずかに鈍った。だが止まらない。
リゼが飛び込んだ。爪で文字を裂こうとするが、文字は刃では切れない。嫌になるほど知的な敵だ。筋肉で殴れない相手は、だいたい俺のところへ来る。世の中は分業が下手だ。
「ノエル!」
「近づけろ!」
リゼが俺を少年ごと抱えるようにして石板へ押し込む。俺は伸びた行に指を突っ込んだ。冷たい。水ではなく、命令の冷たさだ。
――名を持たぬ者を礎へ。
またこれか。
何度でも言ってやる。人間を礎にする文章など、たとえ千年前の達筆でも誤字だ。ありがたがる必要はない。額に入れるなら燃料庫の壁で十分だ。
ただし消せない。俺にできるのは一語だけ。術式は頑固な老人より頑固で、しかも老人と違って茶菓子で機嫌を取れない。
俺は「持たぬ」に触れた。
名前を取り戻した人間を、名なしとして扱うなら、そこを潰す。
――名を持つ者を礎へ。
駄目だ。全員死ぬ。自分の頭に自分で石を落とすような校正は、王都写本局でも叱られる。いや、王都写本局なら気づかないかもしれない。悲しい信頼だ。
なら一語を足場にする。
――名を持たぬ者を「保護」へ。
礎を保護へ。
指先が焼ける。黒い行が震え、少年の足首から剥がれた。ユリスは母親の腕に飛び込み、声を上げて泣いた。
「泣けるなら上出来だ。走れ」
母親は何度も頭を下げた。俺は返事をする前に、リゼに襟首を掴まれて引き戻された。丁寧な運搬という言葉は、彼女の辞書では絶滅危惧種らしい。
石板の文字が書き換わり、扉が地下へ向かって開いた。
細い階段が現れる。下から、冷たい風が吹いた。古い羊皮紙、錆びた鉄、水に濡れた石、そしてほんの少しだけ花のような匂い。建国の匂いとしては陰気すぎる。もっと祝宴の残り香くらい用意しておけ。
「人々はどうする」リゼが言った。
その声は低く、まだ獣の喉を通っていた。だが目はまっすぐだった。
「オズワルド先生」
「何だ、その呼び方は今さら気味が悪い」
「では元上司」
「もっと悪い」
「この人たちを地上へ。名を互いに呼ばせ続けてください。王都が名を数えるなら、こちらも名を数え返す」
オズワルドは唇を歪めた。皮肉を言う顔だ。だが出てきたのは別の言葉だった。
「……分かった。お前は地下へ行く気か」
「他に読める者がいないので。自分の希少性をこんな形で知りたくありませんでした」
「死ぬなよ、アルクム」
「給金の未払いでも思い出しましたか」
「馬鹿者。私はまだ、お前に謝っておらん」
その言葉は、崩れかけた聖堂の中で妙に重く響いた。
俺は少しだけ黙った。謝罪というものは、受け取る側にも体力がいる。今の俺には焼けた指と打った背中と、食欲をなくしたピピしかない。受け取り窓口は臨時休業だ。
「戻ったら聞きます。長いのは嫌です」
「短くまとめておく」
「それができるなら昔からやってください」
オズワルドは初めて、薄く笑った。そして人々のほうへ向き直る。
「全員、名を言え! 隣の名を呼べ! 自分を紙切れの番号に戻すな!」
声が広がった。恐怖の中で、名が灯りみたいに点っていく。
俺たちは地下へ降りた。
階段の壁には、建国文書と同じ筆跡が刻まれていた。末尾に何度も現れる署名。あの細く古い手。千年分の埃をかぶってなお、昨日書かれたみたいに生々しい。
「同じだな」リゼが言った。
「ああ。どこに行っても同じ筆跡。王都の石も、辺境の井戸も、君の呪いも、全部同じ手に触られている」
「私の体も、この国の一部として書かれたのか」
リゼの声には、怒りよりも静けさがあった。静かな傷ほど、俺は扱いに困る。軽口で塞ぐには深すぎるし、黙るには冷たすぎる。
「少なくとも、勝手に書かれた。だから勝手に直す。君は国の部品じゃない」
「騎士だ」
「そう。あと、俺を雑に運ぶ係だ」
「それは役職ではない」
「実績は十分だ」
リゼが少しだけ笑った。獣の顔で笑うと迫力があるが、俺はもう怖くなかった。怖いものの順位表で、今の一位は地下から聞こえる巨大な筆音だ。
かり、かり、かり。
誰かが石の上に文字を書いている。
最下段に着くと、広い地下空間が開けた。王都の真下に、巨大な円形の書庫があった。棚ではなく、壁そのものが本だった。石壁に文章が渦を巻き、床には王都の地図が刻まれている。通り、井戸、鐘楼、民家、墓地。すべてが線ではなく文字で描かれていた。
中央には、黒い水のような穴があった。
その上に、一冊の石の書物が浮いている。
建国初期文。
表紙に手を伸ばそうとした瞬間、ピピが俺の耳元でくしゃみをした。
「へぷちっ、のら!」
「鼻があるのか、お前」
「気分の問題のら! 来るのら!」
床の地図から、白い人影が立ち上がった。痩せた青白い男。目も口も薄い線で描かれたような顔。第九鐘楼で見たモルグと同じ笑い方をしている。けれど、輪郭がもっと薄い。残響の残り滓だ。
男は首を傾げた。
「校正者。名を守った。では国を守るか」
「質問が大きすぎる。町内会から始めろ」
「国の名が焼かれた。名が欠けた国は、民を食べて名を補う」
俺の喉が乾いた。
国の名が焼かれた。
壁の文章が一斉にめくれ、中央の石書に焦げ跡が浮かんだ。建国初期文の最初の頁。その一行目。
――この国の名は、ヴェルバ……
その先が、黒く焼けていた。
リゼが低く唸る。ピピが俺の襟にしがみつく。インクの匂いが震えた。
「ノエル、直せるのら?」
「触れれば、一語は」
だが焦げ跡の上で文字が蠢いている。焼いた者が、補修を拒むために置いた罠だ。黒い棘のような文が、石書の周囲を回っている。
――校正者を拒め。
――読み手を礎へ。
いい性格をしている。書いた奴と同じ食卓には着きたくない。向こうも俺のような貧乏写本係とは食べたくないだろうから、そこだけは合意できる。
リゼが一歩前へ出た。
「私が抑える」
「触れたらまた獣へ引かれるぞ」
「もう引かれている。だが、戻る名を知っている」
彼女は自分の胸に爪を当てた。
「リゼ・フォグレス。騎士だ」
その名が、地下の空気を叩いた。黒い棘の回転が一瞬だけ鈍る。
俺は息を吐いた。
「ピピ、インクは残ってるか」
「舌の裏にちょびっとのら」
「どこに貯めてるんだ」
「秘密のら」
「聞いた俺が悪かった」
ピピが俺の焼けた指に、小さな体を押し当てた。ぬるいインクの匂いがした。痛みが少しだけ引く。役に立つ相棒だ。食費はインクだが。
俺は石書へ向かった。
黒い棘が飛ぶ。リゼが受ける。銀の毛が裂け、血が床の地図に落ちた。血の落ちた通りが赤く光る。王都が彼女の名を読もうとしている。
「読むな!」
俺は叫び、石書の縁に手を伸ばした。
指先が焦げ跡に触れる。
その瞬間、頭の中に声が入った。
――繰り返せ。
古く、ひどく寂しい声だった。命令なのに、祈りに似ていた。
ピピが震えた。
「その声、知ってるのら……」
俺は頁を読んだ。焼けた国名の下に、隠し書きがある。建国王の署名ではない。署名のさらに内側。作者が自分だけに残した注だ。
――国名欠落時、代替名を使用。
――代替名、未登録。
「未登録だと?」
千年前の大先生、締切前に力尽きたのか。いや、違う。ここだけ空白にしてある。後から誰かに書かせるために。
黒い人影が笑った。
「校正者。国に名を与えよ」
冗談じゃない。
俺は魔法使いではない。王でもない。貧乏な元写本係だ。できることは、誰かの書いた間違いを一語だけ直すこと。それなのに国名を選べとは、荷が重いにもほどがある。紙束なら背負えるが、国は背中が折れる。
だが地上では、人々が名を呼び合っている。
名を奪われた者たちが、自分を取り戻している。
なら国の名も、王のためではなく、そこに住む者のためにあるべきだ。
俺は空白に指を置いた。
書ける魔力はない。新しい術式は作れない。けれど、ここには空欄がある。欠落ではなく、待っている余白が。
俺が一語を選ぼうとした、その時。
石書の奥から、別の手が現れた。
青白く、細い指。生きた人間の手ではない。だが、文字だけの残響でもない。
その指が、俺より先に空白へ触れた。
――まだ早い。
頁いっぱいに、その一文が浮かぶ。
リゼが俺を引き戻した。黒い棘が空を裂き、俺の髪を数本持っていった。貴重な資源への攻撃は重罪だ。
石書が閉じ始める。
青白い手の向こうで、誰かがこちらを見ていた。
建国王の肖像で見た顔に、よく似ていた。
そして、その唇が動く。
「ノエル・アルクム。お前の祖父は、約束を破った」
地下書庫の全ての文字が、俺の名を読み上げた。
(第27話へ続く)




