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祖父の約束

 地下書庫の全ての文字が、俺の名を読み上げた。


 ありがたいことに、合唱は下手だった。石壁、床、天井、柱、閉じかけた石書の背表紙までが、ばらばらの調子で「ノエル・アルクム」を唱える。祝福なら花でも降らせてほしいところだが、降ってきたのは黒い文字片だった。人生、だいたい安い紙くずのほうが先に来る。


「ノエル!」


 リゼが俺の襟をつかんで引いた。獣化した腕の毛に血が絡み、鉄と獣の匂いが鼻を刺す。頼もしい相棒は、決して無臭ではない。むしろ今の地下書庫で一番生きている匂いがした。


「痛い痛い痛い、首が校正される」


「黙れ。床を見るな」


 言われて、逆に見た。俺はそういう男だ。だから出世しなかった。


 床の地図に、俺の名が刻まれ始めていた。王都の中央、大聖堂の地下、その一点から細い文字の根が伸びている。根は通りをなぞり、広場をまたぎ、橋を越え、まるで俺という貧乏写本係を国の部品にしようとしているようだった。


 ――読み手を礎へ。


 黒い棘の文がまた回り出す。


「礎は勘弁してくれ。腰痛持ちには重労働だ」


「冗談を言えるなら走れるな」


「言えなくても走る。死ぬのは嫌いだ」


 ピピが俺の肩で震えていた。小さな文字の体から、湿ったインクの匂いがこぼれている。


「の、のら……ノエルの名前、食べられてるのら」


「食費ならお前だけで十分だ」


「ピピは少食のら!」


「インク瓶一本を朝飯扱いする奴が言うな」


 軽口を叩きながら、俺は閉じかけた石書を見た。青白い手はもう見えない。だが石書の表面には、あの一文が焼き付いている。


 ――お前の祖父は、約束を破った。


 爺さん。


 俺に古代語を教えた、偏屈で、背の曲がった、いつも紙粉まみれだった老人。パンを焦がすくせに文字の焦げだけは見逃さなかった男。子どもの俺に「文字は人を縛る。だから読め。読めば、どこが縄か分かる」と言った男。


 あの爺さんが、建国王と約束?


 冗談なら質が悪い。真実なら、もっと悪い。


 床の根が俺の靴底に触れた。冷たい。紙ではなく、濡れた指で足首を撫でられたような感触だった。


 名を取られる。


 そう理解した瞬間、喉の奥が詰まった。リゼが俺の前に立つ。銀の背中が黒い文字を受け、肉が裂ける音がした。


「リゼ、下がれ!」


「お前が読めない位置へ行けば、全員終わる」


「俺一人のために削られるな」


「お前一人ではない。今、お前を失えば、地上の名がまた剥がれる」


 彼女は振り返らなかった。


「だから立て。写本係」


 まったく、騎士という連中は言葉の使い方がずるい。命令に見せかけて、信頼を投げてくる。受け取らないとこちらが悪者になる。俺は昔から、重い荷物を持つのが下手だ。だが落とすのは、もっと下手だった。


 俺は膝をつき、床の文字へ手を伸ばした。


「ピピ。根の先、読めるか」


「読めるのら。『礎』がいっぱいのら。あと『登録』『固定』『回収』……いやな言葉の詰め合わせのら」


「贈答品なら返品だな」


 根の文は一つの命令に収束していた。


 ――名を固定し、礎へ登録せよ。


 俺は新しい術式を書けない。魔力がないからだ。格好よく手をかざして光でも出せれば、俺の人生はもう少し見栄えがしただろう。残念ながら、俺の手から出るのは汗と血と、たまに貧乏くさい震えだけだ。


 だが、触れた文字を一語だけ書き換えることはできる。


「固定、だ」


 俺は黒い根に指を押し当てた。皮膚が焼ける。頭の中に古代語が流れ込む。読み慣れたはずの文字が、今日はやけに怒っていた。役所の窓口で昼休み直前に書類を出した時の顔だ。


 固定。


 そこを変える。


 固定を、返還へ。


 指先で一語を押し曲げる。文字は嫌がり、針のように爪の間へ入ってきた。俺は歯を食いしばった。痛みで気絶できる人間がうらやましい。俺は昔から、嫌な時ほど目が冴える。


「返れ」


 声に出した瞬間、床の根が跳ねた。


 俺の名を刻んでいた文字がほどけ、逆流する。王都の通りをなぞっていた黒い線が、地図の中心へ戻ってくる。石壁の合唱が乱れ、今度は俺の名ではなく、地上の人々の名を一つずつ吐き出し始めた。


 奪った名を返している。


 リゼの背中に刺さっていた黒い文字も、煙のように抜けた。彼女が片膝をつく。俺は慌てて支えようとして、逆に支えられた。情けない腕力である。紙束相手なら互角なのに。


「傷は」


「浅い」


「嘘が下手だな」


「お前ほどではない」


 リゼの呼吸は荒い。獣の喉鳴りが混じっている。それでも目は濁っていない。彼女は自分の名を、まだ手放していなかった。


 ピピが俺の頬にぺたりと張り付いた。


「ノエル、名前、戻ったのら?」


「たぶん一時しのぎだ。『固定』を『返還』にしただけだ。根本の焼けは残ってる」


「じゃあ、勝ってないのら?」


「今日死ななかった。俺にしては大勝利だ」


 石書が完全に閉じた。


 同時に、地下書庫の奥で乾いた音がした。鍵が外れる音だ。これ以上ないくらい嫌な予感がする。嫌な予感というのは、だいたい仕事熱心で、こちらの都合を聞かない。


 中央の壁が左右に割れた。


 その向こうに、小さな部屋があった。王の墓室ほど豪華ではない。むしろ貧しい写本室に近い。机が一つ、椅子が一つ、古びた灯り石が一つ。壁には紙ではなく、薄い金属板が何百枚も吊られている。


 そして机の上に、木箱が置かれていた。


 箱の蓋には、俺の家の印が刻まれている。アルクム家の、曲がった羽根ペン。安物の印章だ。高貴さはない。あるのは、貧乏人が「せめて自分の道具くらいは自分の物だ」と言い張るための、ささやかな意地だけだ。


「……爺さんの印だ」


 リゼが低く息を吐いた。


「開けるか」


「開けない選択肢は?」


「地上へ戻り、知らなかったことにする」


「魅力的だな。寝て、起きて、全部夢だったことにしたい」


「できるのか」


「できたら写本係なんて辞めてる」


 俺は木箱へ近づいた。ピピが肩から机へ飛び移り、灯り石の周りをくるくる回る。


「この灯り石、古いのら。でも息してるのら」


「石に息があるのか」


「気分の問題のら」


「便利な気分だ」


 木箱の留め金には、短い古代文が刻まれていた。


 ――ノエル・アルクムが名を失わずここへ来た時、開けよ。


 俺は思わず笑った。乾いた、ひどい笑いだった。


「爺さん、俺が来る前提で物を残すな。孫を何だと思ってる」


 留め金に触れる。今度は焼けなかった。箱は素直に開いた。


 中にあったのは、一冊の薄い手帳と、割れた銀の指輪だった。


 手帳の表紙には、爺さんの字でこう書かれている。


 ――建国王ヴェルバとの筆談記録。


 俺は息を止めた。


 千年前の王と、俺の祖父が筆談?


 時間の勘定が合わない。合わないどころか、帳簿が燃えている。だが、古代術式に関わる話で帳簿が無事だった例など、俺はまだ見たことがない。


 ページをめくる。


 爺さんの字は震えていた。老いのせいではない。恐怖を押し殺した字だ。


 ――王は生きていない。だが死んでもいない。

 ――王の名は術式の奥に残り、国の欠落を繰り返し補おうとしている。

 ――国名の空白は罠ではない。最後の逃げ道である。

 ――ただし、名を与えれば国は安定する。同時に、王も目を覚ます。


 俺は手帳を閉じかけ、閉じられなかった。


 次の行に、俺の名があった。


 ――ノエルには読ませるな。あの子は、読めば直そうとする。


「……よく分かってるじゃないか」


 喉が痛かった。腹も立つ。寂しくもある。爺さんは俺を守ろうとした。たぶん本気で。だが守るために隠したものは、今、俺たちの足元で国を食いかけている。


 弱い者に黙って我慢しろと言う紙なら、俺は何度でも破る。


 たとえ書いたのが、爺さんでも。


 リゼが静かに言った。


「ノエル。お前はどうする」


「決まってる」


 俺は手帳を懐に入れ、割れた銀の指輪を指でつまんだ。内側に署名がある。建国王の署名と同じ筆跡。その横に、爺さんの小さな追記。


 ――王を呼ぶ鍵。


 最悪だ。鍵は普通、扉を開けるためにある。厄介事の口まで開く必要はない。


「地上へ戻る。ガルド卿に話す。大聖堂は封鎖。負傷者を先に逃がす。それから、国名の空白を直す方法を探す」


「王を起こす危険があってもか」


「王様の昼寝より、生きてる人間の名前が先だ」


 ピピが鼻をすすった。たぶん鼻はない。だが小さな文字の体が震えているのを見ると、そういうことにしておきたくなる。


「ピピも行くのら。ノエルがまた無茶するの、見張るのら」


「お前に見張られるほど落ちぶれてない」


「もう落ちてるのら」


「返す言葉がない」


 その時、割れた銀の指輪が俺の指先で熱を持った。


 床の地図が再び光る。今度は黒ではない。青白い線が、大聖堂の地下から王都の外壁へ向かって走った。一本、二本、三本。街の門を封じる線だ。


 壁の金属板が一斉に鳴る。


 そこに、爺さんの字ではない文字が浮かんだ。


 ――校正者が鍵を取った。

 ――建国王の棺を開く準備を開始する。


 リゼが剣を抜いた。ピピが俺の襟の中へ飛び込む。俺は銀の指輪を握りしめた。


 地上から、三度目の鐘が鳴った。


 その鐘の音に混じって、大聖堂の上から人々の悲鳴が降ってきた。


(第28話へ続く)

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