青い炎
翌朝、謁見の間に、ペトル司祭は供を六人も連れて現れた。
朝と言っても、辺境の城の朝は爽やかとはほど遠い。分厚い石壁は夜の冷えをまだ抱えていて、窓から差す光だけが妙に白い。磨かれた床に靴音が響くたび、俺の胃も同じ数だけ縮んだ。できれば水車小屋の床下にでも戻りたい。あそこは焦げ臭かったが、少なくとも金の聖印をぶら下げた蛇みたいな男はいなかった。
領都駐在司祭ペトル。三十四歳。金の聖印。蛇の目。今日はその目が、勝ち誇っていた。
白い法衣には香油の匂いが染みついている。やたら甘く、鼻の奥に残る匂いだ。隣に立つリゼが、ほんのわずかに鼻を鳴らした。獣化の呪いのせいで感覚が鋭い彼女には、たぶん俺の三倍くらい不愉快だろう。俺には司祭の香油より、自分の冷や汗の臭いのほうが気になった。実に立派な凡人の香りである。
「辺境伯閣下。火急の用とは? ……ああ、そちらの異端者のことですかな」
司祭は俺を一瞥して、薄く笑った。
「申し上げておきますが、古代語の読解は教会法で禁忌。この者がそれを公言した時点で、本来なら審問にかけるべき身。閣下が庇い立てなさるのは、賢明とは申せません」
最初の一撃がそれか。分かりやすくて助かる。俺みたいな魔力ゼロの田舎者を殴るなら、剣より法のほうがずっと痛い。しかも相手はその法を売り物にしている。
「司祭殿」
辺境伯の声は、静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。怒鳴る貴族はまだ人間味がある。こういう声で話す貴族は、たいてい次の瞬間に誰かの首か職が飛ぶ。俺の首でないことを祈るばかりだ。
「トルク村に巡回証を発行した祈祷師の記録を持参せよと、昨夜伝えたはずだが」
「ええ、ええ、持参いたしました」
司祭は、まったく動じなかった。むしろ嬉しそうに、羊皮紙の束を侍祭に掲げさせた。封蝋は教会の印。紙の端はきれいに整えられ、何度も人に見せることを前提にした書類だった。
「正規の巡回祈祷師、名はモルグ。半年で領内三十二の村を巡り、神の慈悲を施した篤実な聖職者。発行も使用も、すべて教義に則っております。——何か、問題でも?」
三十二の村。
……リゼの呪いを焼いた半年前から、ぴたり数が合う。
背中に冷たいものが走った。偶然にしては整いすぎている。災厄は、だいたい律儀な顔をしてやってくる。村の井戸、水車、灯り石。人が日々を生きるためのものを、一つずつ壊して回るには、半年という時間は十分すぎた。
「で、その異端者は」司祭が俺を指した。「祈祷師モルグが村を『焼いて回った』などと世迷言を申しているとか。証拠は? まさか『古代語が読めるから分かる』などと?」
喉が乾いた。昨日から何度も頭の中で練習した言葉が、いざ本番になると石みたいに重い。俺は魔法を撃てない。聖印もない。貴族の血もない。あるのは、古びた文字を読んで、一語だけ書き換えるという、世間から見れば不気味で面倒な特技だけだ。
「読めますよ」
俺は前に出た。
「だから、これを読みます」
懐から、トルク村の水車小屋で写し取った、焼け跡の拓本を広げた。床に彫られていた灌漑術式の、焼かれた部分の、そのまた周辺の文字まで丁寧に。
拓本の紙はまだ少し煤っぽい。指先にざらりとした粉がつく。水車小屋の湿った木の匂い、焦げた石の匂い、泣きそうな村人たちの顔が一緒によみがえった。こういうものを証拠と呼ぶのは簡単だが、そこに刻まれていたのは生活そのものだ。畑に水を送るための、何代も守ってきた仕組み。それを壊されれば、人は祈る前に飢える。
「司祭殿。古代術式の焼き潰しには、一つ癖が残ります。どの一画を残し、どの一画を焼くか——人によって、必ず偏る。文字を『読めない』者が焼くと、無意味に全部焼く。でもこの焼き方は」
俺は拓本の、焼け残った一画を指した。
「——術式の『骨格』を正確に避けて、『条件節』だけを精密に焼いてる。つまり犯人は、どこを焼けば術式が『直せなくなる』かを、知っていた」
謁見の間が、しんとした。
沈黙にも種類がある。退屈な沈黙、怒りの沈黙、誰かが咳払いの時機を探す沈黙。そして今のこれは、見えないものに形が与えられたときの沈黙だった。読めない文字の話をされても困る、という顔が並んでいる。それは当然だ。俺だって魚屋に魚の内臓で天気を読めと言われたら困る。
「もう一つ。焼き方には『順番』があります。術式ってのは、命令が流れる方向が決まってる。川と同じで、上流から下流へ。素人が焼くと、流れを無視してでたらめな場所を焼く。でもこの焼き跡は——必ず、命令が分岐する『関所』だけを、狙ってる」
俺は拓本の三箇所を、順に指した。
「ここ。ここ。ここ。全部、術式が『もし○○なら』と判断する、分岐点です。ここを焼けば、最小の手間で、術式を確実に殺せる。井戸も、水車も、リゼさんの呪いも、全部この『分岐点狙い』。同じ人間の、同じ癖だ」
リゼの耳がぴくりと動いた。彼女は黙っていたが、その沈黙は剣より硬かった。呪いを負わされた本人がここにいる。しかも彼女は、呪いの臭いを、痛みを、夜ごと骨が軋む感覚を知っている。俺の説明より、彼女の握りしめた拳のほうが雄弁かもしれない。
「これを焼いた人間は、古代語が、読めます」
ペトル司祭の笑みが、初めて、ぴくりと固まった。
ほんの一瞬だった。だが、見えた。金箔を貼った仮面の下で、何かが滑った。あれは怒りではない。恐れだ。人は自分の隠したものに手をかけられたとき、まず怒るふりをする。
「禁忌のはずの古代語を、読める人間が——教会の巡回証を持って、村を回っている。司祭殿。これ、どういうことです?」
「……こ、こじつけだ! 焦げ跡の偏りなど、どうとでも——」
「じゃあ、もう一つ」
俺は二枚目の拓本を出した。リゼの守護術式の、署名の写し。それと、井戸・水車・灯り石、すべての術式の、署名の写し。
紙を広げる手は、我ながら情けないくらい震えていた。だが震えていても、文字は逃げない。ありがたいことに、古代語は俺の度胸を採点しない。
「これ、全部、別の場所の、別の千年前の術式の署名です。本来なら、製作者が違うんだから、署名もバラバラのはず。なのに——」
全部、同じだった。
寸分違わぬ、同一の署名。
「千年前の別々の術式が、全部同じ署名。あり得ない。誰かが後から、全部に同じ署名を『上書き』して回ってる。最近、ね。——その『上書き』の墨、まだ新しいんですよ。司祭殿」
侍祭の一人が息を呑んだ。別の一人は、手にした書類を抱え直した。辺境伯の側近たちは顔を見合わせ、衛兵たちは槍の石突きをわずかに床へ押しつけた。小さな音だったが、ペトル司祭の眉が跳ねた。
俺は内心で、自分に言い聞かせる。ここで調子に乗るな。俺は名探偵ではない。水車小屋で煤まみれになり、リゼに首根っこを掴まれて風呂に放り込まれかけた、ただの読み手だ。偉そうにしていると、足元の床につまずいて台無しにする自信がある。
◇
ペトル司祭は、もう笑っていなかった。
額に汗が浮き、唇が震えていた。供の侍祭たちが、不安げに顔を見合わせる。甘ったるい香油の匂いに、じっとりした汗の臭いが混じりはじめた。聖職者だろうが、追い詰められれば人間の臭いがする。ありがたい。俺だけが臭いわけじゃないと分かると、少しだけ勇気が出る。
「黙れ……黙れ、異端者が! 貴様の言葉など、誰が信じる! 古代語が読めるのは貴様だけ、貴様の言うことを検証できる者は、この世にいない! つまり貴様は、何とでも言える!」
……痛いところを突いてくる。
その通りだ。俺は世界で唯一の読み手で、だから俺の証言は、誰にも裏が取れない。読めない世界では、読める者の言葉は、嘘とも本当とも証明できない。
それは、力じゃない。孤独だ。
世界でただ一人読めるってことは、世界の誰にも、自分の見ているものを証明できないってことだ。俺がどれだけ真実を語っても、読めない人々にとって、それは「信じるか信じないか」の話にしかならない。司祭は、その構造に賭けてる。「検証できないお前の言葉は、無価値だ」と。
じいちゃん。あんたが死ぬ前、なんであんなに寂しそうだったのか、今わかったよ。
あんたはいつも、文字を読むときだけ少し遠い顔をした。村の誰も読めない碑文の前で、俺にだけ小声で意味を教えた。あのとき俺は、秘密をもらっていると思っていた。格好いい役目だと、馬鹿みたいに胸を張っていた。違った。あれは重荷だった。読める者が一人だけなら、真実はいつだって独り言になる。
でも——あんたは、俺に読み方を教えた。一人増やした。
俺も、コルムに教えた。また一人。
読める人間が二人になれば、それはもう「検証」だ。
いつか、この孤独は、終わる。
でも、それは今日の話じゃない。今日は、今日のやり方で勝つ。
「閣下」
俺は辺境伯を見た。
声が裏返らなかったのは奇跡だ。奇跡という言葉を使うと、目の前の司祭が商売敵みたいな顔をしそうなので黙っておく。
「読めなくても、できる証明があります。——拓本の署名の墨を、火にかざしてください。千年前の墨は、炭化して、炎で色が変わりません。最近の墨は、油を含んでるから、炎で青く燃える」
辺境伯が、自ら拓本の隅を、燭台の火に近づけた。
誰も動かなかった。いや、動けなかった。紙が火へ寄る。蝋燭の芯が小さく爆ぜ、黄色い炎が揺れる。俺の心臓も一緒に揺れた。ここで燃えなかったらどうする。いや、燃える。昨日、リゼの前で試した。焦げ跡も、墨の匂いも、間違いなかった。それでも本番というやつは、人間の記憶を疑わせる。なんとも悪趣味な仕組みだ。
署名の墨が——青く、燃えた。
細い青だ。けれど謁見の間の誰の目にも、それははっきり映った。古代語を読めるかどうかなんて関係ない。文字の意味など知らなくても、炎の色は見える。
謁見の間が、ざわめいた。読めない人間にも、見える証拠。千年前の術式に、最近、誰かが署名を上書きした、動かぬ証拠。
リゼが小さく息を吐いた。獣の気配を帯びた彼女の横顔に、ほんの少しだけ人らしい安堵が戻る。ピピは俺の肩の近くで、文字の粒を震わせていた。焦げた墨の匂いが気に入らないらしく、丸い形になったり細長くなったりしている。文字でできた残響にも鼻があるのか。いや、あるんだろう。世の中、俺の常識よりだいぶ雑にできている。
「司祭殿」辺境伯が立ち上がった。「祈祷師モルグの、次の巡回先は」
声に刃が入った。今度こそ、誰の首か職が飛ぶ音がした気がする。
「し……知らぬ! 私はただ、上からの指示で巡回証を——」
言ってしまってから、ペトル司祭は口を押さえた。
「上からの指示」。
教会の、上層。
謁見の間の空気が、一段重くなった。村を焼いた祈祷師が一人いる、という話では終わらない。巡回証を出した者がいて、その背後に命じた者がいる。紙一枚の向こうに、人の飢えや呪いを道具にする連中がいる。俺みたいな小者には、想像するだけで胃が痛い規模だ。できれば帰って寝たい。だが帰れば、次の村が焼かれる。
ペトル司祭の供たちは青ざめていた。中には、本当に何も知らなかった者もいるのだろう。弱い者はいつだって、偉い者の嘘の盾にされる。俺はそういう顔を見るのが嫌いだ。自分もそっち側に立っていた時間が長いからだ。
部屋の隅で、ピピが、ぶわっと膨らんで、盛大なくしゃみをした。
『っくしゅ! ……こげくさいの、にげてくのら! こっち、東のら! いそぐのら!』
文字の小さな身体が、東の窓へ向かって震える。ピピの声はいつも間の抜けた語尾をつけるくせに、この瞬間だけは妙に鋭かった。焦げた術式の残り香。焼き潰された文字の悲鳴。そういうものを、こいつは俺たちより先に嗅ぎつける。
リゼが即座に振り向いた。瞳の奥で獣の光が走る。俺の足はまだ床に根を張りたがっていたが、口だけは先に動いた。こういうとき、臆病者の口は逃げ道を探すより早く、なぜか面倒な方向を指す。
「閣下! 祈祷師、まだ領内にいます! 東です!」
辺境伯の命令が飛ぶ前に、衛兵たちの姿勢が変わった。リゼの手は剣の柄にかかっている。俺は拓本を抱え直し、青く燃えた墨の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、盛大にむせた。
格好はつかない。
だが、追う理由だけは十分だった。
(第九話へ続く)




