帰る場所の匂い
トルク村から領都に戻ると、領主館の厨房から、いい匂いがした。
久しぶりだ。「いい匂い」を「いい」と思えるのは。汚染地帯の腐臭と、腐った井戸の底から這い上がる泥の息と、焦げた術式が鼻の奥に貼りつくような苦い匂いばかり嗅いできた鼻に、バターと香草の匂いが沁みる。
大げさではなく、膝が少し緩んだ。
腹が減っていると人間は弱くなる。俺の場合、元から強かった覚えがないので、減る一方だ。財布、体力、評価、人生の持ち札。だいたい減る。増えるのは厄介ごとと、台帳の未処理欄くらいである。
「おかえり、坊や! 死なずに帰ったね!」
厨房の主は、ハンナさんだった。四十八歳。領主館の賄い婦。腕は丸太、声は鐘。汚染地帯のど真ん中で三十年、館の腹を満たしてきた人。
湯気の向こうで、でかい鍋がぐつぐつ鳴っている。刻んだ玉ねぎ、骨つき肉、根菜、香草。そこにバターが落ちる音まで聞こえた気がした。疲れすぎると耳まで食い意地を張るらしい。さすが俺の身体、品がない。
俺がこの館に来た初日、誰も俺に飯をよこさなかったとき、黙って湯気の立つ皿を突き出してくれたのが、この人だった。
あのときの俺は、追放されたばかりで、肩書きは「記録官」なのに、実態は「邪魔だから端に置かれた男」だった。魔力ゼロ。剣も弓もからっきし。古代語が読める以外は、荷物運びにも向かない。そんな人間に、温かい飯を出す理由なんて、普通はない。
ハンナさんは、理由を聞かなかった。ただ、「食いな」と言った。
その一言の恩を、俺は妙に重く覚えている。人は助けられた場面を、案外、格好よく覚えていない。皿の縁にこびりついた豆の皮とか、匙を握る手の震えとか、そういう情けない部分ごと、忘れられないものになる。
「ハンナさん、ただいま。腹減って死にそうです」
「そうだろうそうだろう。座んな。——おや」
ハンナさんの目が、俺の肩で止まった。
ピピが、ちょこんと座って、厨房を物欲しそうに見ている。文字でできた小さな残響。古代語の欠片が、輪郭だけ生き物の真似をしているような存在だ。煤のような、古い紙のような、ほんの微かな匂いもする。無臭の神秘などではない。こいつはこいつで、ちゃんと生活感のある残響だった。
「坊や、肩に……なんか、いるね?」
俺は固まった。
ピピは古代文字の塊だ。普通の人には、ただの淡い光の靄にしか見えない——はずだけど、勘の鋭い人には「なんかいる」と感じられるらしい。古代語の読めないハンナさんに、どう説明したものか。
拾いました、と言うには、拾った場所がろくでもない。生まれました、と言うには、俺が産んだみたいで非常に嫌だ。相棒です、と言うには、相棒の片方が俺であることをピピに謝りたくなる。
「えーと……拾った、というか、生まれた、というか」
「ふぅん。猫じゃないね。犬でもない。——腹は、減ってるのかい?」
『へってるのら!!』
ピピが全力で頷いた。小さな身体が、ぱたぱたと文字の粒を散らす。ハンナさんには声は聞こえてないはずだけど、跳ねる動きは伝わったらしい。
「はいよ」
ハンナさんは何も聞かず、小皿にミルクを注いで、ほんの少し、煤を一つまみ落とした。
「うちのかまどの煤さ。なんとなく、こいつぁミルクより、こっちが好きそうな顔してる」
ピピが、皿に飛び込んだ。
飛び込んだ、としか言いようがない。身体の大きさに対して皿が大きすぎるせいで、淡い文字の塊が白い水面にぽちゃんと沈みかけ、慌てて縁にしがみついた。それでも煤入りミルクを、ちろちろ、夢中で舐める。
『おいしいのら! ハンナ、すきなのら!』
……この人、ほんとに何者なんだ。古代の精霊じみた残響の食の好みを、勘で当てた。
「ハンナさん、なんで煤を」
「三十年もこの土地にいりゃね、坊や。『見えないけど、いるもの』との付き合い方くらい、覚えるさ」
ハンナさんはそう言って、鍋をかき混ぜた。腕の筋肉が布の下で動く。人ひとり殴り倒せそうな腕だが、その手つきは妙に優しい。塩を摘まむ指の先が、決して多すぎない量で止まる。
領主館の厨房は、戦場に近い。腹を空かせた兵士、徹夜明けの文官、傷を負った斥候、顔色の悪い俺。そういう連中が、毎日ここで何かを食っている。汚染地帯で生き残るための補給線は、剣でも魔法でもなく、案外この鍋なのかもしれない。
「ハンナさんは……怖くないんですか。汚染地帯で、ずっと暮らして」
聞いてから、少し後悔した。飯をねだりに来た人間が、何を湿っぽい質問をしているのか。しかも俺は、聞く側としてはあまりに新参だ。十二日前に追い出されて流れ着いた男が、三十年ここにいる人の怖さを測れるはずもない。
けれど、ハンナさんは玉ねぎを刻む手を止めずに、ふん、と笑った。
「怖いさ。今でもね。夜中に井戸が鳴りゃ目が覚めるし、風が変な甘い匂いを運んできたら窓を閉める。厨房の床に、昨日なかった染みが出てりゃ、塩を撒いてから踏む。怖くない奴なんざ、この土地じゃ早死にするよ」
包丁の音が、一定の間隔で続いた。
「亭主はね、坊や。十五年前、『眠る石碑』に触れて、そのまま目を覚まさなかった。三日三晩眠って、それきり」
俺は、スプーンを落としそうになった。
『触れると眠る石碑』。台帳に書いた、麻酔術式の暴走。古代の医療施設で、痛みを取るために使われていたはずの術式。それが劣化し、範囲も出力も制御を失って、人を眠らせ続ける罠になっていた。
俺は、それを紙の上の項目として見ていた。
危険度。発見場所。推定用途。対処案。
そこに、人の名前はなかった。妻の名前も、最後に食べた飯の味も、残された皿を洗った手の震えも、何も書かれていなかった。
あれは——人ひとり、奪ってたのか。
「すみません、俺、そんなことも知らずに」
「いいんだよ。古い話さ」
ハンナさんは、そう言った。軽く言ったつもりなのだろう。けれど、刻まれた玉ねぎの山が、少しだけ不揃いになった。
「——でもね、坊や。あんたが来てから、あたしは初めて聞いたんだ。『あの石碑は、医療用の麻酔の道具が、壊れただけだ』って。神罰でも、祟りでもなく、ただの、壊れた道具だって」
ハンナさんの手が、ほんの少し、震えた。
鍋の湯気が、彼女の顔を曖昧にした。泣いているのかどうかは分からない。分からないふりをしたほうがいい気もした。こういうとき、俺の口はだいたい余計なことを言う。だから閉じておく。賢明な俺、年に一度あるかないかの快挙だ。
「十五年、あたしは亭主が『神に召された』と思って生きてきた。違ったんだね。あれは、誰も直さなかったから、亭主を眠らせただけだ。……それを知れて、あたしは、ちょっと、楽になったよ」
厨房が、静かになった。
外では、鍛錬場のほうから兵の掛け声がかすかに聞こえる。廊下を走る小姓の足音もあった。いつもの領主館だ。誰かが働き、誰かが怒鳴り、誰かが腹を空かせる。けれど、この厨房の一角だけ、十五年前の眠りが、まだ薄く積もっているようだった。
「直しとくれ、坊や。あの石碑。亭主はもう戻らないけど。——次に触れる誰かが、眠らないように」
「……必ず。約束します」
言った瞬間、胃の奥が重くなった。
俺は魔法を撃てない。奇跡も起こせない。剣で石碑を叩き割れば、たぶん俺の腕のほうが先に折れる。できるのは古代語を読んで、術式を一語だけ書き換えること。それだけだ。
それだけで、約束をした。
馬鹿だと思う。だが、ここで「できる範囲で」なんて言うほど器用でもなかった。俺の人生、逃げ道を用意して成功したことがない。だいたい逃げ道のほうに落とし穴がある。
台帳の優先順位を、心の中で、書き換えた。「医療院に移設」じゃない。あれは、最優先で「直す」案件だ。
ハンナさんは、俺の前にも皿を置いた。湯気の立つ、具沢山のスープ。
豆と肉と根菜が、匙を入れる前から存在を主張している。香草の青い匂い、溶けた脂の甘さ、焼いたパンの香ばしさ。ピピが皿の縁から顔を上げ、『ノエルのも、おいしそうのら』と未練がましく揺れた。
「ピピ、お前は煤入りを食ってろ。これは俺の命綱だ」
「なんだい、名前はピピってのかい」
「あ」
しまった。声に出していた。
ハンナさんは楽しそうに笑っただけだった。
「あんたも食いな。直す仕事ってのはね、坊や。腹が減ってちゃ、できないんだ。——あたしの仕事も、同じだよ」
俺は匙を取った。
一口目で、胸のあたりがほどけた。熱い。舌を焼くほどではなく、冷えた腹に届く温度。塩気は強すぎず、それでも疲れた身体には十分だった。噛むたびに、根菜の甘さが出る。
領都に戻ってきたのだ、とようやく思えた。
ここが俺の家だ、などと言うには、まだ早い。そんな図々しさを持てるほど、俺の根は太くない。けれど、帰ってきたら誰かが「死なずに帰ったね」と言い、皿を置いてくれる場所がある。それは、名前をつけるには少し怖いほど、ありがたいものだった。
厨房の窓から、夕陽が差し込んでいた。
追放されて十二日。俺は生まれて初めて、「帰る場所」みたいなものの匂いを、嗅いだ気がした。
◇
その夜、辺境伯の執務室に呼ばれた。
腹が満ちると眠くなる。人間として当然の反応だ。だが、辺境伯ガルド様の執務室で船を漕ぐほど、俺も命知らずではない。あの人の前で居眠りしたら、処刑はされないだろうが、翌日から台帳三倍と訓練場の走り込みが待っている気がする。後者のほうがつらい。
執務室は、夜でも明るかった。壁の燭台に火が入り、机の上には領内地図、村々からの報告書、封蝋の割られた手紙が積まれている。窓の外はもう暗い。汚染地帯の夜は、ただ黒いだけではない。遠くで薄い光が瞬き、時折、風に混じって金属を擦るような音がする。
辺境伯は、そのすべてを背負うように机の向こうに座っていた。
「記録官。トルク村の件、村長から礼状が届いた。井戸と、田の用水路。二つとも直したそうだな」
「ええ。ただ閣下、お耳に入れたいことが」
礼状、という言葉に少しだけ胸が温かくなった。あの村長の震える手や、井戸から上がった清水の音が蘇る。だが、その温かさだけを抱えて眠るには、焦げた匂いが濃すぎた。
俺は、ここ数日で確信に変わったことを、辺境伯に話した。
領内の汚染は、自然劣化だけじゃない。何者かが、直りかけの術式や、まだ生きてる術式を、故意に焼いて回ってる。壊れていく術式には、時間で崩れたものとは違う跡がある。古代語の接続詞や制御語が、狙って潰されている。素人が石を叩いた跡ではない。読めはしなくても、壊し方を教えられた者の手だ。
手口は「旅の祈祷師」。災いを予言し、布施を取り、教会の札を売る。村人は怯える。怯えた人間は、理屈より先に札を買う。井戸が濁れば水がほしい。田が枯れれば祈りたくなる。そこに、もっともらしい顔で救いを売る者が来る。
実に嫌な商売だ。嫌な上に、儲かりそうなのがなお嫌だ。
辺境伯の顔が、岩みたいに固くなった。
「……マッチポンプ、か。神罰を金に換える商売。しかも教会ぐるみ、と言いたいのか、貴公は」
「断定はできません。けど、トルク村の祈祷師は、教会の正式な巡回証を持っていたそうです。村長が見ています」
長い沈黙。
沈黙の間、燭台の火が小さく鳴った。俺は自分の手の汗を意識した。辺境伯の前で教会を疑う発言をする。しかも証拠はまだ薄い。普通なら、弱小記録官の首が飛ぶには十分な軽率さである。
けれど、言わないほうがもっと悪い。
俺は弱い。弱いから、強いもの同士の顔色を読んで黙る癖がある。だが、それでトルク村の井戸は直らない。ハンナさんの亭主も戻らない。リゼの呪いも、ただの不運にされる。
「ガルド様」
扉の影から、リゼが進み出た。
いつからそこにいたのか、気配を消すのが相変わらずうまい。騎士としての立ち姿は凛としているが、近づくと、革鎧と汗と、獣じみた体温の匂いがわずかにする。呪いのせいで研がれすぎた気配が、部屋の空気を少し震わせた。
「私の呪いも、同じ手口で焼かれていました。半年前、私が遺跡を調査したのも——父上の死の真相を追ってのことでした」
辺境伯の肩が、びくりと動いた。
リゼの父——辺境伯の弟は、遺跡調査で死んでいる。
その記録を読んだとき、俺はただの過去の事故だと思っていた。いや、そう思おうとしていた。台帳の上の死は、線で囲める。分類できる。分類してしまえば、少しだけ距離を取れる。
だが、ここにいるリゼの声は、距離を許さなかった。
「リゼ。その話は」
「伯父上。私はもう、これを『私の不運』では済ませられません。父上が死に、私が呪われ、領民が騙されている。全部が——一本の糸で繋がっているなら」
リゼの拳が、かすかに震えていた。
怒りだけではない。恐れもある。たぶん、悔しさも。彼女は強い。強い人間は、弱音を吐かないのではなく、吐く暇もなく立ち続けてしまうことがある。俺は弱いので、そこだけはよく分かる。弱い者は座り込む。強い者は立ったまま傷口を隠す。
辺境伯は、長いこと目を閉じていた。
領主としての顔と、伯父としての顔と、弟を失った兄としての顔。そのどれを表に出すべきか、選んでいるようにも見えた。選ばなければならない時点で、きっとこの人の椅子は冷たい。
やがて、低く言った。
「……明日、教会の駐在司祭ペトルを呼ぶ。巡回証の発行記録を、出させる。記録官、貴公も同席せよ。古代語の『焦げ跡』、奴の目の前で読んでみせろ」
来たな。
ペトル司祭。教会の利権を背負った、領都の監視役。あの蛇みたいな目。
以前見たとき、彼は笑っていた。口元だけで。目は少しも笑っていなかった。俺のような人間を見る目は、だいたい二種類ある。役に立つ道具を見る目か、邪魔な埃を見る目か。ペトル司祭の目は、その両方を同時にやってのける器用な目だった。
明日、あの目の前で、俺は焦げ跡を読む。
魔法は撃てない。威圧もできない。立派な血筋もない。できるのは、古代語を一語ずつ拾い、壊された意味を見つけることだけだ。派手さはない。実にない。宴会芸にもならない。
だが、焦げ跡は嘘をつかない。
人間は嘘をつく。肩書きも、祭服も、巡回証も、いくらでも嘘を飾れる。けれど、焼かれた術式の端に残った語尾、削られた制御語、無理に繋がれた命令の欠片は、そこに手を入れた者の癖を残す。
俺は頷いた。
「承知しました。読めるものは、全部読みます」
辺境伯が短く頷く。リゼは俺を見た。金色がかった瞳の奥に、獣の呪いとは別の熱があった。
肩の上で、ピピが、ぶるっと身を震わせた。煤入りミルクで満腹になったはずなのに、その小さな文字の輪郭が、夜風に触れた灯火みたいに揺れる。
『……あした、こげくさいの、いっぱい来るのら。ピピ、わかるのら』
俺は、思わず肩に乗った小さな相棒を見た。
焦げくさい。
それは術式の話か、人の腹の底の話か。たぶん、両方だ。
腹の中には、まだハンナさんのスープの熱が残っている。その熱を頼りに、俺は背筋を伸ばした。怖いものは怖い。明日になれば、胃はまた縮むだろう。足も震えるかもしれない。
それでも、読む。
直すために。次に触れる誰かが、眠らないように。
(第八話へ続く)




