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水車小屋の焼け跡

 村はずれの水車小屋は、十年前に廃業したと村長が言っていた。


 その十年という歳月が、月明かりの下では妙に長く見えた。朽ちかけた水路の板はところどころ反り、苔は黒く湿って、止まった水車の羽根には蔦がからみついている。昼ならただの廃屋だ。夜なら、村人が近寄らない理由のひとつくらい勝手に生えてくる。


 俺はそういう場所が得意ではない。得意な場所を挙げろと言われても困るが、少なくとも「誰もいないはずの小屋」は、俺の人生における安全地帯からは遠い。


 月明かりの下、リゼを先頭に三人——いや、二人と一匹で近づく。肩の上でピピが、こげくさい、こげくさい、と小さく繰り返してる。鼻のいい猟犬みたいだ。文字でできてるけど。


『鼻、ないのに、わかるのら』


「それを自慢されると、俺の常識の置き場所がなくなる」


 ピピの体を作る細い文字列が、俺の襟元でかすかに震えた。焦げた油、湿った木材、古い小麦粉の黴びた匂い。その中に、俺には判別できない何かを、こいつは拾っているらしい。


 リゼは黙っていた。夜風が吹くたび、彼女の外套の裾が揺れ、獣化した脚の銀毛が月を受けて淡く光る。近くにいると、革鎧にしみた汗と鉄、そして獣の体温の匂いがする。本人は嫌がるかもしれないが、それは化け物の匂いではない。夜道を走り、村人のために剣を抜く者の匂いだ。


「ノエル。後ろにいろ」


 リゼが右腕を銀に灯した。骨格が軋むような小さな音を立て、指が獣の爪へ変わる。それでも動きは荒くない。水車小屋の扉を、獣の腕が静かに押し開ける。


 蝶番が、きい、と泣いた。


 中は、水車の動力で動く製粉装置の残骸。折れた軸、ひび割れた石臼、天井から垂れる蜘蛛の巣。埃と、蜘蛛の巣と、十年ぶんの静寂。


 ——のはずだった。


 床に、足跡があった。


 埃の積もった床に、つい最近の、大人の靴跡。それも一人ぶん。出入り口から床の中央へ、まっすぐ。迷いがない。何かを探した跡でも、ここで雨宿りした跡でもない。来る場所を最初から知っていた人間の歩き方だ。


「リゼさん。誰か、ここに来てます。十年廃業のはずの小屋に、最近」


「祈祷師か」


「たぶん」


 俺はしゃがみ、足跡の縁を見た。埃がまだ完全には戻っていない。湿った泥が乾いて薄い輪郭だけを残している。村人の野良靴より底が細い。旅人の靴だ。


 足跡の終点、床の中央に——真新しい焼け跡があった。


 石床に直接、古代文字が彫られている。ただしその一部が、つい最近、火で炙られて潰されてる。縁の焦げが、まだ油の匂いを残してた。指で触れると、煤が付く。乾ききっていない。せいぜい、十日前。


 井戸を腐らせたのと、同じ日。


 同じ人間が、この村に「二つ」仕掛けていった。一つは即効性の井戸。一つは——時限式の、これ。


 俺は膝をついて読んだ。


『——溜めよ。水を溜めよ。あぜに満ちれば、【欠落】、流せ』


 灌漑かんがい術式だ。雨水を溜めて、田畑が乾けば適量を流す——農村の命綱。古代の連中は、性格はともかく仕事だけは丁寧だった。水位、地面の湿り、畔の高さ。そういうものを術式に読ませて、村が寝ている間も田を守らせる。


 その命綱の、いちばん大事な結び目が焼かれていた。


 「畔に満ちれば流せ」の「流せ」の条件が、焼かれてる。


 つまりこの術式は、溜め続けて、流さない。


 人間で言えば、息を吸う命令だけ残して、吐く命令を消されたようなものだ。想像しただけで苦しい。術式に肺がなくてよかった。いや、村には困る。


「……まずい。リゼさん、この村、川から遠いですよね。水田の水は、どこから引いてます?」


「東の溜め池だ。代々の」


「その溜め池、今この瞬間も水位が上がり続けてます。流す機能が殺されてるから。あふれたら——村の東側、低いとこ、全部水に浸かる」


 言いながら、喉が乾いた。さっき井戸の水を見たばかりだ。腐った水の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。今度はきれいな水が牙をむく。水はありがたい。ありがたいが、量と場所を間違えれば、ただの重たい暴力だ。


 リゼの顔が険しくなった。


「決壊するということか。いつ」


「わからない。けど十日前に細工されたなら、もう限界に近い」


 ピピが、俺の肩で、ぴょんぴょん跳ねた。


『こげた字、ここのも、おなじにおいなのら。あかちゃんのときの、リゼのにおいと、おなじ』


「……同じ匂い?」


『うん。あくびと、いっしょ。おなじ人が、こげさせた字なのら』


 あくび、じゃなくて「同じ人」だな。


 ピピの嗅ぎ分けが正しいなら——リゼの呪い、井戸の浄水術式、この灌漑術式。全部、同じ人間が焼いた。


 旅の祈祷師。災いを予言して去る男。


 予言じゃない。予告だ。


 自分で壊して回って、「災いの相が出ている」と言って布施を取り、村が困り果てた頃に「解呪」と称してまた金を取る。マッチポンプだ。それも、教会の札つきで。


 腹の底が、すうっと冷えた。


 怒りは熱いものだと思っていたが、本当に腹が立つと体温が下がるらしい。俺は魔力ゼロで、火の玉ひとつ撃てない。怒鳴ったところで水位は下がらないし、祈祷師の襟首も勝手には飛んでこない。できることは、いつも通り、字を読むことと、一語だけ書き換えること。


 地味だ。泣けるほど地味だ。


 でも、今は手術が先だ。怒るのは直してからでいい。


「リゼさん。溜め池に走って、といの口を全開にしてきてください。応急で水を逃がす。俺はここで本式を直します」


「お前を一人にはできん。護衛だぞ私は」


「ピピがいます。それに——」


 俺は焼け跡の術式に、ペンを構えた。


「俺、この村の田んぼ、まだ一回も見てないけど。コルムのばあちゃんが腰やってまで守ってる田んぼなんでしょ。沈めるわけにはいかないんで」


 リゼは一瞬、俺を見て——ふ、と口元を緩めた。初めて見る、笑った顔だった。


「……言うようになったな、インク壺」


「その渾名、王都に置いてきたんですけど」


「拾っておいた」


「拾得物として処分してください」


 リゼは短く笑い、すぐに表情を引き締めた。獣化した脚が床を踏む。埃が舞い、月光の筋の中できらきらと浮いた。


「死ぬな」


「努力します。俺の得意分野が、努力で足りる範囲なら」


 リゼは銀の脚で、夜の田畑へ駆けていった。速い。馬より速い。小屋の外で草が裂ける音がして、次の瞬間にはもう遠ざかっている。守護術式、ちゃんと仕事してる。


 その背中を見送って、俺はふと気づいた。


 あの人、ためらわなかったな。


 「お前を一人にできん」と言った直後に、村のために、俺を一人にして走った。護衛の務めと、領民の命。二つを天秤にかけて、一瞬で後者を取れる。そういう人だ。半年間、自分を化け物と呼びながら、それでも騎士であることを、一度も手放さなかった人。


 ……守る価値のある人を、守ってる気がしてきた。柄にもなく。



 焼かれた「流せ」の条件節を、彫り直す。


 言うのは簡単だ。実際には、石床に刻まれた古代文字の溝を読み、焼け残った線の角度から消された語の形を推測し、術式全体の呼吸に合わせて一画を戻さなければならない。字は形だけでは動かない。意味と、順序と、周囲とのつながりがいる。


 俺にできるのは、一語だけの書き換えだ。


 一語だけ。たったそれだけ。


 だからこそ、間違えたら終わる。余計な文字を足せば水路が暴れ、意味をずらせば田が干上がるかもしれない。俺の手元ひとつで村の東側が水浸しになる。責任が重い。俺の肩に乗っているピピより、ずっと重い。いや、ピピは物理的には軽いが、今こいつの命綱も握っているので結局重い。


 石が硬い。ペン先じゃ歯が立たない。何度か煤を払ってみたが、黒い粉が爪の間に入り込むばかりで、溝は戻らない。焦げた部分は、文字そのものが焼き潰されている。


「ピピ、手伝ってくれ」


『ピピ、なにすればいいのら?』


「お前、古代文字でできてるだろ。ちょっとだけ、自分の体の字を、貸してくれ。『フルク』の字が要る。痛かったら言え」


『……ピピの、からだ?』


 ピピは少し考えた。


 その小さな体を作っている文字列が、ためらうように丸まる。無理もない。俺だって「小指を貸せ。あとで返す」と言われたら、まず相手の正気を疑う。自分で言っておいて最低だなと思ったが、ほかに手がない。


「嫌ならいい。別の方法を考える」


『いやじゃないのら』


 ピピは首を振った。たぶん首に相当するあたりを振った。文字の獣は、まだ体のどこが何なのか判定に困る。


『ピピ、ノエルにひろってもらったのら。リゼのこわい字も、井戸のくさい字も、ノエルが読んだのら。だから、ピピも読むの手伝うのら』


 そう言って、自分の尻尾の線を、するりと一本ほどいて、俺の手のひらに乗せた。


『これ、フルクの、はらいの部分のら。つかって、のら』


 差し出された一画は、ほんのり、あったかかった。


 こいつ、自分の体の一部を、ためらいなく差し出した。生まれて数日のくせに。俺より腹が据わってる。俺の数十年ぶんの臆病を、文字一匹が軽々またいでいくのは、教育上どうなんだ。


「……痛くないか」


『へいきのら。ノエルが、なおすために、つかうなら。ピピ、それが、うれしいのら』


「……ありがとな。あとでインク、たっぷりやる」


『上等なのら?』


「上等だ。薄めてないやつ」


『やったのら』


 嬉しそうに跳ねるピピを見て、俺は息を整えた。


 ピピの貸してくれた一画を芯にして、欠けた「流せ」を、石の上に編み直す。煤を払った溝に文字の端を合わせる。古代語の線は、ただの線じゃない。水が水路を選ぶように、意味もまた通りやすい形を選ぶ。


 「溜めよ」から「畔に満ちれば」へ。


 そこから「流せ」へ。


 焼け落ちた接続を、術式の流れに、そっと接ぐ。


 指先が痺れた。魔力じゃない。俺にはそんな便利なものはない。ただ、古い命令が動き出す直前の、紙魚が背筋を這うような感覚だ。古代文字を読みすぎた者だけが味わう、ありがたくない特典である。


 遠くで、どぉん、と水音。


 小屋の壁がわずかに震えた。リゼが樋を開けたんだ。堰き止められていた水が、一気に夜の水路へ吐き出された音だろう。間に合ってくれ、と心の中で呟く。祈る相手は特にいない。祈祷師にだけは祈りたくない。


 俺は最後の一画を引いた。


 灌漑術式が、ぐるりと灯る。


 青白い光が石床の溝を走り、焼け跡の黒を内側から洗うように広がっていく。止まっていた水車の軸が、かすかに鳴った。小屋の外で水路の流れが変わる音がする。


 「溜めよ」の暴走が止まり、「畔に満ちれば流せ」が、千年ぶりに正しく息を吹き返す。


 東の空が、わずかに白み始めていた。


 外へ出ると、夜明け前の風が汗を冷やした。土と水と若い稲の匂いが混じっている。村はまだ眠っているが、遠くの田だけが先に目を覚ましたみたいに、薄い光を返していた。


 戻ってきたリゼと、村の東を見下ろす。彼女の外套は水しぶきで濡れ、獣化した脚には泥が跳ねていた。息は少し上がっている。けれど目はまっすぐだった。


 溜め池の水位は、樋からの放流と、直った術式の自動制御で、見る間に下がっていく。夜明けの薄明かりの中、あふれかけていた水面が石組みの下へ戻り、田の畔はぎりぎりで踏みとどまっていた。


 田んぼは、沈まずに済んだ。


「間に合った、な」


「……ええ」


 その二文字が、胸の奥で遅れてほどけた。今さら膝が笑いそうになる。できれば俺の膝には、もう少し場面を選ぶ教養を身につけてほしい。


 ピピが俺の肩で小さく丸くなっていた。尻尾の一部が欠けた分、輪郭が少しだけ頼りない。


「ピピ、戻るか?」


『だいじょうぶのら。字、また生えるのら。たぶん』


「たぶんで済ませるな。俺の胃が削れる」


 リゼが、ぽつりと言った。


「ノエル。お前、私の呪いを焼いた人間と、同じ奴を追っているのか」


「たぶん。ピピが言うには、匂いが同じだそうです」


『おなじなのら』ピピが胸を張る。


 リゼは銀の腕を解いて、人の手のひらを、じっと見た。爪が引き、毛が消え、白い指が朝の光にさらされる。その変化を見つめる顔には、安堵より先に、古い痛みがあった。


「半年前、私が遺跡で呪いを拾ったのも……偶然じゃ、なかったのかもしれんな」


 その横顔に、俺はまだ、千年前の術式と建国禁書に同じ署名があることを、言えずにいた。


 言えば、この人を、もっと深い場所まで巻き込む。


 でも。


 巻き込まないでいられる段階は、たぶん、もう過ぎてる。


(第七話へ続く)

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