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弟子第一号

 井戸の修理は、思ったより骨が折れた。


 骨が折れた、というのは比喩だ。実際に折れていたら、俺は井戸底でそのまま村の新名物になっていたと思う。腐った水の匂いをたっぷり吸った、情けない標本として。


 水面下の石組みに彫られた浄水術式は、千年ぶん水を吸って文字が膨れ、半分溶けかけてた。指でなぞると、石なのに粥みたいにぬめる。しかも肝心の節だけ、黒く焼き潰されている。「捨てよ」。毒と淀みを地下の排水路へ流す、術式の出口だ。


 出口を焼かれた水は、捨てられない。捨てられないものは、溜まる。溜まったものは腐る。人間の愚痴と同じで、井戸水も行き場をなくすとたいへん質が悪い。


 焼き潰された「捨てよ」の節を、別の石板に正しく彫り直し、術式の流れに接ぎ木する。言うのは簡単だ。やる俺は命綱で吊られたまま、腰まで冷たい水に浸かり、腐臭と苔と虫の死骸に囲まれて、ひたすら一画ずつ刻んだ。魔力なんて便利なものは、俺にはない。あるのは字を読む目と、震える手と、うっかり滑れば底なしの臭い泥に抱かれる現実だけだ。


 上ではリゼさんが縄を支えてくれていた。獣化の呪いを負った女騎士の腕力は、こういう時だけは教会の祈祷より信用できる。途中で「大丈夫か」と声が降ってきたが、俺は「大丈夫に見えるなら目も呪われてます」と返した。返せるうちは大丈夫、という雑な基準で半日が過ぎた。


 日が傾く頃、最後の一画を接いだ。


 濡れた指先で石板を押さえ、息を止める。間違えたら、浄水どころか井戸そのものがただの湿った穴になる。俺の人生と似ていて、なかなか笑えない。


 井戸の底で、術式がぐるりと一周、明るく灯った。

 黒ずんだ水面が、内側から押されるように波打って――集めすぎた毒と淀みが、地下の正しい排水路へ、ごぼり、と吸い込まれていく。


 澄んだ水が、湧いた。


 最初は細い糸みたいだった。けれどすぐに、石の隙間から透明な息がいくつも立ち上がり、水面に光を散らした。腐臭の底に、冷たい土と清水の匂いが戻ってくる。鼻が壊れたかと思ったが、どうやら世界の方が少し直ったらしい。


 縄で引き上げられた俺を、村中が囲んでいた。濡れ鼠、泥まみれ、臭いは最悪。英雄というより、井戸に落ちた失敗作の案山子だ。リゼさんが顔をしかめながら外套を貸してくれた。相棒は無臭ではないが、今の俺よりはずっと人間らしい匂いがした。


 村長が、ひしゃくで井戸水をすくって、震える手で口に運んだ。


 喉が鳴る音まで聞こえた。誰も喋らない。風車の軋む音と、どこかで泣きそうな子どもの息だけがあった。


 村長はしばらく目を閉じ、それから、わっ、と泣き出した。


 村人が次々にひしゃくを回し飲みして、抱き合って、子どもが井戸に駆け寄って、ハンナさん――いや、村のおばさんに首根っこを掴まれて止められてた。笑い声と泣き声が混ざって、夕焼けの村に広がる。誰かが俺の手を握り、誰かが頭を下げ、誰かが何度も同じ礼を繰り返した。


 ……書庫の七年間、俺の修正に礼を言った人間はゼロだった。


 羊皮紙の誤字を直しても、崩れかけた術式の危険な一語を見つけても、返ってくるのは「余計なことをするな」と「禁忌に触れるな」だけ。今日一日で、生涯ぶんの「ありがとう」を浴びた気がする。腐った井戸の底で半日吊られた甲斐は、まあ、あったかな。


「ノエルさま!」


 人垣を割って、小さいのが飛び込んできた。十二歳くらいの男の子。さっき井戸に駆け寄って怒られた子だ。膝に泥をつけ、頬を赤くして、目だけが妙にまっすぐだった。


「オラ、コルム! ノエルさまは、字が読めるって本当か! あの、井戸の、光ってる字! あれが読めるって!」


「読めるよ」


 その瞬間、コルムの目が、夜空の星みたいに光った。十二年生きてきて初めて「不可能だと思ってたこと」が、目の前で可能だと知った子どもの目だ。俺もたぶん、じいちゃんの山小屋で、同じ目をしてた。


「教えてくれ! オラにも読めるようになりてえ!」


 村がざわついた。古代語は教会の禁忌だ。子どもの無邪気な願いに、大人たちの顔が引きつる。喜びで緩んでいた空気が、急に薄くなった。井戸水は飲めても、その文字は飲み込めないらしい。


 俺は膝を曲げて、コルムと目線を合わせた。


「いいよ。けど、約束な。読めるようになるってことは、直せるようになるってことだ。直せるようになると――見て見ぬふりが、できなくなる。けっこう、しんどいぞ。それでもやるか?」


 じいちゃんが俺に言ったのと、同じ言葉。


 俺はあの時、格好つけて頷いたくせに、あとで何度も後悔した。読めなければ気づかずに済んだ傷。読めてしまったから背負った面倒。世の中には、知らない方が楽なことが山ほどある。しかも俺の場合、魔法で吹き飛ばす腕もない。ただ一語だけを、震えながら直すしかない。


 コルムは、一秒も迷わなかった。


「やる! オラ、井戸が腐って、ばあちゃんが水汲みで腰やってんの、ずっと見てたから! 見て見ぬふりなんか、もう、やだ!」


 ……一本、取られたな。


 大人が恐れて口を閉ざすものを、子どもは痛みからまっすぐ見る。まぶしい。まぶしすぎて、泥だらけの俺には少々つらい。


 俺は鞄から、予備の羊皮紙を一枚と、古代語の基本字母表を書き写してやった。弟子第一号。給金は出ないけど。そもそも師匠の俺が無給に近い。教育制度としては最初から破綻している。


「いいか、コルム。最初の十二文字だけ、まず覚えろ。これが全部の土台だ。焦るな。じいちゃ……俺の師匠も、十二文字で半年かけさせた」


「半年!? そんなにかかんのか!」


「かかる。でもな」


 俺は、字母表の一番上の文字を指でなぞった。まだ井戸水でふやけた指先に、墨が少し滲む。


「この十二文字を覚えた日から、お前の見る世界は、変わる。井戸の光る字が、ただの模様じゃなく『言葉』に見える。村の祠の文字が、『誰かの願い』に見える。――世界が、しゃべりだすんだ。けっこう、いいもんだぞ」


 コルムは、字母表を宝物みたいに胸に抱えて、何度も頷いた。羊皮紙一枚であんな顔をされると、こっちの方が困る。もっと立派なものを渡したくなるが、俺の鞄には濡れた道具と臭い布しか入っていない。師匠失格は初日から順調だ。


 村長は何か言いかけて、結局、深く頭を下げただけだった。ハンナさんはコルムの肩に手を置き、泣き笑いみたいな顔をしている。リゼさんは少し離れた場所で、黙って見ていた。獣の耳が夕風に揺れ、琥珀色の目が細くなる。


 ……禁忌、ねえ。教会はこれを二百年、隠してきた。

 でも、字を覚えた子どもがこんな顔をするものを、なんで隠さなきゃいけなかったんだろうな。

 その答えに、俺はこのあと、嫌というほど近づいていくことになる。



 その夜。村長の家に泊めてもらった俺は、妙な気配で目を覚ました。


 干し草を詰めた寝台は固く、掛け布は少し煙の匂いがした。外では虫が鳴き、隣の部屋から村長の寝息が聞こえる。昼間に浴びた礼の言葉と腐った井戸の匂いが、まだ頭の奥で混ざっていた。


 枕元に置いた、祖父ちゃん形見のインク壺。その蓋の上で――何かが、もぞもぞ動いていた。


 手のひらに乗るくらいの、小さな塊。

 淡く光る古代文字が、寄り集まって、丸っこい生き物の形になってる。耳みたいな出っぱりが二つ。尻尾みたいな線が一本。身体の輪郭は揺れていて、時々、文字の端がほどけては戻った。


 そいつは、インク壺の縁にしがみついて、こぼれたインクを、ちろちろ舐めていた。


「…………は?」


 俺が起き上がると、小さいのはビクッと跳ねて、振り返った。文字でできた丸い顔に、墨だまりみたいな目が二つ。


『……みつかったのら』


 しゃべった。


 いや、しゃべってない。文字が並び替わって、意味を伝えてきた。読み手にしか「読めない」声だ。寝起きの頭にはなかなか厳しい。泥のように眠りたい夜に、泥どころか文字が起きている。


「お前、なんだ……術式の、残響?」


『ピピは、ピピのら。あかりの石を、なおしたとき……こぼれた字が、ピピになったのら』


 灯り石。街道の崩れた祠で直した、あれか。


 あの修理のとき、欠けた条件を補修するのに、俺は古代文字を宙でかなり書いた。その「こぼれた字」が――たまたま意味のある順番で寄り集まって、勝手に、こいつになった?


 そんな馬鹿な、と思う一方で、理屈は通ってた。古代術式は「意味のある文字列」に力を宿す。十分な数の文字が、偶然、自己保存する意味――つまり、生きていたい、を綴ってしまえば。


 ……生まれちゃう、のか。こういうのが。


 じいちゃんが、一度だけ言っていた。


『古代語ってのはな、ノエル。ただの文字じゃない。“在れ”と書けば在り、“動け”と書けば動く言葉だ。だから、読み手は気をつけろ。お前が宙に書いた文字が、たまたま命の形になっちまうことが、ごく稀に、ある。――そういうのに出会ったら、逃げずに、名前をつけてやれ。名前のない言葉は、寂しくて、すぐ壊れちまうからな』


 当時は、おとぎ話だと思って聞き流してた。


 今、その「おとぎ話」が、俺のインク壺の縁で、こっちを見上げてる。しかも人のインクを勝手に飲んでいる。感動と窃盗の境目が曖昧だ。


「……ピピ、って名前、誰がつけた」


『ノエルが、いまつけたのら』


「言ってないけど」


『「ピピ」って、かおに、かいてあるのら』


 言われて見ると、こいつを形作ってる文字の中心に、確かに古代文字で『繰り返すピ・ピ』と綴られていた。灯り石の術式の『繰り返せ』の節から、こぼれた字。だから、ピピ。


 名前は、もう、こいつ自身が持って生まれてた。

 俺はただ、それを読んだだけだ。


『ノエルのインク、おいしいのら。ピピ、ついてっていい?』


「いや、ついてくも何も、お前」


 ピピと名乗った小さいのは、返事を待たずに、ぴょん、と俺の肩に飛び乗った。軽い。重さがほとんどない。けれど存在感だけは妙にある。インクの匂いと、ほんのり、あったかい。頬に触れた文字の端が、くすぐったく震えた。


 そのとき。


 肩のピピが、突然、ぶわっと膨らんで――


『……っくしゅ!』


 盛大なくしゃみをして、文字が一瞬ばらけた。


「うわ、何!?」


 散った文字が慌てて戻り、ピピは耳みたいな出っぱりをしょんぼり伏せた。


『……ちかくに、こわれた字が、あるのら。いやな、こげくさい字。ピピ、こげた字、きらいなのら』


 焦げた字。


 胸の奥が冷えた。眠気が一気に消える。


 ――焼かれた、欠落部。リゼの呪い。井戸の浄水術式。同じ匂いを、こいつは嗅ぎ分けてる。


 俺は跳ね起きて、窓を開けた。夜気が流れ込み、村の湿った土と薪の匂いが鼻を刺す。ピピのくしゃみが向いた方角――村はずれの、古い水車小屋。月明かりの下、止まった水車の影が黒く沈んでいた。


 半日前に直した井戸とは、別だ。まだ、ある。この村に、もう一つ。


 俺は外套を引っつかみ、肩のピピを落とさないように押さえた。喉の奥で、自分の情けないため息が転がる。休ませてくれない世界だ。いや、読めてしまう俺が悪いのか。


「リゼさん! 起きて! ――仕事、もう一件です!」


(第六話へ続く)

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