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腐る井戸

 着任から五日。俺は領主館の空き部屋に「修理室」という札を勝手に下げて、領内の汚染台帳を作り始めた。


 勝手に、と言っても誰も止めなかった。止めるほど人手に余裕がないのか、俺みたいな魔力ゼロの写本崩れが何をしても害はないと思われているのか。たぶん両方だ。人間、期待されていないと自由でいい。胸は少し痛いが、自由は自由である。


 三十年ぶんの被害報告を読み漁って、わかったことを並べる。


 フォグレス領の「神罰」、その正体——


 夜中に鳴り続ける鐘楼。たぶん時報術式の暦が壊れてる。

 立ち入った者の髪が白くなる森。たぶん漂白系の生活術式の暴走。

 触れると眠る石碑。たぶん医療用の麻酔術式。


 ほかにも、牛乳だけを凍らせる納屋だの、左足の靴紐だけ結び直す橋だの、祈れば祈るほど湯が冷める浴場跡だの、神々が本気で罰するにしては妙に所帯じみた災厄が山ほどあった。


 全部、千年前の「便利な道具」の成れの果てだ。


 怖い順じゃなくて、直せる順に並べ替える。こういうのは写本係の得意分野だった。七年間、目録づくりだけは誰よりやらされたからな。役に立たない根気と、褒められない正確さ。それが今さら飯の種になるとは、人生、嫌味がうまい。


 台帳を作りながら、俺はひとつ、確信を深めていた。


 この土地は「呪われて」なんかいない。


 呪いってのは、誰かの悪意が形になったものだろ。でもここに転がってるのは、悪意じゃない。善意の死骸だ。村を潤すために、旅人を導くために、病を癒すために——千年前の誰かが、丁寧に丁寧に書いた便利な道具たちが、主に先立たれて、壊れたまま動き続けてるだけ。


 誰かが看取ってやらなきゃいけなかった。

 二百年前、教会は看取る代わりに、「神罰」と名付けて蓋をした。


 ……腹が立つ理由が、だんだんはっきりしてきた。


 怒りは便利だ。腹が減っていても、眠くても、紙の上の小さな文字を追わせてくれる。ただし燃費が悪い。俺の胃は朝から薄い粥しか入っていないのに、頭だけが妙に熱かった。


「精が出るな、記録官」


 扉枠に寄りかかって、リゼが俺の台帳を覗き込んだ。革と鉄と、雨に濡れた獣のような匂いがふっと混じる。あの夜以来、この人は俺の部屋に勝手に入ってくるようになった。護衛だと本人は言う。たぶん半分は、本当だ。残り半分は——半年ぶりに「化け物」扱いしない人間ができて、距離感を測りかねてる、ってとこだろう。鎧の隙間が、たまにかわいい人だ。


 ちなみにその距離感は、だいたい近い。騎士の間合いで近い。俺の心臓に悪い。


「リゼさん。『触れると眠る石碑』って、場所どこです? あれ直すより先に、医療院に移設したほうが」


「その前だ。仕事が来た」


 リゼが羊皮紙を机に置いた。領主印つきの陳情書。端が汗で波打っている。運んできた者が、よほど急いだのだろう。


「南のトルク村。——『水が腐る』そうだ」


 机の上で、古代文字の欠片みたいなピピがぴょこんと跳ねた。


「水が腐るのは、たいへんなのら。文字も湿るのら」


「お前は湿るのか」


「気分の問題なのら」


 気分で湿る相棒を袖にしまい、俺は陳情書を読んだ。字は震えていた。水甕、家畜、乳飲み子、老人。書かれている言葉は粗いのに、困窮だけはやけに鮮明だった。


 俺は羽根ペンを置いた。


「行きましょう」


「早いな」


「水は待ってくれませんから」


 かっこよく言ったつもりだったが、立ち上がった瞬間に膝が机に当たった。台帳がずれて、インク壺が揺れる。弱者に誠実でいたい男は、まず自分の膝に誠実であるべきだった。



 トルク村は、領都から馬で半日の農村だった。


 俺は馬に乗れない。正確には、馬が俺を荷物と認識してくれない。途中まではリゼの後ろに乗せられ、途中からは荷車の端にしがみついた。騎士に腰をつかまれて落馬を防がれるのは、命の恩人に首根っこをくわえられた気分に近い。ありがたいが、情けない。


 道中、風は乾いていた。畑の土はひび割れ、用水路の底には泥が白く固まっている。遠くで鍬を持つ農夫がこちらを見たが、すぐ目を逸らした。助けを求める顔と、助からなかった時に傷つかないための顔が、同時に浮かんでいた。


 村に入った瞬間、わかった。空気が重い。そして村の家々の戸口に、べたべたと貼られた教会の札、札、札。


 風にあおられて札が鳴る。乾いた紙の音が、妙に耳についた。ありがたい神威というより、売れ残った紙細工の見本市だ。口に出すと角が立つので、俺は心の中でだけ司祭に値札を貼った。


 出迎えた村長は、腰の曲がった爺さんだった。俺たちを見て、まず拝んだ。それから泣いた。


「お役人さま……どうか、どうか井戸を……」


 役人と呼ばれるのは慣れていない。写本係だったころは、だいたい「おい」か「そこ」だった。けれど今、目の前の老人は、俺の肩書きではなく、俺が持っているかもしれない手段にすがっている。


「見ます。まず、誰も井戸に近づけないでください」


 村の様子も、ひどかった。


 痩せた家畜。乾いた洗い場。水甕を抱えて半日先の川へ向かう、足のもつれた年寄りたち。子どもが空の桶を抱いて、底を覗き込んでいる。桶は空だから、何も返してくれない。井戸ひとつ壊れただけで、村は十日で、こんなに簡単に死にかける。


 水って、こんなに重いんだな。蛇口をひねれば出るものじゃない暮らしでは。


 案内された村の中央の井戸は、遠目には普通だった。

 近づくと、臭いで殴られた。


 腐った卵と、古い薬草と、濡れた鉄を一緒に煮詰めたような臭い。鼻が逃げ場を失って、目の奥までしびれる。リゼがわずかに眉を寄せた。獣の感覚が混じる彼女には、俺の数倍きついはずだ。


「大丈夫ですか」


「問題ない」


 声は平らだったが、耳の先がぴくりと動いている。問題はあるらしい。騎士は嘘が下手で助かる。


 覗き込む。水面が、墨を流したみたいに黒ずんで、油膜が虹色にぬめってる。井戸の底から、ぬるりと泡がひとつ上がって、ぱちんと潰れた。


 ただの濁りじゃない。腐敗とも違う。もっと、人工的な——何かが「濃縮されてる」匂いだ。


「十日前からです。最初は薄濁りで……今はもう、煮ても、漉しても、家畜も飲みません。川は半日先で、年寄りには汲みに行けず……」


「教会には?」


「司祭さまが札を……五十枚も貼ってくだすって……あの、お代も、五十枚ぶん……」


 札一枚いくらか聞いて、俺は札の単価と効果の比率について司祭と小一時間話し合いたくなったけど、やめた。先に水だ。怒りは後で帳簿にして請求すればいい。いや、俺にそんな権限はない。権限がない怒りほど、持ち運びに不便なものもない。


「村長。十日前、村で何か変わったことは? 誰か来たとか、何か壊れたとか」


「変わったこと……いえ、何も。ああ、旅の祈祷師さまが通られたくらいで」


「祈祷師?」


「はい。それはご立派な方で。『この村に災いの相が出ている』と仰って、井戸に祈祷してくださって……その、お布施を少々……」


 リゼと目が合った。


 災いを予言した旅人が通って、十日後に災いが来た、と。


 ふうん?


 俺の中の善良な部分は、偶然かもしれないと言った。俺の中の七年分の下働き根性は、偶然を装う人間ほど書類の端を汚すと言った。後者のほうが、経験上よく当たる。


「村長さん。その祈祷師、井戸に祈祷したって言いましたね。具体的に、何をしてました? 札を貼った? お香を焚いた? それとも——井戸の中を、覗き込んでました?」


 村長は、しわがれた記憶をたぐった。唇が何度も開いては閉じる。人は怖いことを思い出す時、なぜか自分のせいにしようとする。だから俺は、できるだけ急かさず待った。


「……そういえば。縄を垂らして、ずいぶん長いこと、中を検分しておられました。『水脈の穢れを見ておる』と。あんなに熱心に覗くお方は、初めてで」


 井戸の内壁の術式は、水面の下にある。

 外から札を貼るだけの「祈祷」で、内壁が見えるわけがない。なのにその男は、わざわざ縄を垂らして、水面の下まで——術式の彫られた、ちょうどその高さまで、覗き込んでいた。


 偶然、ねえ。


「リゼさん。俺、ちょっと井戸の中、見てきます」


「正気か。あの臭いの中へ?」


「正気じゃないと、写本係なんて七年もやれませんよ」


「自慢になっていない」


「俺の経歴に、自慢になる部分が少ないんです」


 リゼは短く息を吐いた。笑ったのか呆れたのか、判断に困る音だった。



 井戸の中に入ることにした。


 正確には、入らされた。縄梯子を確認したリゼが「お前は軽いから」と言い、反論する前に俺の腰に命綱が結ばれていた。この騎士、段取りがいちいち軍隊式だ。俺の意見は作戦会議に呼ばれない兵站係くらいの扱いである。


「落ちたら引き上げてくださいよ! 俺、泳げないんで!」


「腐った水で溺れる前に引き上げてやる。安心して落ちろ」


「全然安心できない言い方!」


「落ちる前提で喋るな、のら」


 袖口からピピが顔を出した。顔と言っても文字の寄り集まりだが、心配そうな形になるのだから器用なものだ。


「お前、濡れたらどうなるんだ」


「にじむのら」


「それは駄目だ。袖の奥にいろ」


「命令が雑なのら。でも従うのら」


 ぶつくさ言いながら、暗い縦穴を下りる。縄梯子は湿っていて、指にぬめりが残った。石壁は冷たい。ところどころ苔が剥げ、古い水位の跡が黒い輪になっている。


 臭いは下に行くほど濃くなって、目に染みた。喉の奥が焼けるようで、吐き気が腹を押し上げる。俺は魔力がない。こういう時、身体を守る膜だの、空気を清める小技だの、便利な真似は何ひとつできない。できるのは、歯を食いしばって文字を読むことだけだ。


 水面の少し上で止まって、ランタンをかざす。


 灯りが揺れ、黒い水面に俺の顔が映った。ひどい顔だった。もともと上等ではないが、今は特売の絶望みたいな色をしている。


 井戸の内壁。水面のすぐ下の石組みに——あった。


 古代文字が、ぐるりと一周。水越しに、鈍く明滅してる。刻線の中を、青白い光が弱々しく走っては消えた。眠りかけの虫の呼吸みたいだった。


 読む。臭いも忘れて、読む。


『——巡れ、清めよ。淀みを集め、害を集め、毒を集め——』


 ……これ、浄水術式だ。


 千年前の村か町が、この水源に彫った公共設備。水から毒や淀みを「集めて」、どこかに捨てて、きれいな水だけを残す——そういう仕組みの、はずだった。


 文字は丁寧だった。命令の順番に無駄がなく、負荷を逃がす補助節もある。書いたやつは、たぶん水を大事に思っていた。毎朝ここに桶を持ってくる人の顔を、ちゃんと想像していた。


 続きを読んで、俺は思わず舌打ちした。


『——集めよ、集めよ、集めよ、【欠落】——』


 「捨てよ」の節が、ない。


 毒を集める機能だけが動いて、捨てる機能が死んでる。つまりこの井戸は十日間、周辺の地下水から淀みと毒を「集め続けて」、この水面に溜め込んでた。


 水が腐ったんじゃない。

 ここはこの一帯の地下水の、ゴミ溜めにされてるんだ。


 逆に言えば——今この瞬間も、トルク村の井戸以外の地下水は、千年でいちばん澄んでるはずだ。誰もそれを知らないだけで。


 なんてひどい皮肉だ。村を守るための術式が、村の喉を絞めている。善意が壊れると、悪意より始末が悪い。悪意なら殴ればいい。善意の残骸は、殴るとこちらの手まで痛む。


「おーい! 生きてるかー!」


 上からリゼの声が降ってくる。石壁に反響して、少し獣じみた低さを帯びていた。


「生きてます! 原因わかりました! ——けど」


 ランタンを欠落部に近づけて、俺は眉を寄せた。


 また、これだ。


 「捨てよ」の節があったはずの場所。文字の焼き潰された痕。縁の焦げ方まで、リゼの術式の欠落と、そっくり同じ。


 自然に摩耗したんじゃない。古くなって剥がれたんでもない。読める者が、意味を知ったうえで、必要な一語だけを殺している。俺ができることと同じ場所に手を伸ばして、俺よりずっと乱暴に、文字を潰している。


 偶然が、二回続いた。


 俺の経験上、二回続く偶然は、偶然じゃない。


 胃の奥が冷えた。井戸の水よりずっと冷たい。あの祈祷師は、ただの詐欺師じゃない。少なくとも、古代文字のどこを壊せば人が困るか知っている。


 俺はランタンを握り直した。手が少し震えていたのは、臭いのせいにしておく。人間、自分に優しい言い訳は持っていたほうがいい。


「——引き上げてください! それと村長に伝言! 十日前の祈祷師の人相、覚えてる限り全部!」


(第五話へ続く)

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