呪いは解くな、書き換えろ
「直せますよ、それ」
謁見の間が、凍りついた。
辺境伯は眉をひそめ、衛兵は顔を見合わせ、当のリゼ・フォグレスは——怒った。
つかつかと大股で歩いてきて、俺の胸ぐらを掴み上げた。
わあ、力強い。踵が浮いた。
「……王都の役人風情が。励ましのつもりか? それとも処分調書の前に、泣かせて楽しむ趣味か?」
「どっちでもないです。昨夜、路地で会ったでしょ。俺たち」
琥珀の目が、揺れた。
掴み上げる手から、力がほどけていく。代わりに浮かんだのは、怒りよりずっと見覚えのある表情だった。七年間、鏡で毎朝見てたやつ。——自分の正体がばれることへの、恐怖。
「あんたの術式、肩越しに全文読みました。『契約者を守れ。刃より、毒より』——あれは護衛用の守護術式です。守る対象の指定節が欠落して、暴走してるだけ。つまり呪いじゃなくて、故障です。故障なら、直せる」
「……術式が……読める、だと?」
辺境伯が、玉座から立ち上がった。
「記録官殿。古代語の読み手は、二百年前に絶えたはずだが」
「絶えてません。隠れてただけです」
言っちゃった。
七年間隠し通した秘密を、着任二日目に。でもまあ、どうせ王都はもう俺を捨てたんだ。だったらこの秘密は、火刑台に積まれる薪より、目の前の人ひとりに使ったほうがいい。
「辺境伯閣下、取引を。姪御さんの『呪い』、俺が直します。代わりに火刑の沙汰を保留して、俺に領内の汚染を調べさせてください」
「……直せなんだら?」
「処分調書、俺のぶんも一緒に書いてもらうことになるかと」
「なりませんぞ、閣下!」
甲高い声が割り込んだ。謁見の間の隅に控えていた、痩せた司祭だ。
領都駐在司祭ペトル。
教会から派遣された、いわば監視役。
胸の聖印は金。袖口の刺繍も金。
神罰の地の駐在で、よくそれだけ着飾れるな。
「三度の祈祷で解けぬ呪いは神罰——これは教義です! 神罰を人の手で『直す』など、冒涜にもほどがある! だいたい古代語の読解は禁忌、この男の言うことが事実なら、それ自体が火刑相当の異端で——」
「ペトル殿」
辺境伯の声は、静かだった。静かな熊ほど怖いものはない。
「では聞くが。満月までに、神は姪を直してくださるのか」
「そ……それは、神罰なれば、受け入れるのが」
「三十年。儂はこの黒い土地で、教会の祈祷とやらが何かをひとつでも直すのを待った。祠も、水も、土地も、人も——ひとつも直らなんだ」
辺境伯は、玉座の肘掛けを指で叩いた。
「儂は今、生まれて初めて『直せる』と言う男に会うておる。邪魔をするなら、貴公の処遇から先に記録官に書かせるが、よろしいか」
ペトル司祭は、金の聖印を握りしめて黙った。ただその目が、蛇みたいな粘度で俺に張りついたのを、俺は見なかったことにした。
……教会を敵に回したな、これ。確実に。
辺境伯は長いこと俺を睨んでいた。熊が獲物を測る目だった。やがて、太い息がひとつ。
「——リゼ。お前はどうしたい」
リゼは俺の胸ぐらを離して、一歩下がった。騎士の直立に戻る。でも声は、わずかに掠れていた。
「……伯父上。私は半年、この体を呪いと呼んできました。化け物と呼ばれて、頷いてきました」
琥珀の目が、俺を見た。
「『故障中なだけだ』などと言った人間は、こいつが初めてです。——賭けてみたい、と思っています」
◇
その夜。月の出とともに、領主館の地下訓練場で、リゼは銀の獣になった。
変身は、見ていて楽しいものじゃなかった。骨が軋んで、輪郭が崩れて、本人は声を殺してた。半年間、毎晩これか。毎晩これを、ひとりで。
鎖は付けさせなかった。代わりに俺は、獣の正面に文机を据えて、羽根ペンと、祖父ちゃん形見の銀朱インクを並べた。
「いいか、そこの大きいの。今からあんたの術式を頭から朗読する。読まれてる間、術式は読み手に『耳を傾ける』——古代術式の仕様だ。その隙に欠落部を補修する。痛みはない。……たぶん」
「たぶん、とはなんだ。たぶんとは」
「あ、しゃべれるんだ。今夜は」
「貴様が『客人』だからだろう。体が、貴様を敵と判定しなくなった。……ここ半年で初めてだ。この姿で、誰かと話すのは」
獣の姿のリゼは、耳を伏せて、それきり黙った。
……さて。やりますか。
世界で唯一の読み手の、世界で最初の「患者」だ。
息を吸う。
『——汝、銀の衛士。契約者を守れ』
声に出して原文を読み始めた瞬間、獣の全身の文字列が、ぴたりと流れを止めた。
千年ぶりに「読まれた」術式が、震えてる。
波打つ銀毛の上で、文字たちが俺の声に合わせて、一語ずつ明るく灯っていく。
『外敵より、刃より、毒より守れ——』
読み進める。守護の条項。変身の条項。そして、問題の欠落。
本来「契約者の名」が入るべき指定節が、焼け焦げたみたいに潰れてる。やっぱり摩耗じゃない。誰かが、故意に焼いてる。この違和感は、いったん呑み込む。今は手術が先だ。
「欠落部、指定節。——補修を開始する」
ペン先に銀朱を含ませ、宙に灯る文字列の、欠けた一節に差し入れる。
契約者の名を入れ直すのが正攻法。でも元の契約者が誰かわからない以上、書ける名前はひとつだけだ。
『契約者は——この身に宿る者、リゼ・フォグレスとする』
守る対象を、宿主自身に。
あんたを化け物にしてた力は、今夜から、あんたの盾だ。
次。変身の条項。『月の出より日の出まで、姿を変えよ』——発動条件「月の出」を、二重線で消す。上書き。
『——契約者の意志により、姿を変えよ』
最後の一画を引き終えた、瞬間。
術式全体が、まばゆく明滅した。
書き換えを検証するみたいに、文字列が三周、高速で全身を駆け巡り——
銀の光が、ほどけた。
毛並みが解けて、光の粒になって、その中から、膝をついた人間のリゼが現れた。
月はまだ、空のど真ん中にあるのに。
「…………戻って、いる」
リゼは自分の両手を見つめた。開いて、閉じて、もう一度開いて。
それから、何かを確かめるみたいに右手を強く握って——その手の甲に、銀の毛並みが一瞬だけ、さざ波みたいに走って、消えた。
「言っとくけど、解呪じゃないです。術式はまだあんたの中にある。ただし主導権はあんたに移した。獣化は『月が出たら強制』じゃなくて、『あんたが望んだときだけ』。それと、守護術式が正しく機能し始めたから、刃と毒への耐性も付いてるはず」
「…………」
「呪いは、消せません。けど——武器には、変えられる」
返事は、なかった。
代わりに、ぽた、と音がした。
石の床に、雫がひとつ。ふたつ。リゼは顔を伏せたまま、両手の拳を膝の上で握りしめて、肩を震わせていた。半年ぶん。声は、最後まで立てなかった。騎士って生き物は、泣き方まで頑固にできてるらしい。
俺は文机を片付けるふりをして、インク壺の蓋を、ことさら時間をかけて閉めた。
◇
「……試しても、いいか」
しばらくして、立ち上がったリゼが言った。
「どうぞ。あんたの体です」
リゼは壁の剣架から訓練用の大剣を取って、広間の中央に立った。目を閉じる。息をひとつ。
右腕が、銀に灯った。
肩から指先まで、銀毛と古代文字が駆け下りて、人の腕の倍はある獣の腕が、大剣の柄を包む。それ以外は人間のまま。完璧な、部分起動。
リゼが剣を振った。
風が来た。遅れて、轟、と音が来た。訓練用の石人形が、台座ごと、壁まで吹っ飛んでいた。
「…………」
「…………」
俺たちはしばらく、壁にめり込んだ石人形を眺めた。
「……すごいなあんた。初回でもう部分起動を」
「すごいのはお前だろう」
リゼは銀の腕を解いて、自分の手のひらを、もう一度見つめた。
「半年間、この力は、私から全部を奪うだけのものだった。それが……」
言葉を探して、結局、騎士はいちばん短いやつを選んだ。
「——命を預ける、と言わせてもらう」
目元だけ、ちょっと赤かったけど。
「この『故障』を根本から直すまで、私の剣はお前の盾だ。ノエル・アルクム」
「堅っ。……あー、よろしく。俺は剣が振れないし、あんたは術式が読めない。ちょうどいい組み合わせだと思います」
差し出された手を握る。剣だこだらけの、びっくりするほど熱い手だった。
ただ——俺はまだ、この人に言えてないことが、二つあった。
ひとつ。
指定節は事故で欠けたんじゃない。焼かれていた。つまり誰かが、この術式を故意に暴走させた。リゼが遺跡で「呪いを拾った」のが偶然じゃないとしたら?
ふたつ。
朗読の最後、術式の末尾に「署名」があった。古代術式の製作者印。それ自体は珍しくない。
問題は、俺がその署名に、見覚えがあったことだ。
王宮の地下書庫、立ち入り禁止の最下層。建国王の遺物と一緒に保管されていた禁書の奥付で——あれと寸分違わぬ署名を、俺は見ている。
千年前の辺境の術式と、王国の建国の禁書に、同じ署名。
……なあ、これ。
この国、いったい何の上に建ってるんだ?
窓の外で、満ちる前の月が、知らん顔で輝いていた。
(第四話へ続く)




