銀化け
追放されて、わかったことがある。
左遷ってのは、距離じゃなくて、馬車の質で実感するものらしい。
王都を出て三日目までは、座面に布が張ってあった。尻の骨に人権があった時代だ。
五日目の乗り継ぎで、布が消えた。人権も消えた。
七日目には屋根が消えた。雨雲が俺を新任領主代行かなにかと勘違いしたのか、熱心に挨拶してきた。
九日目、国境の宿場で、馬車そのものが消えた。
「フォグレス領? 行かない行かない。どの御者も行かないよ」
宿場の親父は、酒場の床に唾を吐いてから、声を落とした。吐いた唾のほうが、俺の辞令より歓迎されている気がする。
「あの土地はな、地面が、喋るんだ」
◇
地面は、喋っていた。
徒歩で領境の丘を越えた俺は、しばらくその場から動けなかった。
枯れ野のあちこちで、地面から立ち上った淡い燐光が、古代文字の帯になって漂っては崩れている。風が吹くたび、光の粉が乾いた草の穂先に絡み、ほどけ、また同じ場所へ戻っていく。
『水を——』
『守れ——』
『繰り返せ、繰り返せ、繰り返せ——』
途切れた術式の断片。千年前の文明が遺した命令たちが、主を失い、文脈を失い、それでも律儀に動き続けている。
読めない人間には、不気味な光の蠢きにしか見えないだろう。教会はこれを「神罰の地」と呼んだ。住民は逃げ、御者は近寄らず、地図は黒く塗られた。
でも俺には、わかる。
これは祟りじゃない。
持ち主が死んだあとも回り続けている、水車だ。
誰かが止めるか直すかしない限り、千年でも回る。それだけのことだ。
……それだけのことを、誰も「読めなかった」せいで、土地ひとつ丸ごと見捨てたのか。この国は。
怒る資格が俺にあるのかは知らない。なにしろ俺は、王都の書庫で七年も埃を吸い、写本の誤字を直し、最後には「地味すぎる」という理由で追い出された男だ。地味で悪かったな。古代文字は、派手に爆発するより、地味に間違えるほうがよほど人を殺すんだぞ。
街道の途中に、崩れた祠があった。
屋根は落ち、祀られていたはずの何かはとっくに持ち去られて、台座だけが残っている。その台座の上で、拳ほどの「灯り石」が、千年間、点滅し続けていた。
近寄って、読む。
『日没とともに灯れ。夜明けとともに消えよ。【破損】とともに灯れ。夜明けとともに——』
条件節が割れて、「日没」と「夜明け」の判定が喧嘩している。それで一晩中、いや千年中、点いたり消えたりを繰り返していたわけだ。旅人の道標になるはずだった石が、化け物の目玉だの鬼火だの呼ばれながら。
俺は膝をついて、ペンを出した。
俺にできるのは、魔法を撃つことじゃない。魔力はない。火花ひとつ出せない。できるのは、読んで、見つけて、一語だけ書き換えることだ。
割れた条件節に一画、橋を架ける。『日没とともに灯れ』——以上。
灯り石は、二、三度ためらうように瞬いて。
それから、ふ、と落ち着いた、蜜色の光で灯った。
たぶん千年ぶりの、正しい仕事だった。
……ばかみたいだけど、しばらくその場を動けなかった。書庫の七年間で、俺の修正に「ありがとう」と言った人間はひとりもいない。でもこの石は、直したそばから、ちゃんと灯って応えてくれる。
「——よし」
うん。やっぱり俺、この土地とやっていける気がする。
怒りに似た何かはどこかに消えて、俺は黒い地図の中心——領都ファルクスへ歩いた。
◇
領都に着いたのは日暮れだった。
驚いたことに、ちゃんと都市だった。城壁があり、市が立ち、夕餉の煙が上がっている。汚染地帯のただ中で、人がしぶとく生活している。ちょっと感動すらした。
城門で辞令を見せると、衛兵が露骨に同情の顔をした。俺の顔ではなく辞令を見て同情するあたり、彼は実に正直な男だった。
「王都から左遷の記録官さんか……あんたも貧乏くじだな。おい、今夜は宿から一歩も出るなよ。鐘が鳴っても、悲鳴が聞こえても、絶対にだ」
「……何が出るんです?」
「『銀化け』だ」
衛兵は声を潜めた。
「もう半年になる。夜な夜な領内をうろつく、銀毛の獣よ。馬より速く、熊より強い。先月は警備の若いのが二人、腕を持っていかれた。——教会様の祈祷も、三度やって三度効かなかった」
「へえ。祈祷が、三度」
「ああ。だからあれは『本物の神罰』なんだとさ」
祈祷が効かないのは、相手が神罰だからじゃなくて、祈祷が元から何にも効かないからなんだけどな。
とは言わずに、俺は宿に入った。初日に衛兵と教会を敵に回すほど、俺の人生は豊かではない。
◇
で、だ。
なんで俺は、着いたその晩に、宿の外にいるんだろうな。
言い訳をさせてもらうと、悲鳴が聞こえたからじゃない。
「文字」が聞こえたからだ。
……我ながら意味のわからない説明だけど、本当なんだから仕方ない。深夜、窓の外の闇の向こうから、術式の駆動音がした。書庫で千回も浴びた、あのインクが滲むみたいな気配。
ただし、桁が違う。
野良の術式断片が囁き声なら、これは大聖堂の鐘だ。完結した、長大な、生きた術式が——動きながら、こっちに近づいてくる。
読みたい。
七年間、写本しか許されなかった俺の中の何かが、理性より先に靴を履いていた。
路地に出て、月明かりの角を曲がって。
それと、目が合った。
銀色の獣がいた。
狼に似て、狼よりずっと大きい。屋根に届きそうな肩。月光を弾く銀毛。低い唸りが石畳を震わせて、俺の膝まで伝わってくる。湿った獣の息に、鉄と土と、どこか薬草めいた匂いが混じっていた。
そして、その毛並みの上を——古代文字が、流れていた。
全身を、完結した術式が生きた川みたいに巡回している。俺は呼吸を忘れて、読んだ。
『——契約者を守れ。外敵より、刃より、毒より、守れ。守れ。【欠落】。守れ。姿を変えよ、月の出より日の出まで。守れ。【欠落】。守——』
「……おい、嘘だろ」
声が出ていた。
これ、呪いじゃない。
守護術式だ。誰かを守るために書かれた、それもとびきり上等な術式が——肝心の「守る対象」の指定をごっそり欠落させたまま、暴走している。
守るべき相手がわからない。
でも「守れ」の命令は生きている。
だから術式は、宿主を獣に変えて、目に映る全部を「外敵」として排除し続けている。
こんなの、祟りでも神罰でもない。
守ろうとして、守り方を忘れただけの、壊れた善意だ。
獣が、跳んだ。
あ、死んだ。
と思った瞬間、体は逃げる方向じゃなく、懐の羽根ペンに動いていた。我ながら職業病だと思う。命より先に誤字を見つける癖、誰か治してくれ。
巨体が俺を組み敷いて、牙が眼前で止まる。生臭い息。石畳に押しつけられた背中。視界の端、獣の鼻面の毛並みを、ちょうど『外敵』の一語が流れていく。
届く。
ペン先を、走らせた。
ヴォルスの頭に一画。
——『ヴェ・オルス』。「外敵」が、「客人」に変わる。
唸りが、止まった。
琥珀色の獣の目が、まじまじと俺を見下ろした。混乱している。当然だ。巡回中の術式の一語を局所的に書き換えただけだから、数秒で元の文字列に上書きされて戻る。応急どころか、気休めだ。
でも、数秒あれば、足りる。
「——聞こえてるか。あんたの中の人」
俺は、組み敷かれたまま、獣の目を見て言った。声が震えていなかったら、そこだけは褒めてほしい。まあ足は盛大に震えていたが、足に発言権はない。
「それは呪いじゃない。壊れた守護術式だ。あんたは化け物になったんじゃない。あんたは今——故障中なだけだ」
獣の目が、見開かれた。
琥珀の奥で、何かが揺れた。
俺の書き換えが呑み込まれて『外敵』に戻る、その寸前——銀の巨体は身を翻し、屋根を蹴って、夜の向こうに消えた。
腰が抜けたのは、それからだった。
石畳に座り込んだまま、自分の右手を見る。羽根ペンを握ったまま、指が、今ごろになって震え始めていた。
……死ぬとこだった。普通に。
祖父ちゃんの声が、頭の奥で蘇る。山小屋の囲炉裏端で、辞書を写させながら、あの人は何度も同じことを言った。
『読めるってことはな、ノエル。直せるってことだ。直せるってことは——見過ごせなくなるってことだ。覚悟して読め』
当時は意味がわからなかった。
今は、ちょっとわかる。じいちゃん、あんたの孫は今夜、読めたせいで化け物の牙の下に自分から潜り込んだよ。
それでも。
あの琥珀色の目が、最後に見せた揺れ。「化け物になったんじゃない」と言われた瞬間の、あれは——人間の目だった。
……あの術式、最後にもう一つ、見えたものがあった。
欠落部の縁が、焦げていた。
摩耗じゃない。経年劣化でもない。あれは——誰かが、故意に焼いた痕だ。
◇
翌朝。領主館に着任の挨拶に行った俺は、謁見の間に通されるなり固まった。
辺境伯ガルド・フォグレス。五十二歳。
体格は熊。声も熊。
黒地図の領地を三十年守ってきた男。
その傍らに、女騎士が立っていた。
長身。背筋は抜き身の剣。
左目の下に古傷。
歳は俺の二つ三つ上。
腰の剣は儀礼用じゃない、使い込まれた実戦のやつ。
そして、その襟元から覗く鎖骨の上を——見覚えのある銀色の文字列が、ちらりと流れて、消えた。
女騎士も、俺を見て石みたいに固まっていた。琥珀色の目を、限界まで見開いて。
ああ、うん。
昨夜ぶりです。
辺境伯が、訝しげに俺たちを見比べた。
「……記録官殿、姪と面識が?」
「い、いえ。初対面、です」
嘘はついていない。人の姿では初対面だ。たぶん。法廷で通るかは知らない。
「そうか。紹介しよう——騎士団長代理、リゼ・フォグレス。儂の姪だ」
リゼは短く会釈した。鎧の金具が、かすかに鳴る。その表情は硬いが、昨夜の獣の目と同じ色が、こちらの言葉を待っているように揺れていた。
辺境伯は太い息を吐いて、苦虫を噛み潰した顔になった。
「着任早々すまんが、記録官殿。あんたに最初に書いてもらう記録は……こいつの、処分調書になる」
「処分?」
「教会の沙汰でな。リゼは半年前、遺跡の調査で呪いを受けた。祈祷は三度、効かなんだ。教義では、三度の祈祷で解けぬ呪いは『神罰』——呪われ者は、次の満月をもって」
辺境伯は、そこで一度、言葉を噛んだ。
「——火刑と、定まっておる」
(第三話へ続く)




