誰も呪文の意味を知らない
魔法とは、意味のわからない言葉に命を預けることである。
……なんて格言を残した賢者はいないけど、いたら千年語り継がれるべきだと思う。だってこの世界の魔術師は、全員、自分が唱えている呪文の意味を知らないんだから。
『イグナ・ヴェル・サラマ』——火球の詠唱。
宮廷魔術師団の皆さまは、これを「そういう音の並び」として丸暗記する。千年前に滅びた古代文明ヴェルバの術式を、意味もわからず音写して、コピーのコピーのそのまたコピーを後生大事に唱えてる。
俺は知ってる。あれは古代語で「火よ、在れ、小さく」って書いてある。
最後の「小さく(サラマ)」を読み飛ばして眉を失った新人を、俺は書庫の窓から今年だけで三人見た。
俺の名前はノエル・アルクム。十九歳。
宮廷魔術師団・地下書庫付き写本係。
職場での渾名は「インク壺」。
由来は簡単で、十二歳の入団試験の日、魔力測定の水晶に手を置いたら、うんともすんとも光らなかったからだ。測定官は水晶を三回叩き、首を傾げ、念のためと言って予備の水晶を持ってきて、それも光らなくて、最後に俺の顔を見てこう言った。
「……君、生きてる?」
魔力量、測定値ゼロ。
建国以来の記録らしい。嬉しくない方の記録。
杖を握っても火花ひとつ出ない俺にあてがわれた仕事が、写本係だった。魔術師サマたちの教本を、地下室で、来る日も来る日も書き写す仕事。給金は厩番より下で、厩番と違って馬には感謝されない。
食堂では「インク壺の隣は嫌だ」と席を立たれる。
廊下では「触るな、魔力が吸われる」と笑われる。
吸えるもんなら吸ってみたいよ。こっちは残量ゼロなんだから。
同期入団のロイクは、去年、史上最年少で三席魔術師になった。
就任の祝賀会で、給仕に駆り出された俺と目が合って、彼はこう言った。
「……誰だっけ?」
七年同じ建物で働いて、これである。
ちなみにロイクの得意呪文は『イグナ・ヴェル・グランデ』——「火よ、在れ、大きく」。彼が「グランデ」の意味を知らずに毎回ちゃんと大きい火を出せてるのは、二年前に俺が教本の誤写を直したからなんだけど、これも誰も知らない。
それでも俺がこの職場を辞めなかった理由は、ひとつだけ。
地下書庫には、古代語の原典が眠っているからだ。
——古代語の読解法は、二百年前に教会が焚書した。「呪いは神罰であり、人がその言葉を覗くことは冒涜である」というのが表向きの理由。読み手の家系は処刑と改宗で根絶やしにされて、公式には、この世界にもう古代語を読める人間はいない。
最後の一人だった祖父ちゃんが、山小屋で俺に全部叩き込んで死んだことは、誰も知らない。
「おいインク壺! 第七儀典の写本、夕方までに仕上がってんだろうな!」
階段の上から降ってきた声に、俺は顔を上げた。
写本室副長グレム。四十二歳。
魔力量は人並み。出世は頭打ち。
部下に強く、上司に弱い。
趣味は俺を怒鳴ること。
「仕上がってますよ、副長。ああそれと、原本の三十二節、『ヴェル』が『ヴァル』に誤写されてたんで直しときました」
「は? 写本係が勝手に文字を変えるな! 原本通りに写せと言われてるだろうが!」
「……はい。すみません」
原本通りに写してたら、第七儀典の浄水呪文は「水よ、在れ」じゃなくて「水よ、爆ぜろ」になってたんだけどな。来月の洗礼式、司祭の手元で聖水が爆ぜるとこだったんだけどな。
言わない。
言ったところで、誰も俺が「読める」なんて信じない。
誤字を黙って直す。事故が起きない。誰も気づかない。誰にも感謝されない。
それが俺の七年間だった。
その日までは。
◇
昼過ぎ、地下書庫の天井から埃が落ちた。
一拍おいて、揺れ。悲鳴。走る足音。
「儀典の間だ! 宝珠が——聖別の宝珠が暴走した!」
階段を三段飛ばしで駆け上がった俺が見たのは、こんな光景だった。
祭壇の上で、拳大の宝珠が白熱してる。
床には魔術師が二人、煙を上げて倒れてる。
司祭が五人、安全な距離から香を焚いて祈ってる。
そして筆頭魔術師オズワルド様は、もっと安全な距離から「祈祷を続けろ!」と喚いてる。
筆頭魔術師オズワルド。六十歳。
白髭は立派。経歴も立派。
魔力量は王国五指——三十年前の測定では。
現在の主な業務は、若手の手柄の検収と納品。
祈りで術式は止まらない。火事に向かって「鎮まりたまえ」と言ってるのと同じだ。でも彼らはそれを知らない。知らないまま、二百年やってきた。
俺の位置からは、宝珠の表面を流れる文字が見えた。読む。
『——光を蓄えよ。月満ちる夜に放て。ただし器の傷なきこと——』
なるほど。整理しよう。
あれは建国祭で使う蓄光式の祭具。一年かけて光を溜め、祭りの夜に放つ。
条件節「器の傷なきこと」の文字列が、長年の摩耗で欠けてる。
欠けた条件は、永遠に「偽」のまま判定され続ける。
つまりあの宝珠は——放出の許可が一生下りないまま、光を無限に溜め続けてる。
器が砕けるまで。
砕けたら、建国祭三回ぶんの光が一度に出る。この広間ごと吹き飛ぶ。
逃げるべきだ。俺の給金に、命を賭ける項目は入ってない。
……ただなあ。
倒れてる魔術師二人、まだ息がある。司祭たちは祈りに夢中で、運び出す気配がない。あの距離だと、宝珠が砕けた瞬間、骨も残らない。
「下がれインク壺! 貴様の来る場所ではない!」
オズワルドの声を無視して、俺は祭壇に歩いた。
懐から羽根ペンと、インク壺——道具のほうの——を出す。熱で頬がひりつく。汗が顎を伝う。手が震えてるのは、たぶん熱のせいじゃない。
欠けた条件節を彫り直す時間はない。なら、もっと手前を書き換える。
放出条件『月満ちる夜』。
「月」に、ペン先で二画。
——「塵」。
『塵満ちる夜に放て』。
儀典の間の床は、掃除嫌いの司祭たちのおかげで、見事に埃が満ちている。
宝珠が、瞬いた。
白熱が引き潮みたいに収まって、一年ぶん溜め込まれた光は、床の埃に向かって、一晩の月明かりほどの淡さで、さらさらと流れて消えた。
静寂。
振り返ると、広間中の魔術師と司祭が、幽霊でも見たような顔で俺を見ていた。
「い……今、何をした」
「埃を払っただけです。焦げ臭かったんで」
「……そ、そうだ! わしの祈祷が天に通じたのだ!」
オズワルドが我に返って胸を張り、司祭たちが追従の拍手をした。倒れた二人がようやく運び出されていく。
はいはい、いつものやつ。手柄はどうぞ。俺は階段に向かった。これでいい。これでいつも通り——
「待て、インク壺」
いつも通りじゃ、なかった。
「貴様、許可なく聖遺物に触れたな。宝珠に、何か……書き込んだな?」
オズワルドの目が、初めて俺を「見て」いた。
手柄を検収する目じゃない。
自分の理解できないことをした人間への——純粋な、恐怖の目だった。
◇
処分は三日で下りた。
『聖遺物への不敬および規定外の干渉により、宮廷魔術師団より除籍。フォグレス辺境伯領駐在の記録官として転出を命ず』
追放だ。誰がどう読んでも。
人を二人助けて、爆発を一回止めて、追放。うちの職場の人事考課、今年も絶好調だな。
荷物は鞄ひとつで足りた。祖父ちゃんの形見の筆記具一式と、着替えが三枚と、こっそり書き溜めた古代語の私家辞書が三冊。七年間の全財産がこれって、我ながらちょっと泣ける。
階段を上がる途中、写本室副長グレムとすれ違った。
いつもの怒鳴り声は、なかった。代わりに副長は、廊下の壁を見たまま、ぼそりと言った。
「……三十二節。あれを直しておかんかったら、来月の洗礼式、どうなっとった」
「さあ。司祭様の祈祷が天に通じたんじゃないですか」
「…………そうか」
それだけだった。それだけだったけど、七年間で一番まともな会話だったと思う。
——なあ副長。俺がいなくなったあと、誤字は誰が直すんだろうな。
写本のコピーは、世代を重ねるたびに劣化する。俺が七年間こっそり堰き止めてきたものが、これからゆっくり、王都の魔法に染み出していく。
ま、追放した連中の知ったことか。
書庫を出る時、後輩の写本係がひとりだけ、見送りに来た。辞令の写しを見て、気の毒そうに言う。
「フォグレスって……地図で黒く塗られてる場所じゃないですか。呪詛汚染地帯のど真ん中。『呪われた土地』ですよ。赴任した役人、生きて戻らないって」
「らしいな」
「なんで、そんな平気な顔してるんですか」
平気な顔、してたのか。俺は。
呪詛汚染地帯。千年前の術式の残骸が、直す者もないまま暴走し続けてる土地。教会が「神罰の地」と名付けて、祈祷だけ捧げて見捨てた場所。
——壊れっぱなしの古代術式が、野ざらしで、そこら中に転がってる土地。
俺は鞄を担ぎ直して、七年間誰にも言わなかった本音を、最初で最後に言葉にしてみた。
「世界でいちばん、直しがいのある場所だと思ってさ」
後輩は、変なものを見る目で俺を見送った。
うん、その反応が正しい。
魔力ゼロの写本係が宮廷を追放された日。
世界でただ一人の「読み手」が、世界でいちばん壊れた土地に向かって歩き出したことを、まだ誰も知らない。
(第二話へ続く)




