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王冠ではなく証人

 右手首に刻まれた文字は、光っているくせに冷たかった。


 焼けるように痛むのに、触れた指先は氷にでも浸したように感覚が薄い。鼻の奥には焦げた鉄に似た匂いがこびりつき、心臓が打つたび、金色の文字も脈に合わせて明滅する。


 王冠というものは、どうやら人を不快にする方法だけは豊富らしい。権威に必要なのは威厳だと思っていたが、痛みと冷気と悪臭でも代用できるらしい。ありがたくない発見だった。


「第一校正者を、次代の王冠として登録する」


 読み上げると、広間の法官たちが一斉に俺から距離を取った。


 衣擦れと靴音が重なり、俺の周囲だけ妙にきれいな円ができる。気持ちはわかる。さっきまで元写本係だった男が、急に次の王冠候補になったのだ。近づけば頭にかぶらされると思ったのかもしれない。


 俺だって俺から離れられるものなら、真っ先にそうしている。


「ノエル、腕を出せ」


 リゼが俺の右腕をつかむ。革手袋越しでも、彼女の手の強さはよくわかった。


「もう出てる。見ればわかるだろ」


「切り落とす必要があるか確かめる」


「確認の方向が勇ましすぎないか?」


「腕一本で済むなら安い」


「俺の腕を値切るな」


 冗談を言っている間にも、文字列は手首から肘へ伸びていた。


 細い金色の線が皮膚の上で枝分かれし、輪の形を作っていく。一本増えるたびに筋肉が勝手に引きつり、指先が小さく跳ねた。装飾ではない。俺という人間の寸法を測り、王冠として使える形へ記述し直している。


 ぞっとするほど事務的だった。


 術式に悪意はない。


 それがかえって始末に悪い。憎まれているなら説得や取引の余地もあるが、帳簿の空欄にこちらの名前を書き込むだけの仕組みに、情けを求めても仕方がない。


 椅子が座る人間の都合を考えないのと同じだ。王冠もまた、次の器が痛がるかどうかなど気にしない。ただ空席を埋める。


「ピピ。読めるか」


「読むのら!」


 ピピが俺の手首へ飛びついた。小さな体を作る文字が、金色の列に触れて震える。紙片を束ねたような体の隙間から、淡い光の粉がこぼれた。


「登録は三つなのら。名前を決める、形を写す、命令を閉じる、のら」


「今は?」


「名前を決めたところなのら。形を写してる途中なのら」


「閉じるまで、どれくらいだ」


 ピピは金文字を追い、俺の肘まで駆け上がった。


「八呼吸くらいなのら」


「短いな」


「ノエルが息を止めたら増えるのら?」


「たぶん俺が死ぬだけだ」


 七呼吸で考えろ。


 写本係だった頃なら、誤字一つを直すにも茶を冷ます程度の時間はもらえた。今は国の根幹を相手に、腕が王冠になるまでの七呼吸である。職場環境としては明確に悪化している。


 削除はできない。登録命令そのものを消すこともできない。


 王冠を箱から出して老王の頭へ戻せば、次代を求める処理は止まるかもしれない。だが、人を食うと判明した道具を、止めるためにまた人へかぶせるのは、火事を消すため油屋を投げ込むようなものだ。


 それに鉄箱の鍵は、まだ勝手に回った位置で固まっている。衛兵二人が引いてもびくともしない。額に青筋を立てた二人には悪いが、箱のほうは彼らの努力を扉の隙間ほども評価していなかった。


 残る手段は一つ。


 読む。


 どれほど腹立たしい命令でも、文章である以上、意味がある。意味があるなら、継ぎ目がある。


 俺は痛みをこらえ、手首の文へ顔を近づけた。視界の端が白くかすみ、金文字だけがやけに鮮明に浮かぶ。


『第一校正者を、次代の王冠として登録する』


 主語は王冠の内側にある継承機構。


 目的語は第一校正者、つまり俺。


 処理は登録。


 登録先は次代の王冠。


 一語だけ変えられる。


『第一』を変えても無駄だ。第二校正者へ向かえば、別の誰かが材料になる。自分が助かるために、顔も知らない誰かへ順番札を渡す気はない。


『次代』を『当代』へ変えれば、俺は今すぐ王冠になる。予定が前倒しされるだけだ。得をするのは、せっかちな棺桶屋くらいである。


『登録』を『拒絶』へ変えたいが、命令の根は登録処理だ。巡回文が戻れば、改めて俺を登録し直す。


 なら、登録させるしかない。


 ただし、王冠ではないものとして。


「リゼ、鍵を貸せ」


 老王が白札の隣へ置いた鍵を、リゼが投げる。俺は左手で受けた。危うく落としかけたが、魔力ゼロの写本係に武器の扱いまで期待しないでほしい。鍵を受け止めただけで本日の武勲に数えたい。


 鍵の先端を、手首の傷へ押し当てる。


 皮膚が裂け、遅れて鋭い痛みが走った。血がついた。


「何を変える」


 リゼが問う。声は低く落ち着いていたが、俺の腕を見つめる瞳には獣の金色が濃く浮かんでいる。彼女も時間がないとわかっていた。


「王冠を、証人へ」


 法官の一人が息を呑んだ。


「証人だと?」


「この術式は、第一校正者をどうしても登録したがっている。なら登録させる。ただし、国をかぶる器ではなく、国の誤りを見届ける者として」


「そんな書き換えが通るのか」


「通らなければ俺が金属製になる。結果はすぐわかる」


「笑えぬぞ」


「俺もです」


 五呼吸目。


 金色の輪が肩へ届いた。


 骨の内側で硬い音がする。かち、かち、と留め金を試すような音だ。歯を食いしばると、顎の骨にまで響いた。人間には不要な音なので、できれば今後一生聞きたくない。


 俺は鍵先で『王冠』の語へ触れた。


 術式は逃げない。


 こちらを材料としか思っていないからだ。


 だから俺も、そいつを文章として扱う。


「人間を、道具の名前で登録するな」


 血で一語を塗り替えた。


『王冠』を『証人』へ。


 書き換えた瞬間、右腕を走っていた金文字が止まった。


 六呼吸目。


 止まった文字が、一斉に手首へ逆流する。


 痛みが跳ね上がり、俺は膝をついた。石床の冷たさが膝から突き上げる。鍵を落としそうになった左手を、リゼが下から支える。


「ノエル!」


「触るな。まだ閉じてない」


 金文字は新しい意味を読み直していた。


 第一校正者を、次代の証人として登録する。


 誰の証人か。


 何を証言するのか。


 足りない意味を、術式は自分の根から探し始める。鉄箱の中で王冠が激しく鳴った。蓋が内側から何度も叩かれ、重い音が広間の柱を震わせる。法官たちがさらに後ずさり、誰かの筆が床へ落ちた。


 七呼吸目。


 空中に、補われた文が現れた。


『第一校正者を、建国術式の継承処理を監査する証人として登録する』


 そして八呼吸目。


 手首の文字が閉じた。


 金色の輪は消え、代わりに細い一行だけが皮膚に残る。


『証人・ノエル・アルクム』


 骨の内側で鳴っていた留め金の音も止まった。


 俺は床に尻をつき、右腕を曲げ伸ばしした。指が五本とも動く。肘も曲がる。肉のままだ。金にも銀にもなっていない。頭へ載せられそうな形にもなっていない。


 当たり前のことが、これほどありがたいとは知らなかった。


「成功、なのら?」


 ピピが俺の指をつつく。


「たぶんな」


「かぶってみるのら」


「何をだ」


「ノエルを」


「成功してなかった場合の確認方法を提案するな」


 ピピはリゼの頭と俺を見比べた。リゼが真顔で俺の襟首をつかみかけたので、俺は慌てて床を這って逃げた。


 命の危機を脱した直後に、騎士の帽子にされかけるとは思わなかった。


「腕を見せろ」


 今度のリゼは剣へ手を伸ばしていなかった。俺は素直に右手を差し出す。


 彼女は手首に残った一行を確かめ、親指でその周囲をそっと押した。鎧と革と、彼女自身の汗の匂いが近づく。いつもの、戦場帰りの相棒の匂いだった。


「痛むか」


「触られると少し」


「そうか」


 すぐに手が離れる。


 短いやり取りだったが、切断候補から負傷者へ昇格したらしい。俺の腕にも社会的地位というものが戻ってきた。


 書き換えた語は、すでに『王冠』へ戻っている。


 だが処理は終わった。


 一度しか設けられていない次代登録欄には、『証人』としての俺が記録されている。王冠へ戻った命令が再び動こうとしても、同じ欄にはもう書き込めない。


 恒久修正ではない。


 命令が一度きり実行される、その瞬間の意味を横から変えただけだ。


 我ながら、正面から勝てない者らしい卑怯な手口である。だが道具にされずに済む卑怯なら、胸を張って採用したい。


 老王が玉座から降り、俺の前に立った。衣の裾が石床を擦る音だけが、静まり返った広間へ長く響いた。


「証人となったか」


「勝手にですが」


「王冠になるよりは不満か」


「磨かれる生活より、読んで怒られる生活のほうが性に合っています」


「ならば証言せよ。あの冠は、王を選ぶものか」


 俺は鉄箱を見る。


「違います」


 広間中に聞こえるよう、はっきり答えた。


「あれは王を選んでいない。建国術式を動かす部品を、王と呼んでいるだけです」


 沈黙が落ちた。


 王冠を戴けば王になるのではない。


 王冠に使われる者を、この国が王と呼び続けてきた。


 何代もの戴冠、誓い、歓声。その中心にあったものが選定ではなく加工だったと知れば、法官たちが青ざめるのも無理はない。俺だって、知らずに済むなら知りたくなかった。


 老王は法官長へ向き直った。


「今の証言を審理記録へ加えよ。王冠自身が登録した監査証人の言葉だ。異議があるなら、まず王冠へ申し立てるがよい」


 法官長は青ざめながら筆を取った。震える穂先が紙を引っかき、ひどく耳障りな音を立てる。


 これで俺を王冠へ変える処理は終わった。


 同時に、王冠は自分を監査する証人を、自分の命令で作ってしまった。


 皮肉としては上出来だ。


 そのとき、広間の外で鐘が鳴った。


 一度。二度。三度。


 時刻を告げる鐘ではない。低く短い音が、王宮の床下から十二回続く。一打ごとに足裏へ振動が伝わり、ようやく緩みかけた胸を再び締めつけた。


 十二度目の余韻が消えても、誰も口を開かなかった。


 老王の顔色が変わった。


「継承鐘だ。余が即位した日以来、鳴っておらぬ」


 扉が開き、伝令の騎士が転がり込んできた。兜はなく、額から血を流している。息を吸うたび喉が鳴り、閉ざされた扉をいくつも叩いてきたらしく、拳の皮まで剥けていた。


「陛下! 王冠不在を検知し、王宮の継承区画が起動! すべての門が閉鎖されました!」


「候補者は」


「王血名簿から一名が選定されました!」


 伝令は広げた金属札を読み上げた。


「第一継承候補――リゼ・フォグレス。戴冠室への収容期限は、夜明けまでです!」


(第66話へ続く)

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