王になる道を、歩かされるな
夜明けまで。
そう聞いた瞬間、広間にいた全員が窓を見た。
まだ空は黒い。ありがたいことに、夜明けというものは法官の審理ほど気まぐれではない。だが、待ってくれるから親切だとも限らない。
床下で、重い歯車が噛み合った。
広間の四方から金色の文字列が浮かび、石床を這ってリゼの足元へ集まってくる。
『第一継承候補を戴冠室へ収容せよ』
ずいぶん礼儀正しい誘拐だった。
「リゼ、踏むな!」
俺が叫ぶより早く、彼女は俺の襟首をつかんで後ろへ放った。
俺は法官の机へ背中から突っ込んだ。紙束が舞い、インク壺が倒れ、法官長が悲鳴を上げる。
「俺を助ける方法に、もう少し写本への敬意を持てないのか!」
「床より柔らかい」
「法官長の審理記録がか?」
「おまえがだ」
比較対象が石床なら、俺もなかなかの高級寝具である。
リゼのいた場所から、金色の鎖が噴き上がった。
彼女は剣を抜き、横薙ぎに払う。刃が鎖を断った。だが砕けた文字は空中でつながり直し、今度は五本に増えて彼女の腕と脚へ巻きついた。
「くっ……!」
鎧が軋む。
リゼの指先から銀の爪が伸びた。獣化の力で鎖を引きちぎるが、そのたび床の文が明滅し、新しい鎖を吐き出す。
「候補者の抵抗を検知。強制搬送へ移行」
伝令が金属札に浮かぶ文を読み、顔を引きつらせた。
「期限まで待つ気がないではないか!」
「役所の期限というのは、こちらが待ってもらえる時間じゃない。向こうが好きに急かしていい時間だ」
俺は机から転がり落ち、床へ手をついた。
文字は読める。
問題は、どこを直すかだ。
『候補者』を『証人』へ変えれば、俺が連れていかれる。冗談ではない。さっき王冠になる危機を退けたばかりだ。次は戴冠室の備品になるなど、俺の職歴は家具職人に見せられないほど散らかっている。
『収容』を『案内』へ変えれば、強制力は消せる。
だが床の文字は巡回文だ。ここで一語を直しても数秒で戻る。しかも命令はすでに実行中。鎖一本を案内役へ変えたところで、残りが熱心に仕事を続けるだけだ。
「ピピ、文の流れはどこへ戻っている!」
ピピが文字を追って飛ぶ。
「柱の下なのら! でも、いっぱい回ってるのら!」
金色の線は床から柱へ、柱から天井へ走っていた。すべてが広間中央の王座を回り、その背後へ潜り込んでいる。
命令の起点は王座の下だ。
そして王座までは、リゼを捕らえる鎖が渦を巻いていた。
「陛下、王座を少し借ります!」
「持っていかぬなら好きにせよ!」
老王の許可は得た。
王座を借りるという言葉が人生で役立つ日が来るとは思わなかったが、写本係は使えそうな文句を覚えておくものだ。
俺は走った。
当然、魔法で身を守ることなどできない。魔力ゼロの俺ができるのは、飛んでくる鎖に当たらないよう祈ることだけだ。教会の祈祷よりは効く自信がある。主にリゼがいるからだ。
「三歩右!」
彼女の声に従って跳ぶ。
鎖が左肩をかすめた。外套が裂ける。
「伏せろ!」
頭を下げる。銀の爪が頭上を通り、迫っていた二本の鎖をまとめて砕いた。
金色の文字片が雨のように降る。
俺はその下をくぐり、王座の肘掛けへ飛びついた。
「次は!」
「上だ!」
「上?」
見上げた瞬間、天井から鎖が落ちてきた。
避けられない。
そう判断するより早く、背中へ強い衝撃が来た。リゼが俺を抱え、王座ごと跳び越える。
鎧越しに伝わる体温と、革と汗の匂い。銀の髪が頬を打った。
俺たちは王座の裏へ転がり込んだ。
「助かった」
「二度目だ」
「数えるな。返済を迫られそうで怖い」
「もう預かっている」
「何を」
「命だ」
そう言って、リゼは俺を立たせた。
冗談にして返すには、彼女の声は静かすぎた。
王座の裏側には、手のひらほどの青銅板が埋め込まれていた。表面を流れる古代語は、床や柱の文より一段細かい。
『継承路に選定された候補者を戴冠室へ収容せよ。抵抗は欠格理由とせず、王血保全を優先する』
「欠格にしてくれるほうが親切なのら」
ピピが俺の肩へ着地した。
「人を部品として見ている術式に、辞退届を期待するな」
読んで、ようやくわかった。
床の文字は命令そのものではない。命令を運ぶ道だ。一本ずつ直しても意味がない。
直すべきは、この青銅板に刻まれた起点の一語。
『収容』を『案内』へ。
意味を変えれば、継承路はリゼを縛れなくなる。
ただし、それは命令の取り消しではない。
戴冠室へ行くよう示すだけになる。期限も候補者の登録も残る。
「リゼ」
俺は青銅板へ指を置いたまま、彼女を見る。
「強制搬送は止められる。だが候補から外すことはできない」
「ならば、鎖が消えたあとで逃げる」
法官長が王座の向こうから声を張った。
「王宮の門はすべて閉鎖されている! 候補者が戴冠室へ到達しなければ、継承区画が何をするか――」
「黙れ」
リゼの一言で、法官長は机の陰へ引っ込んだ。
立派な判断である。俺も時々そこへ隠れたい。
「逃げれば、おそらく次の強制命令が動く」
俺は言った。
「王宮だけで済む保証はない。王血名簿はフォグレス家を選んだ。おまえが消えれば、家の誰かを次候補にする可能性がある」
リゼの眉がわずかに動く。
父親を遺跡で失い、自分もそこで呪いを拾わされた。ようやくガルドの待つ領地へ帰れる道が見えたのに、今度は血筋が鎖になった。
生まれは本人の同意を取らない。
だからこそ、生まれを理由に道まで決められていいはずがない。
「強制は止める。そのあと、どうするかはおまえが決めろ」
「戴冠室へ行けば、王冠にされるかもしれない」
「俺が読んで止める」
「おまえを王冠にしようとした術式だぞ」
「一度負けさせた相手なら、誤字の癖くらいは覚えている」
実際には一度死にかけただけだが、物は言いようだ。
リゼは絡みつく鎖を片腕で押さえながら、青銅板を見た。
「ノエル。私は王になりたいと思ったことはない」
「奇遇だな。俺もおまえを陛下と呼ぶ練習はしていない」
「だが、私の呪いと王冠が同じ術式につながっているなら、逃げたくもない」
銀の爪が金色の鎖へ食い込む。
「案内させろ。私は自分の足で行く」
それは命令への服従ではなかった。
奪われかけた道を、選び直す言葉だった。
「了解、騎士団長代理」
俺は青銅板の文字へ爪を立てた。
魔力はない。
だから術式を新しく動かすことはできない。すでに流れている力へ、別の意味を一語だけ差し込む。
『収容』の古代語をなぞり、最後の一画を折り返す。
閉じ込めるための字が、導くための字へ変わった。
『第一継承候補を戴冠室へ案内せよ』
青銅板が白く光る。
リゼを締め上げていた鎖が一斉にほどけた。
金色の文字は細い光の帯となり、彼女の足元から広間の扉へ続いていく。
「できたのら!」
ピピが光の道へ降り、ぴょんぴょん跳ねた。
「こっちなのら! 案内するのら!」
「おまえは道を知らないだろ」
「光ってるほうなのら」
それは案内ではなく追従だが、本人が楽しそうなので黙っておく。
広間の閉ざされた扉が開いた。
その先でも次の扉が開き、長い回廊の奥へ金色の道が伸びる。もう鎖は出ない。リゼが立ち止まっても、光は急かさず待っている。
強制搬送は止まった。
老王が王座の横へ立ち、俺たちを見た。
「証人も同行するのだな」
「そのために登録されたらしいので」
「余も行こう」
「危険です」
「自分が何に戴冠させられたのか、王が知らぬままでは困る」
確かにその通りだが、老王まで同行すると責任の重さが急に増す。俺の肩は写本とピピを載せるためにできていて、国の真相向けには補強されていない。
リゼが剣を鞘へ収め、光の道へ踏み出した。
今度は、何も彼女を引かなかった。
「行くぞ、ノエル」
「ああ」
俺も隣へ並ぶ。
王宮の地下へ向かう階段を三つ降り、封じられていた鉄扉を七つ通った。夜明け前の冷気が濃くなり、壁の古代文字が一本ずつ灯っていく。
やがて金色の道は、黒い石で造られた巨大な扉の前で止まった。
扉の中央には、人の手形と獣の爪痕が重なるように刻まれている。
リゼが近づくと、彼女の腕に残る獣化の紋様が銀色に燃えた。
扉が内側へ開く。
同時に、戴冠室の奥で千年前の術式が起動した。
『守護獣候補の帰還を確認』
次の一文を読んだ俺は、リゼの腕をつかんで敷居の外へ引き戻した。
『未完了だった獣化処理を、夜明けとともに再開する』
(第67話へ続く)




