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王冠の内側

 王冠の内側に術式の本体がいる。


 その事実を知ってから、俺たちが王の前へ戻るまでにかかった時間は、鐘二つ分だった。


 急いだつもりだ。途中でリゼに右手を止血され、ピピにインクを一本飲み干され、壊した扉を見た衛兵に三度呼び止められたことを考えれば、むしろ表彰されてもいい。


「王宮地下の扉を破壊した者を表彰する国はない」


 血の染みた布をきつく結びながら、リゼが冷静に言った。


「心を読むな」


「顔に書いてある」


 古代語なら読めるが、自分の顔面にまで文章を書く趣味はない。どうやら生まれつきの悪筆らしい。


 正式審理の間では、すでに告発状の読み上げが始まっていた。


 磨かれた石床へ、書記官の声が冷たく反響している。高い天井。左右に並ぶ法官。傍聴席を埋める貴族たち。その視線のすべてが、遅れて飛び込んできた俺たちへ突き刺さった。


 中央の玉座には老王が座り、その頭上で建国王の王冠が鈍い金色を放っている。


 宝石も金細工も、遠目にはただ立派だった。だが正体を知ってから見ると、獲物の頭に食らいついた金色の虫にしか見えない。芸術を見る目がないと言われれば認めよう。俺にあるのは、ろくでもない文字を見つける目だけだ。


 王冠を見た瞬間、俺の襟元でピピが震えた。


「へくちっ、のら」


 小さな文字の粒が二、三個、鼻先からこぼれて襟へ貼りつく。可愛らしいくしゃみだが、意味は可愛くない。汚染術式が近い。


 俺は審理の白札を掲げた。


「証拠を提出します!」


 扉の前へ槍を交差させていた衛兵が、一拍遅れて俺を止めようとした。白札が光ったのを見て、慌てて槍を引く。


 王宮という場所は便利だ。人間の言葉はなかなか聞かないが、板切れの命令には素直に従う。


「ノエル・アルクム」


 老王の声が広間へ落ちた。大声ではない。それでも、書記官の声も貴族たちのざわめきも、一息で消えた。


「そなたには着席を命じたはずだが」


「申し訳ありません。証拠品が席に着いてくれませんでした」


「証拠品とは」


 俺は乾いた唇を舐めた。ここで黙れば、俺の首は少し長持ちするかもしれない。もっとも、その代わりにピピが王冠へ食われる。比較するまでもなかった。


「陛下がお召しの王冠です」


 静まり返った。


 法官の一人が口を半開きにし、書記官の羽根筆が紙の上で止まる。傍聴席のどこかで、誰かが息を呑んだ。


 俺もできれば言いたくなかった。王に向かって頭の物を寄越せと言うのは、写本係の出世術としてはかなり斬新だ。追放の次が斬首になれば、俺の経歴だけで不幸な若者向けの教本が作れる。


「無礼者!」


 案の定、壇下から怒声が飛んだ。


「建国王の王冠を証拠品呼ばわりするか!」


「では凶器と呼びます」


 怒声が二倍になった。言葉の校正に失敗したらしい。


 リゼが俺の半歩前へ出る。その背は真っすぐだったが、呼吸は浅い。獣化は解いていても、焦げた銀毛と血、それに汗の匂いがまだ残っている。右腕の袖は裂けたままで、覗いた肌には黒い糸に焼かれた痕があった。


「地下の回収術式が、この残響を襲った」


 リゼが俺の襟元からピピを摘まみ上げた。


「乱暴なのら」


「我慢しろ」


「団長代理の指は鉄くさいのら」


「あとで洗う」


「石鹸も使うのら」


「要求を増やすな」


 重大な証言の途中で衛生上の苦情を申し立てるあたり、間違いなくいつものピピだった。その声を聞けるだけで、張りつめていた胸がほんの少し緩む。


 俺はピピの背中を法官たちへ向けた。細い文字の列が、煤のように黒く貼りついている。


「回収術式から付着した経路文です。『王冠内、建国原文』とある。術式の命令元は、陛下の王冠です」


 法官たちが身を乗り出した。古代語を読める者はいない。それでも、文字列が王冠へ向かって細く脈打つ様子は見えるらしい。


 老王は黙ってピピの背を見た。


 疑うでも、怒るでもなかった。ただ事実の重さを量るような長い沈黙ののち、両手を上げ、王冠へ触れる。


「ならば外そう」


「陛下、お待ちを!」


 制止を無視し、老王が王冠を持ち上げる。


 上がらなかった。


 金の縁が額へ食い込み、老王の顔が歪む。王冠の内側から濡れた髪のような黒い糸が伸び、白髪へ絡みついていた。細い糸が皮膚の下へ潜ろうと蠢く。


「リゼ!」


「わかっている!」


 銀の爪が閃いた。


 リゼは老王の頭を傷つけないよう、王冠と髪の隙間へ爪を差し込む。黒い糸が爪へ巻きつき、じゅっと嫌な音を立てた。焦げた獣毛の臭いが広がり、近くの法官が顔を背ける。


 リゼは眉一つ動かさない。痛くないはずがないのに、その手は王冠を押し上げたまま微動だにしなかった。


 同時に、ピピの体が王冠へ引かれた。


「のらっ!」


 リゼの左手から小さな体が浮く。ピピを形作る文字が何列もほどけ、王冠へ向かって細長く伸びた。


 俺は反射的にピピを掴んだ。止血した布が裂け、右手からまた血が滲む。傷口が開いた痛みより、指の間からピピが抜けていく感触のほうが恐ろしかった。


「触れさせろ!」


「王冠まで三歩ある!」


「二歩にしてくれ!」


「注文が多い!」


 リゼの蹴りが俺の尻に入った。


 俺は飛んだ。


 十九年生きてきて、王の玉座へ尻から着地する日が来るとは思わなかった。老王の膝をかすめ、肘掛けへ脇腹を打ちつける。息が潰れ、目の前に白い火花が散った。痛い。ものすごく痛い。だが、近い。


 王冠の内縁へ血まみれの指をねじ込んだ。


 冷たい金属へ血が触れた途端、内側に刻まれていた溝が熱を帯びた。黒い文字列が起き上がり、蛇の群れのように視界を走る。


『王権の保持者は、建国原文より離れた繰り返す者を回収し、欠落部へ接続せよ』


 読めた。


 だから腹が立った。


 ピピは欠落を埋める材料ではない。腹を減らし、インクの味に文句を言い、怖ければ震える。調子に乗り、余計なことを言い、たまに俺よりよほど賢い。文字から生まれたからといって、一文の所有物に戻される理由にはならない。


 俺だって魔力がないという一つの欠落だけで、役立たずの欄へ何度も分類されてきた。だから知っている。誰かにとって足りないものがあることと、そいつが何者であるかは、同じ話ではない。


「ピピ、おまえは戻りたいか」


 右手の中で、ピピが俺の指へしがみついた。体の端はすでに細い文章へほどけている。それでも、小さな顔を上げた。


「戻らないのら」


 震えながらも、はっきり答えた。


「ピピはピピなのら。繰り返す文じゃないのら」


「聞いたか、王冠」


 当然、王冠は答えない。


 道具というものは、人を材料にするときだけ妙に無口だ。


 俺は術式を追った。血で浮いた文字が、指先から頭の奥へ焼きついてくる。


 削除はできない。新しい命令も作れない。俺にできるのは、完成した術式の一語を、一時だけ別の語へずらすことだけだ。


 変えられるのは一語。


『回収』を『照合』へ。


 連れ戻す命令を、比べる命令へ。


 似ているから奪うのではなく、本当に同じものか確かめさせる。


 血で一画を書き換えた瞬間、ピピを引いていた力が止まった。


 張りつめた糸が切れたように、ほどけかけた文字が俺の手の中へ戻る。代わりに王冠の内側から二つの文章が浮かび上がった。金色の光を帯び、広間の誰にも見えるほど大きく空中へ並ぶ。


 一つは建国原文に刻まれた古い文。


『命令を繰り返す者』


 もう一つは、ピピを形作る文だった。


『意味を選び、繰り返す者』


 違いは一語。


 だが、その一語は大きい。


 命令された音を返すだけなのか。聞いた言葉の意味を知り、自分で選んで口にするのか。その間には、王宮の壁より分厚い隔たりがある。


 ピピは命令を繰り返すだけの残響ではない。自分で意味を選んでいる。建国原文からこぼれたものを核にしていても、もう同じ文章ではなかった。


「照合結果、不一致」


 俺は玉座の肘掛けにしがみついたまま、法官たちへ向き直った。格好は悪い。だが俺の場合、格好を整えてから発言できる機会のほうが珍しい。


「王冠自身が証明しました。ピピは回収対象ではない。独立した意思を持つ別の存在です」


「のら!」


 ピピが胸を張った。俺の血とインクで全身べたべただったが、本人が威厳を出しているので指摘は控えた。


 空中の二文が光の粒となって消え、黒い糸が緩む。


 リゼが王冠を持ち上げ、老王の頭から引き離した。重い金属音とともに王冠が玉座の脇へ置かれる。


 書き換えは数秒で戻る。内側の文字が再び『回収』へ戻ったが、王冠はもう沈黙していた。


 命令を実行する王権の保持者が、身につけていないからだ。


 老王は額に残った赤い痕にも、乱れた白髪にも構わず、王冠を見下ろした。長年戴いてきた王権の象徴を見る目ではなかった。ようやく見つけた敵を見る目だった。


「封印箱を」


「しかし、陛下。審理において王冠を外すことは――」


「人を食う冠をかぶることが王の証しなら、余は今日だけ平民でよい」


 法官たちは反論できなかった。


 厚い鉄箱が運び込まれ、王冠が中へ納められる。蓋が閉じると、室内を圧迫していた気配がわずかに薄れた。


 老王は自ら鍵を回し、その鍵を審理の白札の隣へ置いた。


「王冠を禁制術式の証拠品として押収する。ノエル・アルクムへの告発審理が終わるまで、何人もこれを着用してはならぬ」


 木槌が鳴った。


 乾いた一打が天井へ響き、俺の胸に詰まっていた息まで揺らした。


 これでピピが再び引きずり込まれることはない。


 俺は玉座から転げ落ちるように床へ降り、ようやく息を吐いた。膝から力が抜けそうになるのを、どうにかごまかす。


「もう大丈夫だ」


「のら」


 ピピが俺の親指へ頬を寄せる。小さな体はまだ震えていた。


「ノエルも、ピピを材料にしなかったのら」


「当たり前だ」


「でもインクは材料にするのら」


「それは返せ」


「もうお腹の中なのら」


 救出直後に債権回収へ失敗した。王冠より俺の財布のほうが先に滅びそうだ。


 リゼが鼻を鳴らした。笑ったのかと思ったが、その表情はすぐ鉄箱へ向けられる。


 そのとき、箱の中から硬い音がした。


 かちり。


 誰も触れていない鍵が、ひとりでに半回転した。


 広間の空気が凍る。


 箱の隙間から一本の金色の文字列が這い出した。細い光は玉座を避け、老王にも向かわない。法官たちも衛兵も無視して、迷いなく俺の右手へ伸びてくる。


「ノエル、離れろ!」


 リゼの声より早く、文字列が俺の右手首へ巻きついた。


 焼ける痛みが骨まで突き抜ける。振り払おうとしても、魔力のない俺の腕では光一筋すら追い払えない。


 皮膚へ、一文が刻まれた。


『第一校正者を、次代の王冠として登録する』


(第65話へ続く)

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