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繰り返す文

 黒い文字へ腕を突っ込むのは、人生で二度とやりたくない経験の上位に入った。


 ちなみに一位は、手枷をつけられたまま王族十二人に囲まれることだ。つい先ほど更新されたばかりなので、順位にはそれなりの信頼性がある。


「ピピ!」


 指先が黒い表面を破った。


 水ではない。泥でもない。冷たいのに粘つき、触れたそばから皮膚の形を忘れさせてくる。意味の潰れた言葉が爪の間や皮膚の隙間へ入り込んでくる。


 読もうとするたび、頭の中で別々の命令が怒鳴り合った。


『回収する』


『統合する』


『個体差分を破棄する』


 目で読むのではない。腕から頭蓋の裏へ直接、意味を釘で打ち込まれているようだった。吐き気が込み上げ、奥歯が軋む。


「ふざけるな」


 俺は肩まで腕を入れた。


 右手首の傷が開き、熱い血が黒い文字へ混じる。もちろん俺の血に特別な力などない。魔力ゼロの男は、血を流しても魔力ゼロだ。ただの痛いインクである。しかも乾けば茶色くなり、保存にも向かない粗悪品だ。


 だが、触れられる。


 術式は遠くから睨んでも直らない。文字へ触れ、読み、一語を書き換える。それだけが俺にできることだ。


「ノ、エル……!」


 奥から小さな声がした。何十もの命令に踏み潰されそうな、かすれた声だった。


「返事をしろ。どこだ!」


「ここなのら! でも、ここがどこかわからないのら!」


「安心しろ。俺もわからない!」


「ぜんぜん安心できないのら!」


 いつもの返事だった。


 それだけで、胸の奥を締めつけていたものが少し緩んだ。状況は最悪でも、ピピはまだピピらしい文句を言える。


 黒い面の向こうには、無数の文章が折り重なっていた。同じ命令を何度も写し、継ぎ、失敗した紙を捨てずに積み上げたような場所だ。文字列が擦れ合うたび、乾いた虫の羽音に似た音がする。


 その中心で、小さな輪郭がほどけかけている。


 ピピの足はすでに文字列へ戻り、胴を作る古代文字も一本ずつ引き抜かれていた。引き抜かれた文字は黒い流れに呑まれ、どれがピピだったのか、たちまち見分けがつかなくなる。


『繰り返す者を回収する』


『署名より分離した残響を初期文へ統合する』


『獲得した個体差分を破棄する』


 個体差分。


 ずいぶん冷たい呼び名だ。


 どうやら、ピピが覚えたことも、食べたインクの好みも、俺の頬へ黒い筋をつける悪癖も、向こうにとっては写し間違いらしい。


「ノエル、手を離すのら!」


「嫌だ」


「石板を持って帰るのら! じいちゃんの証拠がなくなるのら!」


 俺の左腕には祖父の石板が抱えられている。右腕は黒い文字の中だ。確かに姿勢としては最悪だった。証拠と相棒を同時に抱えるには、腕が一本足りない。世の英雄ならここで第三の腕でも生やすのかもしれないが、俺にそんな便利な機能はない。


「おまえを置いて帰って、正式審理で何を証明するんだ」


「ピピは、もともと『繰り返せ』からこぼれただけなのら。戻っても、同じ言葉になるだけなのら」


「ならない」


 俺は即答した。


 写本係は、同じ文章を何百回と写す。


 だが、一文字が置かれる場所で意味は変わる。命令文の中にあれば人を縛り、手紙の中にあれば誰かを励ます。同じ言葉だから同じものだと言うなら、世の写本は全部、最初の一冊だけで足りる。


 そんな理屈を認めれば、俺が祖父から教わった文字も、俺が誰かへ渡した言葉も、すべて中身のない複製になる。


「おまえは灯り石からこぼれた。だが、俺のインクを勝手に舐めたのはおまえだ」


「少しだけなのら」


「瓶半分だ」


「小さな体には、少しなのら」


「ハンナの鍋へ落ちて叱られたのも、リゼの髪で昼寝したのも、怖いくせに俺について地下へ来たのも、おまえが選んだ」


 一つ口にするたび、くだらない光景ばかりが浮かぶ。だが、くだらない記憶ほど、失ってから取り戻せない。


 黒い文字が腕を締め上げる。


 骨の間へ細い針を差し込まれたような痛みが走り、指の感覚が薄れていく。掴んでいるのが文字なのか、空気なのかさえ怪しくなった。


「だから、おまえはもう命令の一部じゃない。ピピだ」


 奥で、ほどけかけた二つの目が瞬いた。


「……ピピなのら」


「ああ。俺の校正を勝手に増やす、迷惑な相棒だ」


「そこは、かわいい相棒と言うところなのら!」


 文句を言えるなら、まだ間に合う。


 俺は黒い文章を追った。


 すべてを直す必要はない。そんな力は最初からない。俺ができるのは、術式の中の一語を別の一語へ置き換えることだけだ。


 探すべきは、ピピをピピではなく、機能として扱っている一語。


『繰り返す者を回収する』


 回収を返却へ変えるか。


 駄目だ。返却先は初期文になる。言葉遣いが丁寧になっただけで、ピピが消える結末は変わらない。


 統合を分離へ変えるか。


 そこまで指が届かない。しかも巡回中の文だ。数秒で元へ戻る。指先の感覚を失った状態で追いかけるには速すぎた。


 なら、対象を変える。


 繰り返す者。


 ピピは確かに、繰り返す言葉から生まれた。だが、今ここで繰り返されているものは、ほかにもある。


 壁一面に増殖している、この命令文そのものだ。


 気づいた瞬間、背後で石扉が砕けた。


「ノエル!」


 石片が床を跳ね、鉄と革、それに雨に濡れた獣毛のような匂いが流れ込む。


 リゼだった。


 黒い術式を見た彼女の瞳が銀に染まり、右腕が獣の爪へ変わる。地下へ入るのを止めていた扉は、どうやら騎士団長代理との話し合いに負けたらしい。扉に同情はするが、今は再建費用まで心配する余裕はない。


「ピピが中だ!」


「見ればわかる。おまえは今、自分まで半分入っているぞ!」


 黒い文字が強く引いた。


 肩が嫌な音を立て、靴底が石床を滑る。あと少しで顔まで呑まれる。


 リゼが俺の腰帯を掴み、反対の爪を石床へ突き立てた。硬い床が割れ、銀の毛並みを黒い文字が這う。焦げた毛の匂いが混じったが、彼女は眉一つ動かさない。


「三秒持たせろ!」


「十秒使え!」


「大盤振る舞いだな!」


「あとで利子をつける!」


 実に騎士らしい励ましだった。返済方法が殴打でないことを祈る。


 俺は祖父の石板を脇へ滑らせた。白い石が床へ当たり、心臓に悪い音を立てる。


 割れなかった。祖父は死んでからも頑丈で助かる。生きていれば石板の扱い方について小一時間ほど説教されたに違いない。


 自由になった左手で、右手首の血をすくった。


 力はいらない。


 必要なのは、意味だ。


 流れてくる文字の中から『者』を捕まえる。人として、意思あるものとして対象を指す一語。


 そこへ指を押しつけた。血が弾かれ、黒い表面へ赤い線を残す。


「おまえたちが回収するのは――ピピじゃない」


 黒い面へ、新しい一語を書き込む。


『繰り返す者を回収する』


 者を、文へ。


『繰り返す文を回収する』


 命令が止まった。


 一瞬だけ、音も痛みも引いた。術式全体が、自分の命令を読み直しているような空白だった。


 次の瞬間、壁一面の黒い文字が自分自身へ食らいついた。


 一行が一行を掴み、一文が次の一文を引きずる。回収の命令を繰り返している文は、すべて自分を回収対象にしていた。


 命令は忠実だった。忠実すぎて、自分だけを例外にすることができなかった。


 黒い腕がほどける。


「今だ、ピピ!」


「のらあああっ!」


 小さな手が俺の指へしがみついた。紙より軽いはずの体が、このときばかりは石板より重く感じられた。


 リゼが腰帯を引く。俺の体が黒い面から抜け、その勢いのまま三人まとめて床を転がった。肩と背中を強く打ち、肺から間抜けな息が漏れる。


 最後に黒い文字が細い悲鳴のような音を立て、棚の奥へ吸い込まれていく。


 書き換えが元へ戻ったときには、命令文そのものが一文字も残っていなかった。


 静寂が落ちた。


 床を転がる小石の音さえ、やけに大きく聞こえる。


「ピピ」


 俺の胸の上で、小さな文字の塊が動いた。


 頭があり、腕が二本、足も二本。少し輪郭が滲んでいるが、見慣れた丸い姿だ。


「お腹が減ったのら……」


「無事だな」


「判断基準が甘すぎないか?」


 リゼが隣で息を切らしていた。獣化した腕には黒い筋が残り、銀の毛が何本か焦げている。普段なら触れるなと言われるところだが、今は怒鳴る息も惜しいらしい。


「助かった。ありがとう」


「礼はピピにインクを飲ませてからにしろ。おまえも血を止めろ」


 俺は上体を起こし、ピピを掌へ載せた。


 ピピは俺の指についた血を見て、舐めようとして顔をしかめる。


「これはまずいインクなのら」


「飲むな。俺まで貧血になる」


 荷物袋からインク瓶を出して蓋を開ける。ピピは両手で瓶の縁へしがみつき、夢中で黒い液を舐め始めた。舌が触れるたび、小さな体を形作る文字が一画ずつ鮮明になっていく。


 頭、胴、短い手足。


 やはりピピだ。同じ文へ戻ることを拒み、自分で腹を減らし、俺の高価なインクを当然のように消費している。


「もう大丈夫だ」


「のら」


 小さな体を撫でたとき、背中に見慣れない一行があるのに気づいた。


 黒い術式から抜ける際、貼りついた断片らしい。ほかの文字より細く、背骨に沿うように並んでいる。


 ピピを横向きにして読む。


『回収経路――王冠内、建国原文』


 安堵で緩みかけていた腹の底が、再び冷えた。


 俺は床に落ちた正式審理の白札を拾い上げた。石の粉を払い、その白い表面を見つめる。


 審理を開く老王は、王冠をかぶる。


 そしてピピを奪った術式の本体は、その王冠の内側にいる。


(第64話へ続く)

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