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王命ではなく証拠

 王宮の誰も知らない階段は、王宮の誰にも掃除されていなかった。


 三段下りたところで蜘蛛の巣を顔にかぶり、七段目で裾を踏み、十二段目で手枷が壁に当たった。威厳ある地下探索というものがあるなら、俺は開始早々に失敗している。


 足元から立つ埃は古い紙と湿った石の匂いがした。天井は頭を下げなければ額を削られそうに低く、壁の隙間から吹く風は、長年閉じ込められていた者の溜息みたいに冷たい。


「ノエル、顔に糸がついてるのら」


「取ってくれ」


「ピピは蜘蛛と交渉中なのら。住居を壊されたと怒ってるのら」


「俺は王宮の壁も壊している。まとめて請求してもらえ」


 襟元から這い出したピピが、インクの匂いを振りまきながら俺の頬をぺたぺた叩く。糸は取れたが、代わりに黒い指跡がついた気がした。


「蜘蛛は納得してないのら」


「王族相手の訴訟は長引くと伝えておけ」


「蜘蛛は待つのが得意なのら」


 俺よりよほど裁判向きだ。


 階段は途中から石ではなく、黒い板を積み重ねた造りへ変わった。一段ごとに古代文字が刻まれている。文字の溝には青白い光が沈み、足を載せるたび、眠りを邪魔されたように鈍く明滅した。


『命令』


『異議』


『証拠』


『審理』


『校正』


 踏む順番まで文章になっている。王宮という場所は、歩くだけでも書類仕事らしい。


 試しに一段飛ばそうとしたら、手枷の鎖が壁に引っかかり、俺はおとなしく『証拠』を踏んだ。手続きに逆らうには、まず自由な両手が必要だと学んだ。


 最下段へ足を置くと、背後で壁が閉じた。


 石と石が噛み合う低い音が腹に響き、階段から差していた細い光が消える。闇になったのは一瞬だけで、床を走った青白い線が部屋の輪郭を浮かび上がらせた。


「帰り道がなくなったのら」


「職場見学から遭難へ昇格したな」


「めでたくないのら」


 前方に、円形の部屋があった。


 壁一面を埋める棚には、薄い石板が何百枚も差し込まれている。どれも同じ灰色なのに、縁の削れ方だけが違う。中央には鎖で床へつながれた机が一つ。その上に、腕を置くためらしい二つの窪みがあった。


 牢より牢らしい。


 しかも、座り心地を気遣う椅子すらない。罪人の腰痛は審理の対象外らしい。


 俺が一歩入った途端、机の表面に文字が浮かんだ。


『第一校正者の拘束を確認』


『異議審査を開始する』


 手枷が机へ引かれた。


「うわっ」


 鎖が生きた蛇のように伸び、俺の両腕を窪みへ固定する。焼けた右手首に鉄が食い込み、思わず息が漏れた。冷たいはずの枷が、傷のところだけ熱を持った。


 ピピが机へ飛び乗った。


「ノエルを食べる机なのら!」


「食べるなら、もう少し肉のある人間を選ぶだろ」


「ノエルは骨が多いのら」


「本人が気にしていることを、机への注意事項にするな」


『拘束命令を照合』


 机から光が立ち上がった。


 空中へ、先ほど老王が告げた三つの罪が現れる。光の文字は整然と並び、こちらの事情など最初から欄外だと言わんばかりだった。


『王宮禁域への侵入』


『王宮建造物の破壊』


『建国術式への無許可接触』


 記録は正確だった。嫌になるほど正確だ。せめて窓を割った枚数くらい値引きしてほしいが、王宮の記録係に情緒は期待できない。


 続いて、その下へ審査文が浮かぶ。


『王命を罪状と照合する』


『王命と一致した場合、拘束を承認する』


「待て」


 俺は身を乗り出した。鎖が鳴り、机の内部で何かがこちらを警戒するように軋んだ。


 罪状を王命と照らし合わせる?


 王が捕らえろと言い、王が挙げた罪だから正しいと判断する。それでは審査ではない。上司が自分で書いた帳簿を自分で褒めるのと同じだ。写本局ではよく見たが、建国術式にまで採用していい慣習ではない。


「一つ、間違っている」


『拘束を承認する』


 机の鎖が締まった。


 右手首の傷が開き、鉄に血がにじむ。錆びた金属の味が舌の奥に広がった。痛みそのものより、指が動かなくなることのほうが怖い。俺には魔力も、鎖を引きちぎる腕力もない。文字へ届く指だけが、唯一の道具だ。


「急ぐのら!」


「分かってる」


 俺は浮かぶ審査文を睨んだ。


 文字列は机から壁へ流れ、棚の石板を巡って、また机へ戻っている。巡回式だ。触れて直しても、数秒で元に戻る。


 しかも両手は机に固定されていた。


 王宮は俺を拘束した。その拘束を審査する部屋も、まず俺を拘束する。手続きへの信頼が順調に育っていく。主に不信という方向へ。


「ピピ。『王命』の文字をこっちへ押せるか」


「重いのら?」


「二文字ぶん重い」


「ピピより大きいのら!」


「お前は食後なら三文字ぶんある」


「成長したのら!」


 ピピは嬉しそうに胸を張り、それから空中の文字へ体当たりした。


 古代文字でできた小さな体が、『王命』の末尾へぶつかる。ぱちりと青い火花が散り、ピピの輪郭から小さな文字が二、三個こぼれた。文字列が揺れ、流れる位置がわずかに下がった。


「痛くないか」


「ちょっと『の』がへこんだのら!」


「後で直す。もう一度だけ頼む」


「瓶いっぱいのインクを忘れないのら!」


 もう一度の体当たりで、『王命』が指一本ぶん近づいた。


 まだ遠い。


 俺は右手首をひねった。手枷が傷へ食い込む。視界の端が白くなり、喉から情けない声が出そうになる。歯を食いしばっても威厳は生まれないが、悲鳴よりは安上がりだった。


 痛みで指先が震えたが、人差し指だけは文字へ届いた。


 触れた瞬間、意味が頭へ流れ込む。


『命じた者の言葉を、罪の根拠とせよ』


 やはりおかしい。


 だが、その文字だけ表面が新しい。磨かれた溝の下に、古く深い線が残っている。誰かが原文を削り、上から『王命』を重ねていた。乱暴な改竄ではない。元の意味を知り、同じ長さへ収めた者の仕事だ。


 俺は爪で煤を掻いた。黒い粉が血へ貼りつく。


 隠れていた原文は、『証拠』だった。


「ピピ、インクを一滴」


「高級品なのら」


「助かったら瓶ごと飲ませる」


「契約成立なのら!」


 ピピが指先へ抱きつく。紙を日に当てたような温もりと一緒に、濃いインクの匂いが鼻へ届いた。温かい一滴が爪の間へ染みた。


 流れる『王命』へ触れ、一語を上書きする。


『王命』ではなく――『証拠』。


 俺にできるのは、それだけだ。


 光が弾けた。


 部屋中の石板が一斉に震え、乾いた音を連ねた。何百人もの書記が、同時に誤字を見つけて舌打ちしたような音だった。


『証拠を罪状と照合する』


『王宮禁域への侵入――証拠なし』


『下部校正室による第一校正者の招請を確認』


「呼んだ側だったのら」


「招待状を床下に隠すのは感心しないけどな」


『建国術式への無許可接触――証拠なし』


『第一校正者権限による緊急校正を確認』


『王宮建造物の破壊――証拠あり』


「そこは見逃さないのら?」


「文章は正直だ。人間よりだいぶ容赦がない」


『損壊行為は王族十二名および参列者の保護に必要であったと認定』


『賠償額を王室危機管理費へ計上する』


「窓の勘定が王様に行ったのら!」


「蜘蛛の分も載せておこう」


 審査文が最後まで流れた直後、手枷が音を立てて外れた。


 自由になった腕を引き寄せる。右手首には赤い輪ができ、血と錆の匂いが鼻についた。指を一本ずつ曲げる。痛むが、動く。俺の全財産に近い五本が無事で、ようやく息を吐いた。


 机の中央が開き、細長い白石の札が押し出される。


『拘束不承認』


『第一校正者は正式審理への出席を命じる』


 釈放されたと思ったら、次の出頭命令を渡された。役所というものは、千年前から出口の隣に受付を置くらしい。


「これで帰れるのら?」


「ああ。脱獄ではなく、正式に戻れる」


「牢屋へ戻るのら?」


「言い方を選んでくれ。俺の気力が減る」


 札を取ると、壁の棚から一枚の石板が滑り落ちた。


 割れないよう両手で受け止める。石板は見た目より軽く、ひどく冷たかった。表面には、見覚えのある筆跡が刻まれていた。


 少し右へ傾く長音。文字の終わりを深く刻む癖。


 祖父の字だった。


『校正申請。王名欠落時の代替筆を拒否するため、空白の栓を登録する』


 その下に、俺の名がある。


 胸の奥が冷えた。今度の冷たさは、地下の空気のせいではなかった。


 祖父が俺を王名保管庫へ登録した記録だ。


 だが、保管庫で見た文とは違う。あちらでは俺の用途が『欠落時の代替筆』へ書き換えられていた。元は『代替を拒む栓』だった。


 さらに小さな追記がある。


『登録者ノエル・アルクムは魔力を持たない。ゆえに筆として使用できず、栓としてのみ機能する』


「じいさん……」


 祖父は俺を差し出したのではなかった。


 王家が誰かの名を代わりの筆にする道を、魔力ゼロの俺で塞いだのだ。何も持たないことを散々笑われてきた俺が、持たないからこそ栓になれた。


 本人へ説明くらいしてほしかったが、祖父は昔から大事な話ほど書庫の奥へしまう男だった。家族への伝言まで禁書扱いにする必要はない。


 それでも、喉の奥に引っかかっていたものが、少しだけほどけた。


「ノエル、泣くのら?」


「埃だ」


「地下は埃が多いのら」


「便利だろ」


 ピピが俺の頬を撫でた。今度は黒い筋がついても構わなかった。


 石板を抱え、出口へ向かう。


 正式審理にこれを持ち込めば、老王の命令だけで罪が決まることはない。祖父の原文も、俺の名が何のために登録されたかも示せる。


 逃げる理由はなくなった。


「戻るぞ。今度こそ順序を守って、王様に嫌味を言う」


「正式な嫌味なのら!」


「議事録に残るよう、丁寧に言わないとな」


 背後で、紙を裂く音がした。


 石しかない部屋で聞こえるはずのない音だった。乾いていて、それなのに耳の奥へ粘りつく。


 振り返ると、祖父の石板が入っていた棚から黒い文字があふれていた。さっきまで整然と眠っていた文字とは違う。線は潰れ、意味同士が絡まり、古い油のような臭いを放っている。文字は床を這い、細長い腕の形へ集まっていく。


 ピピが大きくくしゃみをした。


「汚い術式なのら!」


 黒い腕が跳ね上がり、ピピの胴を掴んだ。


「のらっ!?」


 俺は反射的に手を伸ばす。右手首が悲鳴を上げた。構わず指を伸ばす。小さな手がこちらへ伸び、インクの匂いが一瞬だけ強くなる。


 指先が届く直前、壁一面に同じ一文が刻まれた。


『繰り返す者を回収する』


 次の瞬間、ピピの小さな体が黒い文字の中へ引きずり込まれた。


(第63話へ続く)

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