告発不成立
槍を二十本も向けられると、人は案外冷静になる。
一本なら避けられるかもしれない。二本ならリゼが叩き落としてくれる。三本を越えた辺りから俺の運動能力では計算する意味がなくなり、二十本ともなると、考えるだけ無駄だ。
諦めには、人の心を穏やかにする効能があるらしい。少なくとも、穂先の磨き方に警備兵ごとの性格が出るな、と観察できる程度には。
「リゼ、爪を引っ込めろ」
「断る」
俺の前へ出た彼女の両腕には、銀灰色の毛が広がっていた。指先から伸びた爪が石床を掻き、甲高い音を立てる。尖った耳は兜の列へ向き、尻尾は外套の下で張り詰めていた。
革鎧の油と汗、それに獣化した毛の熱い匂いが鼻へ届く。焼けた俺の右手より、よほど危険な状態だった。
「この人数を相手にしたら、王宮の床掃除が大変になる」
「心配するのはそこか」
「俺たちは床を汚しに来たんじゃない。十二人を助けに来たんだ」
老王の背後には、助けたばかりの十二人がいた。
寝間着姿の老人。片方の靴をなくした婦人。絨毯に包まれたままの太った男。そして椅子を抱えた少年。石兵に運ばれたせいで髪も服も乱れているが、誰も死んでいない。誰も王体へ押し込まれていない。
婦人は震える手で老人の袖を握っていた。少年は椅子の背に顎を載せ、槍の壁を睨んでいる。恐怖が消えたわけではない。ただ、自分たちを処分しようとした場所へ戻された人間には、怯えるだけでは足りない感情がある。
その事実を血で汚すのは、あまりに校正の趣味が悪い。
俺は両手を上げた。右手は赤黒く腫れ、皮膚の下へ別の心臓でも埋められたように脈打っている。肩より上げるだけで、指先から肘まで痛みが走った。
「抵抗しません。ただし、罪状は正確に書いてください。写本係は誤字にうるさいので」
「黙れ!」
老王が怒鳴った。声が石造りの広間を往復し、天井の装飾から細かな塵が落ちる。
額にまだ絨毯の糸が一本残っていたが、指摘できる空気ではない。王の威厳を守るため、俺は珍しく親切をした。
「貴様は建国術式を勝手に動かし、王族を石の兵に襲わせた!」
「運ばせました」
「壁を壊した!」
「扉が閉まっていたので」
「王冠塔の窓もだ!」
「人命より硝子が大事なら、次から窓に王冠を被せておいてください」
槍先が一斉に近づいた。金属同士が触れ、乾いた音が重なる。喉元、胸、腹。警備兵たちは急所の選択肢まで豊富に用意してくれた。王宮の接客は行き届いている。
どうやら親切の使い方を間違えたらしい。
「ノエル」
リゼの低い声がした。
「少し黙れ。守りにくい」
「はい」
俺は素直に口を閉じた。弱い者には誠実でいたい。今この場で一番立場が弱いのは、間違いなく俺だった。
警備隊長が進み出て、黒い金属板を掲げた。表面に王宮司法局の紋章があり、その下で青白い文字列が水面の魚のように巡っている。
見覚えがあった。
王命告発板。
罪状を術式へ記録し、王宮内の警備機構へ共有する道具だ。俺が写本局にいた頃、オズワルドが部下を脅すため机へ置いていた。もっとも、彼は起動方法を知らなかったので、豪華な紙押さしとしてしか役に立っていなかった。権威というものは、使い方が分からなくても机の上へ置くだけで多少は効くらしい。
『被告、ノエル・アルクム』
『罪状、王族十二名への襲撃』
『照合対象、告発に用いられた呼称』
最後の一文を見て、俺は眉をひそめた。
「その板、壊れています」
「罪を逃れるつもりか!」
「逆です。正しい罪なら逃れません。ただ、その術式は行為ではなく、呼び方を照合している」
俺が十二人の移動を『襲撃』と呼べば、板は襲撃だったと認める。『救助』と呼べば、救助だったと認める。
事実を確かめる道具のはずが、先に書かれた結論へ頭を下げるだけになっている。これでは裁きではなく復唱だ。
つまり今の告発板は、声の大きい者を常に正しいことにする道具だ。
王宮らしいと言えば王宮らしい。
「詭弁だ」
「なら、実際の履歴と照合させましょう」
俺は板を指した。右の人差し指をわずかに動かしただけで、焼けた皮膚が引きつる。
「触れさせてください。一語だけ直します」
「許すと思うか」
「陛下」
声を上げたのは、椅子を抱えた少年だった。
年は十三か十四ほどだろう。寝間着の膝が破れ、裸足は埃で灰色になっている。それでも椅子だけは頑として手放していない。脚の一本に金の飾りがあるわけでもない、ごく普通の木椅子だ。命を奪われかけた直後には、そんな物でも自分で選んで持てることが大切なのかもしれない。
「その者が嘘をついたなら、板が証明するのでしょう。触らせればよいではありませんか」
「子供は口を挟むな」
「私は先ほどまで、王家の一員だから死ねと言われていました。今だけ子供扱いされるのは納得できません」
老王の顔が引きつった。
俺は少年に少しだけ同情した。大人の都合によって部品と子供を使い分けられるのは、腹が立つものだ。しかも使い分ける側は、それを矛盾とすら思っていない。
十二人の間からも声が上がる。
「私も照合を望みます」
「命を救われたのは事実だ」
「少なくとも、石兵は我らを傷つけなかった」
寝間着姿の老人の声はかすれていた。それでも広間は静かになった。槍を持つ者が二十人いても、死ぬはずだった者の証言は案外重い。
老王は黙り込んだ。
助けた十二人全員を、その場で黙らせるわけにはいかない。王とは便利な地位だが、目撃者が多すぎると多少は不便になるらしい。
「……やらせろ」
警備隊長が告発板を差し出した。疑わしげな目は変わらないが、腕には力が入り、板の縁がわずかに軋んでいる。結果によっては、そのまま俺の頭を殴るつもりかもしれない。司法局の道具には、そういう使い方もあるのだろう。
リゼが俺の右腕を支える。掌から伝わる体温が熱い。獣化の名残で硬くなった爪が、傷へ触れないよう慎重に添えられていた。
「左手を使え」
「古代文字は右でなぞる癖がついてる」
「その癖で指を失ったら、残った指に覚え直させるぞ」
「治療前から怖いことを言うな」
板の文字は絶えず巡回している。書き換えても数秒で戻るだろう。固定された碑文と違い、動く術式は文字を掴むだけでも難しい。
それで十分だった。
俺は腫れた指先を、青白い『呼称』へ押し当てた。
痛い。
熱した針を爪の下へ差し込まれたような痛みで、視界の端が白くなる。だが、俺には魔法で板を従わせることも、力ずくで槍を折ることもできない。読んで、一語を直す。それだけが俺の仕事だ。
国を救う仕事は、どうして毎回、労働者の指に厳しいのだろう。
露出した古代語の形を読み、巡る文字の一瞬の継ぎ目へ指を滑らせる。
『呼称』を――『履歴』へ。
青い光が板いっぱいに弾けた。
警備兵たちが息を呑み、リゼの腕が俺を支える力を強める。焦げた金属の匂いが広がり、板の上で文字が激しく組み替わった。
『告発内容を実行履歴と照合』
『建国術式、王血不一致を検出』
『対象十二名の排除処理を自動開始』
最初に映し出されたのは、俺が下部校正室へ入る前の記録だった。
誰も声を上げなかった。十二人の顔から血の気が引き、老王の唇が固く結ばれる。板は誰にも遠慮せず、王家が王家を処分しようとした記録を広間へ晒した。
続いて、赤い文字が浮かぶ。
『第一校正者ノエル・アルクム、実行命令へ接触』
『一語修正――排除から退避へ』
『対象十二名、生命活動正常』
『襲撃行為――該当なし』
最後の一文が光った瞬間、告発板から王宮司法局の紋章が消えた。青白い線に削り取られるように薄れ、黒い地金だけが残る。
『告発不成立』
槍先が下がった。
床へ石突きが触れ、重い音が順番に響く。張り詰めていた空気がほどけ、椅子を抱えた少年が大きく息を吐いた。十二人の何人かは俺へ頭を下げた。絨毯に包まれた男は、身動きが取れないまま器用に腰を折ろうとして、そのまま横へ転がった。隣の婦人が慌てて押し戻す。
笑う場面ではない。それでも少年の口元が少し緩んだので、たぶん悪い転がり方ではなかった。
リゼの爪が縮み、毛に覆われていた腕が少しずつ人の形へ戻る。呼吸はまだ荒く、汗の匂いに革と鉄の匂いが混じっていた。
「勝ったな」
「いや」
俺は老王を見た。
王族襲撃の罪は消えた。だが、王宮の壁と窓を壊した事実は消えない。許可なく地下へ入り、建国術式へ触れたことも事実だ。
何より、老王の怒りは一文字も修正されていなかった。
「王宮禁域への侵入、建造物の破壊、建国術式への無許可接触」
老王は一つずつ数えた。声は先ほどより静かだったが、その分だけ冷えていた。
「その三件で拘束せよ」
「そちらは認めます」
「ノエル!」
リゼが俺の肩を掴む。戻りかけていた爪が、またわずかに伸びた。
「ここで拒めば、さっきの記録まで力で潰される。正式な場へ引っ張り出したほうがいい」
「一人で行くつもりか」
「ピピもいる」
「いるのら」
俺の襟元から、インクの匂いをまとった小さな文字の頭が出た。丸い目だけを覗かせ、槍が下がったことを左右へ首を振って確かめている。
「隠れていたのか」
「槍は痛そうなのら。ピピは薄いから、穴が開くと読みにくくなるのら」
賢明である。俺も入れる襟があれば隠れたかった。
リゼはしばらく俺を睨み、それから手を離した。
「夜明けまでだ。それまでに戻らなければ、迎えに行く」
「なるべく扉から入ってくれ」
「努力する」
また怖い返事だった。彼女の努力は、たいてい扉の耐久力と両立しない。
手枷をはめられ、俺は警備兵に連行された。冷たい鉄が焼けた右手首へ食い込み、歩くたびに痛む。抗議したかったが、壁と窓を壊した者に王宮設備の扱いを説く資格があるかは微妙だった。
連れて行かれたのは地下牢ではない。王宮西端の、使われなくなった古い写本塔だった。
廊下には湿った紙と防虫香の匂いが染みつき、壁の燭台は三つに一つしか火が入っていない。かつて写本係が歩いた場所も、使われなくなれば囚人置き場になる。書き損じた紙と同じ扱いで、親近感が湧いた。
魔力を持つ囚人向けの封印房らしいが、俺には封じられる魔力が最初からない。空の財布へ鍵を掛けるようなものだ。しかも財布そのものは手枷付きである。
鉄扉が閉まり、錠の落ちる音がした。警備兵の足音が石廊下の向こうへ遠ざかる。
房内には寝台も窓もなく、あるのは石壁と埃、それから長年放置された紙の乾いた臭いだけだった。
「さて」
「脱獄するのら?」
「まさか。正式な取り調べを待つ」
「ノエルが素直なのら。熱があるのら?」
「俺はいつでも権力に従順だ。権力の文章に誤字がなければ」
そう答えながら、俺は壁際へしゃがんだ。
入ったときから、床下で文字の擦れる音がしていた。
鼠が爪を立てる音とは違う。乾いた紙片を何枚も重ね、見えない指で一枚ずつめくる音だ。写本係を長くやっていると、紙の音だけは嫌でも聞き分けられる。役に立つ場面は少ない。普通は床の下から原稿が呼びかけてきたりしないからだ。
石床の隅に積もった埃を袖で拭う。灰色の筋の下から現れたのは、小さな古代文字だった。
『第一校正者を確認』
『未完了の校正室を開く』
低い振動が足裏を這った。
石壁が左右へ割れ、下へ続く狭い階段が現れた。継ぎ目などなかったはずの壁が、厚い本の頁のように滑っていく。
奥から吹き上がった風は、古い紙と乾いたインクの匂いを運んできた。俺の知る写本局の匂いより古く、暗く、それでも妙に整っている。長い間、誰かに読まれるのを待っていた書庫の息だった。
夜明けまで待つつもりだった。
正式な取り調べを受け、正式に嫌味を言い、できれば正式に釈放される。たまには順序を守る人生も悪くない。
だが、写本係に未完了の原稿を見せるほうが悪い。
「ピピ、行くぞ」
「牢屋の外なのら!」
「これは脱獄じゃない。職場見学だ」
「手枷をつけた職場見学は、だいぶ怪しいのら」
「王宮の仕事は昔からこうだ」
俺は手枷をつけたまま、王宮の誰も知らない階段へ足を踏み入れた。
(第62話へ続く)




