六百秒の校正
六百秒あれば、人は何ができるだろう。
お茶を淹れる。書類を三枚写す。嫌味な上司を心の中で七回ほど埋葬する。
王宮にいる十二人を救うには、かなり短い。
『排除完了まで、五百八十一秒』
「減るのが早すぎないか!」
「一秒ずつ正確に減っているだけだ!」
階段を駆け上がる俺の背を、リゼの冷静な指摘が刺した。正論はいつだって足より速い。
濡れた石段を蹴るたび、靴底が嫌な音を立てる。肺はすでに焼けた布みたいに縮み、喉には錆びた針金でも詰め込まれた気分だった。
彼女は父親を肩で支えている。それでも俺より速かった。魔力ゼロの写本係と、成人男性一人を担いだ女騎士が競争した場合、写本係の尊厳が先に息切れするらしい。
「俺は置いていけ。娘に二度も担がれる父親にはなりたくない」
「十五年ぶんです。我慢してください」
リゼの父は苦笑し、娘の肩へ回した腕から力を抜いた。
軽口を交わせるほどには人へ戻った。それが嬉しいのだろう。リゼは振り返らなかったが、獣化した耳だけが父親の声へ向いていた。
その耳が不意に震える。石壁の向こうを走る重い音を拾ったのだ。毛並みからは汗と鉄、それに地下の埃が混ざった匂いがした。
「上で何かが動いている。複数だ」
「建国防衛規定の実行体だろう。王宮の警備兵が国に勝てるとは思えない」
「お前は勝てるのか」
「俺にできるのは誤字を一つ増やすことだけだ」
「十分だ」
即答されると困る。
信頼は立派なものだが、受け取る側に相応の中身があるとは限らない。俺の場合、魔力袋は空で、胃袋には朝食の名残しかない。ついでに脚力も残り少なかった。
「ノエル、赤い文字が壁の中を走っているのら!」
ピピが俺の襟から身を乗り出した。さっき作った文字一本ぶんの鼻をひくつかせ、右の壁を指す。
石の継ぎ目を、細い赤光が上へ這っている。脈打つたびに周囲の石が淡く透け、古代文字の影が血管のように浮かんだ。
命令文だ。
下部校正室から送り出された『十二名を排除せよ』が、王宮各所の実行体へ伝達されている。
俺は走りながら文字を追った。
『対象を捕捉』
『退路を封鎖』
『王統不一致を確認後、排除』
嫌になるほどよくできている。俺が王宮で働いていた頃の業務命令より簡潔だ。少なくとも「なるべく速やかに善処せよ」などという、責任だけ部下へ投げる便利な文言はない。
「止められるか?」
リゼが問う。
「下の起動文を書き換えても、もう命令は出た後だ。しかも巡回文だから、数秒で戻る」
「では十二人のところへ行く」
「王宮は広い。十人目を助ける頃には、残り二人が丁寧に排除されている」
言葉を選んだつもりだが、選び方を間違えた。父親を抱えるリゼの腕に力がこもる。
血を奪われ、名を部品にされ、今度は血がないから殺される。
そんなものを正しさとは呼ばない。
古い王の血も、今の王族の血も、床へこぼれれば同じ色だ。血統をありがたがる者ほど、自分で床を拭いた経験がないのだろう。
階段の先で石扉が閉じ始めた。
『非血統者侵入経路、封鎖』
「俺のことか」
「おそらくな」
「国にまで部外者扱いされたぞ」
「慣れているだろう」
「慰める気がないなら黙っていてくれ!」
残った隙間は、人一人が横向きで通れるほど。石扉が下りる風圧で埃が舞い、舌の上がざらついた。
リゼは父親を俺へ押しつけた。
「支えろ」
「俺の腕力に相談してから――」
返事を待たず、彼女は扉の下へ滑り込んだ。両手を石扉の縁へかけ、獣化した腕で押し上げる。
石が軋んだ。
リゼの喉から、人のものではない低い唸りが漏れる。銀の爪が石を削り、焦げたような獣毛の匂いが狭い階段へ満ちた。肩の筋肉が外套の下で盛り上がり、扉が指一本ぶんだけ押し戻される。
「今だ!」
俺はリゼの父の腕を肩へ回し、隙間を抜けた。見た目より重い。いや、俺が見た目どおり非力なだけかもしれない。ピピも続く。最後にリゼが身を転がし、石扉が背後で噛み合った。
轟音が腹の底まで響いた。
『排除完了まで、四百二秒』
「四分近く、扉一枚に使ったのら」
「計算するな。心が折れる」
通路の先は三方に分かれていた。赤い命令文も三つに枝分かれしている。
右は王族居住棟。左は謁見の間。正面は王冠保管塔。
十二人が三か所に分かれているのだ。
右から轟音が響いた。壁の向こうで金属がぶつかり、誰かの悲鳴が上がる。短い悲鳴だった。それが途切れた理由を考えないようにしても、頭は親切に最悪の答えを用意してくれる。
間に合わない。
俺は床へ膝をつき、枝分かれする直前の文へ触れた。指先に赤い熱が食いつく。
『王統不一致を確認後、排除』
「ここを書き換えるのら?」
「いや。ここは確認文だ。変えれば不一致の判定そのものが壊れる」
「壊したほうが早い」
リゼが剣を抜く。
「国全体の血統照合が壊れれば、次に誰が何へ判定されるかわからない。君の父親がまた王体へ戻される可能性もある」
剣先が止まった。
リゼの父も何も言わない。けれど、石床へついた手の指がわずかに震えていた。十五年という時間は、肉体が戻ったくらいでは消えてくれない。
命令の意味を追う。
対象は十二人。経路は三つ。実行体も別々だ。だが目的語と動詞だけは、枝分かれの前に一度まとめて宣言されている。
『排除対象を王宮占有域より移送せよ』
殺せ、とは書いていない。
排除という語が、後段の規定で『生命活動を停止させ、王宮外へ搬出する』と定義されている。
古代人は一語へ詰め込む意味が多すぎる。写本係の給金と比べれば、文字一つの働きぶりは実に立派だ。
ならば直す場所は一つだ。
「殺す命令を止めるのではない」
俺はインク壺へ指を入れた。冷たいインクが爪の隙間へ染みる。直後に触れる熱を思えば、ささやかすぎる慰めだった。
「国には、十二人を運んでもらう」
「どこへ?」
「王宮の外だ。なるべく日当たりのいい場所へな」
赤い文字へ指を押し当てる。
熱が皮膚を焼いた。命令文はもう走っている。一度書き換えても数秒で元へ戻る。
だが実行体が意味を読み取る瞬間だけ変わっていればいい。
俺は『排除』の一語をなぞった。
消せない。
新しく命令する魔力もない。
だから、そこにある意味を一語だけずらす。
『排除』を――『退避』へ。
赤光が爆ぜた。
視界が白く染まり、鼻の奥へ焦げ臭さが突き刺さる。それでも指先は線を外さない。一画でも乱せば、十二人の命が俺の悪筆と心中する。
『退避対象を王宮占有域より移送せよ』
『退避先、東方前庭』
『生命保護規定を適用』
三本の命令文が、青へ変わった。
「通ったのら!」
「まだだ」
書き換えた文字の端から、赤が滲み始めている。
元へ戻る。
実行体が命令を読み込むまで保たせなければならない。
俺は指を離さなかった。
焼ける痛みが爪の奥へ入り込む。脈を打つたび、指の骨まで火箸で挟まれる。魔法を撃てる者なら、こんな面倒な真似はしないのだろう。遠くから光でも炎でも好きに飛ばせばいい。
俺が飛ばせるのは、せいぜい職場での立場くらいだった。
『第一実行体、命令受理』
一つ。
『第二実行体、命令受理』
二つ。
赤い亀裂が『退避』の中央まで戻る。
右手の感覚が消えた。痛みが消えたのではない。痛みを伝える部分まで焼けたのだと気づくと、むしろ背筋が冷えた。
肩を引かれそうになり、俺は叫ぶ。
「離すな、じゃない! 俺を離すな!」
リゼの腕が腰へ回った。
「順番を整理して話せ!」
「熱くて頭が働くか!」
「普段から大差ない!」
ひどい評価だが、支える腕は震えなかった。獣毛越しに伝わる体温と、革鎧の硬さが、床へ引きずり込まれそうな俺をつなぎ止める。
その向こうで、父親が俺の肩を掴む。十五年も国に囚われていた手だった。
「あと一つだ、校正者」
「元王体に急かされる仕事は、賃金を上乗せしてほしいですね」
『第三実行体――』
文字が明滅する。
一瞬、表示が途切れた。心臓まで一緒に止まった気がした。
『命令受理』
俺は指を引き抜いた。
直後、『退避』は赤い『排除』へ戻った。だが、もう遅い。三つの実行体は、書き換えられた意味を抱えて走り出している。
王宮中に、鐘ではない重い音が響いた。
壁面に十二の光点が浮かぶ。
一つ、二つ、三つ。
王族居住棟から人影が運び出される。石の巨兵に抱えられた寝間着姿の老人。絨毯ごと巻かれた太った男。椅子を掴んで抵抗する少年までいる。
巨兵は命令に忠実だった。椅子ごと運ばれる少年は忠実ではなかったが、そこは人間なので仕方がない。
謁見の間から四人。
王冠保管塔から三人。
巨兵たちは彼らを傷つけず、窓と扉を最短距離で突破して東方前庭へ運んでいく。遠くで硝子の砕ける音と、警備兵たちの怒号が連続した。王宮の壁には多少傷がついたが、人命より漆喰を惜しむほど俺は忠臣ではない。
十二個の光点が、すべて青へ変わった。
『退避完了』
『対象十二名、生命活動正常』
その文を二度読み、三度目でようやく息を吐いた。
俺は床へ仰向けに倒れた。冷たい石が背中に気持ちよかった。王宮の床へ感謝する日が来るとは思わなかったが、人生には不本意な和解もある。
「助かった……のら?」
「ああ。十二人とも生きている」
血がないから殺される者は、いなくなった。
リゼが俺の右手を取る。指先は赤く腫れ、インクと焼けた皮膚の匂いがした。彼女の鼻先がわずかに歪む。獣化で嗅覚が鋭いぶん、俺よりつらそうなのは少し申し訳ない。
「無茶をしたな」
「君に言われると、無茶の基準がわからなくなる」
「戻ったら治療する」
「優しく頼む」
「努力する」
怖い返事だった。
それでも、一件は片づいた。
王家の血があろうとなかろうと、人は術式の材料ではない。国の都合で殺されてもいい部品でもない。
その程度の当たり前を守るために、俺たちはずいぶん深い地下まで来てしまった。
リゼの父は青く光る十二の点を見つめていた。表情には安堵も恨みもあった。自分を十五年使い潰した者たちが助かったのだ。簡単な顔ができるはずもない。
「これで、誰も私と同じものにはならないのだな」
「少なくとも、今ここでは」
俺が答えると、彼はゆっくり目を閉じた。
安堵したのは、ほんの数呼吸だった。
閉じていた石扉が外側から持ち上がった。
石の擦れる音とともに、光が通路へ差し込む。現れたのは王宮警備兵だった。十人、二十人。磨かれた兜が並び、槍先が一斉に俺へ向く。
助けに来た者へ向けるには、ずいぶん尖った歓迎だった。
列の中央から、寝間着の上に外套だけを羽織った老王が進み出た。額には、巨兵に運ばれた際についたらしい絨毯の房が貼りついている。
威厳と房飾りは、残念ながら相性が悪い。
老王はそれを乱暴に払い、俺を指差した。
「建国術式を起動し、王族十二名を襲わせた容疑により――ノエル・アルクムを拘束せよ」
救った相手に捕まるとは、人生の校正はなかなか難しい。
(第61話へ続く)




