王になるより、俺でいたい
王になった感想を述べよう。
手首が熱い。鐘がうるさい。床が勝手に光る。
そして何より、本人の同意がない。
石室を震わせる七つの鐘は、祝福というより巨大な鍋を頭からかぶせて叩かれているようだった。石壁からこぼれた灰が音のたびに舞い上がり、喉の奥へ苦く貼り付く。床を走る銀光は眩しすぎて、目を細めても古代文字の残像が視界に焼き付いた。
「即位というのは、もう少し椅子や冠を用意してからするものではないのか」
「不満はそこか?」
リゼが涙の跡を残したまま剣を拾った。再会から一息も経っていないのに、もう騎士の顔へ戻っている。
もっとも、赤くなった目元までは隠せていない。剣の柄を握る手にも、父を失わずに済んだ安堵がわずかに残っていた。そこを指摘すれば斬られそうなので、俺は賢明にも別の不満を口にした。
「最大の不満は、俺を選んだことだ。国の人選能力に深刻な欠陥がある」
「それは否定しにくいのら」
「相棒なら少しは迷え」
ピピが俺の肩で鼻をすすった。感動漏れの青いインクが襟に染みている。古びた布と石室の埃、それに獣化したリゼの毛皮から漂う雨に濡れた獣のような匂いが混じり、ひどく現実的な戴冠式だった。
暫定王の最初の衣装がインク染みの古外套とは、民に親しみやすい王で結構なことだ。
もちろん、親しんでもらう予定はない。
手首の文字から銀の線が伸び、床の国土図へ繋がっていた。細いくせに、引けば肉の内側まで一緒に持っていかれそうな力がある。脈を打つたび、俺の指先から何かが抜けていく。
魔力ではない。そんな便利なものは最初から一滴も持っていない。
抜かれているのは、名だ。
「ノエル」
リゼが俺の腕を掴む。爪を収めた手は熱く、わずかに震えていた。
「薄くなっている」
「顔なら元から地味だ」
「冗談を言っている場合か。お前の名前だ」
床に浮かぶ『ノエル・アルクム』の文字が濃くなる一方で、手首の刻印は輪郭を失い始めていた。
自分の名が目の前にあるのに、それを自分のものと思えなくなる。奇妙な感覚だった。舌の上で「ノエル」と転がしても、知らない誰かを呼んでいるように響く。
王名保管庫からまだ返されていなかった俺の名。それが今、国土術式の中央へ移されている。
王になるというより、国の部品にされているらしい。
身分の上がり方が雑すぎる。写本係から追い出された男が、次の就職先で国土に埋め込まれるとは、職業紹介所でも思いつかない。
『暫定王名の定着を開始』
床から銀の鎖が噴き出した。
空気を裂く鋭い音。リゼが俺を引き倒す。直前まで首のあった場所を鎖が薙ぎ、石棺の角を砕いた。石片が頬をかすめ、遅れて冷たい痛みが走る。
「危険な冠だな!」
「戴冠式とは首を狙うものだったか?」
リゼの父が外れた肩をかばいながら、落ちていた剣を蹴り上げた。右手だけで受け取り、迫る鎖を叩き落とす。金属同士がぶつかったような火花と音が石室を満たした。
十五年石棺に保存されていた人間の動きではない。フォグレス家では、親子の会話より先に剣の稽古をするのだろう。家庭環境については深く聞かないでおく。
「王名を国土へ縫い付ける鎖だ」
俺は床を這いながら文字列を追った。銀光が目の奥を刺す。文字を読むことだけが俺にできることだ。剣も振れず、光の一つも撃てない以上、ここで読み違えれば、ただ床掃除をしただけの王として歴史に残る。
『王体を喪失』
『第一校正者を暫定王名へ登録』
『王名を国土の全命令に優先して使用』
「優先して使用、だと?」
意味がわかった途端、背筋が冷えた。
これは王に権力を与える文ではない。
国中の術式が命令を実行できなくなったとき、王の名を欠落部へ流し込む仕組みだ。井戸も、鐘も、城壁も、街道も、最後には人を守る術式さえ、俺の名を代替の一語として使う。
一文字ずつ削られ、すり潰され、足りなくなった場所へ詰められる。どこかの井戸が水を汲み上げるたびに俺の一部が消え、城壁が誰かを守るたびに、俺が誰だったかが薄くなる。
名がすり減れば、俺は俺でなくなる。
国は動き続ける。
空になった人間を中央へ吊るしたまま。
「建国王も、同じだったのか」
リゼの父が鎖を剣へ巻き付け、石柱へ叩きつけた。声には怒りより、長く探していた答えをようやく見つけた者の重さがあった。
「たぶんな。王は国を使う者じゃない。国に使い潰される最後の補材だ」
建国王の灰が、答えるように床を流れた。
国のために王が死ぬ。物語にすれば立派だ。銅像も建つし、祭りの日には子供が花を供える。歌にすれば、終わりの一節で皆が泣けるだろう。
だが、書いてある意味はもっと簡単だった。
壊れた道具が、人間を燃料にして動き続ける。
それだけだ。
『定着まで、残り九十』
銀の文字が減り始めた。
「数えているのら!」
「見ればわかる」
「八十九になったのら!」
「律儀に報告するな!」
「王には正確な報告が必要なのら!」
「もう退位したい!」
鎖が四方から迫る。リゼが剣を振るい、二本を弾いた。三本目を爪で掴み、銀の獣毛を逆立てて引きちぎる。焦げた金属に似た臭いが立ち、彼女の掌から白い煙が上がった。
だが、切れた鎖は床の文字へ戻り、すぐ別の場所から伸びてくる。
「ノエル、どこを直す!」
「登録の命令だ!」
問題の一文は国土図の中央、建国王の石棺があった場所に浮かんでいる。
距離は十歩。
王になるには近いが、写本係が触りに行くには遠い。
「道を作る!」
リゼが俺の前へ出た。
父親も並ぶ。
「左は俺が引き受ける」
「その肩で?」
「十五年休んだ。働かせろ」
「あとで伯父上に三発殴られても知らないぞ」
「増えていないか?」
「今ので一発増えた」
一瞬だけ、リゼの口元が緩んだ。父親も笑った。十五年ぶんの親子の会話としては物騒だが、二人にはこれでいいのだろう。
親子は同時に踏み込んだ。
リゼの剣が右から来る鎖を跳ね上げる。父親の剣が左の鎖を床へ縫い止めた。獣の膂力と、長い眠りから醒めたばかりとは思えない剣技が、銀の壁を左右へ押し開く。
中央が開く。
俺は走った。
いや、正確には前のめりに転び続けた。剣士なら格好よく駆け抜ける場面だが、元写本係に期待してはいけない。紙の束を抱えて廊下を急ぐ程度が、俺の運動能力の頂点である。
肺がすぐに悲鳴を上げ、靴底が灰で滑る。背後では剣戟が響き、肩のピピが「七十、六十九」と頼んでもいない数を耳元で叫んでいた。
『残り四十一』
足首へ鎖が巻き付いた。
冷たい輪が肉へ食い込み、骨まで締め上げる。引かれ、顎から床へ落ちる。歯が鳴った。口の中に鉄の味が広がる。
「ノエル!」
リゼが鎖を斬る。しかし次の一本が俺の右手首を締め上げた。指が痺れ、爪が石床を引っかく。
床の文まで、指一本ぶん届かない。
この距離には見覚えがある。
助けを求める者へ、知識へ、真実へ。国というものは、いつも最後に指一本ぶんだけ人を足りなくさせる。そして届かなかった側の努力が足りなかったことにして、何事もなく朝を迎える。
「ピピ!」
「はいのら!」
小さな残響が俺の腕を走った。肩から肘へ、肘から手の甲へ。インクの足跡を残しながら指先まで辿り着き、床へ飛ぶ。
だが、ピピ自身に文字を書き換える力はない。
その体は文字でできている。
「踏むのら!」
「潰れるぞ!」
「ピピは繰り返す者なのら! 一回くらい潰れても、たぶん繰り返すのら!」
「たぶんで命を張るな!」
「ノエルも張っているのら!」
言い返せなかった。こんなときだけ正論を使う相棒は卑怯だ。
それでもピピは、俺の指と床の間に寝転がった。小さな手足を広げ、震えながらも逃げなかった。
柔らかな文字の体を踏み台にして、指先が命令文へ届く。
『残り十二』
直すべき語は『王』ではない。
王を別の役目へ変えても、俺の名が国へ渡ることは変わらない。
『暫定』でもない。期限を変えたところで、食われる時期が延びるだけだ。
古代の術式は長く、冷たく、融通が利かない。だからこそ、一語だけで流れを反転させる場所が必ずある。俺には大きな力などない。書き換えられるのは、たった一語だけだ。
だから、『登録』を変える。
国のものにする命令を。
本人のものへ戻す命令へ。
爪が割れるほど床へ押し付け、銀の一語をなぞった。指先に石のざらつきとピピの体温が重なる。血が文字の溝へ滲んだ。
「登録するな――返却しろ!」
古代文字が反転した。
『第一校正者を暫定王名へ返却』
俺の手首から伸びていた銀線が弾けた。
床へ移りかけていた名が、光の奔流となって腕へ逆流する。骨の内側を熱い針で縫われるような痛みに、息が止まった。忘れかけていた自分の名が、一文字ずつ肉へ打ち込まれていく。
それでも手は離さなかった。
これは俺の名だ。
国にも、教会にも、祖父にも、勝手な用途を決めさせない。
立派でなくていい。誰かに讃えられなくていい。役に立たないと追い出されても、無能だと笑われても、名まで差し出す理由にはならない。
王になるより、俺でいたい。
手首へ『ノエル・アルクム』の文字が戻り、今度は皮膚の下へ静かに沈んだ。
銀の鎖が一斉に砕ける。
七つの鐘も止まった。
急に訪れた静寂の中、自分の荒い呼吸だけがやけに大きく聞こえた。砕けた銀光が雪のように降り、石床へ触れる前に消えていく。
床に突っ伏した俺の指の下で、ピピが薄く伸びていた。
「ピピ!」
「ふ、踏み心地は……どうだったのら」
「最悪だ。二度とするな」
「では、インク三滴で手を打つのら」
「五滴やる」
ピピはむくりと起き上がった。文字の頭が少し平らだが、食欲があるなら大丈夫だろう。青い体から紙と新しいインクの匂いがして、俺はようやく息を吐いた。
リゼが俺の襟を掴んで引き起こした。加減を忘れた力で首が締まったが、文句は飲み込んだ。彼女の耳が伏せられ、金色の目がまた濡れていたからだ。
「戻ったのか」
「ああ。王ではなく、無職のノエル・アルクムに戻った」
「第一校正者だろう」
「給金の出ない肩書きは無職と同じだ」
彼女は俺の手首を両手で包んだ。名があることを確かめるように、親指で皮膚をなぞる。硬い剣だこと、鋭い爪、そのどちらとも違う慎重な触れ方だった。
「おかえり、ノエル」
「どこにも行っていない」
「行きかけた」
「……ただいま」
それで、俺の望まない戴冠式は終わった。
国は俺を王にできなかった。
ならば、正しい王を探す。
そう考えた途端、足元で低い駆動音がした。休ませる気はないらしい。古代文明の遺産は、人間の都合を待たないという点だけは、現在の役所とよく似ている。
床の国土図が再び明滅し、王都中央の王宮を囲んだ。現在そこに住む王族たちの名が、一人ずつ浮かび上がる。
国王、王妃、二人の王子、三人の王女。そして傍系五名。
十二の名を銀光が順に読み取った。
石室の誰も口を開かなかった。名が一つ検められるたび、短い明滅が走る。そのたびに、胸の底へ冷たい石が一つずつ積まれていった。
判定は、すべて同じだった。
『建国血統との一致、なし』
王宮にいる十二人の王族は、一人も王家の血を引いていなかった。
(第59話へ続く)




