十五年ぶんのただいま
リゼの手から落ちた剣が、石床を三度跳ねた。
甲高い音が広間を駆け、縦穴の奥へ吸い込まれていく。
父親のほうは、縦穴の縁に両手をかけたまま動かない。擦り切れた指先から血がにじみ、銀色の壁に赤い筋を引いていた。
十五年ぶんの再会とは、もっと劇的なものだと思っていた。抱き合うとか、泣くとか、互いの名を叫ぶとか。
実際に起きたのは、親子そろって固まることだった。
血筋というものは、妙なところで似るらしい。
「リゼ」
男がもう一度、娘の名を呼んだ。
掠れてはいたが、迷いのない声だった。
その声でリゼの肩が震えた。獣化した耳がぴくりと立ち、次いで、怯えるように伏せられる。
「……本物、なのか」
「できればそうでありたい。十五年かけて穴を登った挙げ句、偽物扱いでは報われん」
口調まで親子だった。
俺が少し安心した、そのときだ。
縦穴の内壁に赤い文字が走った。
『棄却対象の停滞を検知』
『棄却処理を再開』
男の身体が沈んだ。
爪が銀の縁を引っ掻き、耳障りな音を立てる。
「父上!」
リゼが床へ滑り込み、男の右腕を掴む。だが下から引く力は強い。彼女の爪が石床を削り、獣化した腕の毛が逆立った。
男の肩が縁へぶつかる。外套の布が裂け、その下に、古い傷と新しい傷が幾重にも重なっているのが見えた。
十五年ぶりに会った父親を、王墓は十五秒で返却させる気らしい。役所仕事というものは、千年前から融通が利かない。
「ピピ、インク!」
「父上をお持ち帰りするのら!」
ピピが俺の肩から飛び降りた。小さな身体を作る青い文字がほどけ、俺の指へまとわりつく。冷たいはずの文字が、今は妙に熱かった。
俺は腹ばいになって縦穴を覗いた。
下から吹き上がる空気は、乾いているのに生臭い。銀色の内壁を巡る命令文は速い。男を底へ戻すたび、文字列も元の位置へ戻る構造だ。消せない。止めても戻る。恒久的に直す時間もない。
いつものことである。
俺の人生には、だいたい時間と魔力と立場がない。ついでに腕力もないので、頼れるものは指一本と悪あがきだけだ。
「あと少し耐えろ!」
「誰に言っている!」
「腕が抜けそうな父親と、娘のほう!」
「範囲が広い!」
怒鳴り返す余裕があるなら、リゼはまだもつ。
とはいえ、石床へ食い込んだ彼女の爪は、一本ずつ浅くなっている。余裕など、俺が勝手にそう呼んでいるだけだった。
俺は内壁へ腕を突っ込んだ。銀の光が皮膚を焼く。歯の奥まで響く痛みを噛み殺し、流れてくる文字へ指を押しつけ、目的地を示す一語を探す。
『棄却者を底へ戻せ』
底。
この王墓は、人間を穴へ捨てるくせに、捨てたあとまで律儀に管理している。
だったら管理先を変えてやればいい。
俺には大層な奇跡は起こせない。できるのは、古代の命令に紛れ込み、一語だけ行き先を間違えさせることだ。
赤い文字が指の下へ来た瞬間、青いインクを叩き込む。
『棄却者を縁へ戻せ』
縦穴が轟いた。
引きずり込む力が反転する。
男の身体が穴から勢いよく飛び出し、リゼを押し倒した。ついでに後ろにいた俺も巻き込まれた。
後頭部が石床へ当たり、視界に星が散る。その上へ鎧と外套と、十五年ぶんの執念が降ってきた。
親子二人の下敷きになる。
魔力ゼロの写本係に求められる身体能力としては、いささか過酷ではなかろうか。
「重い……」
「すまない」
「父上に言ったのではない!」
リゼが俺を睨んだ。
十五年ぶりの父親より先に、俺へ怒る元気を取り戻したらしい。結構なことである。俺の肺には結構ではないが。
男は起き上がろうとして、肘をついたまま崩れた。
リゼがその身体を抱き止める。
古びた革と汗、血、それに銀の焦げた匂いが混じった。リゼの濡れた獣毛と革鎧の匂いが重なる。石と灰しかなかった王墓に、急に生きた人間の匂いが満ちた。
「怪我を見せろ」
リゼの声が騎士のものに戻る。そうでもしなければ、震えを隠せないのだろう。
「指先が少し削れただけだ」
「爪が三枚ない。左肩も外れている。少しではない」
「お前も昔、膝を擦りむいて骨が出ていないから無傷だと言った」
「七歳の話をするな」
「俺にとっては、つい昨日だ」
その一言で、リゼの手が止まった。
男は娘の顔を見上げた。十五年を数えた目が、十五年を生きた娘を確かめるように細められる。
「下では、腹も減らず、眠っても目覚めれば同じ場所だった。墓が棄却したものを壊さぬよう、保存していたらしい。上の鐘だけが、一日ごとに聞こえた」
「では、十五年を……」
「数えた。五千日を越えたあたりで、正確な数は諦めたがな」
冗談めかした声だったが、その日々を想像すると、縦穴の底より胸の内のほうが暗くなった。
男は自分の胸元に触れた。そこには指輪を通していた白い跡だけがある。
「王体へ変えられる直前、あの指輪を命令文の継ぎ目へ挟んだ。処理は止まったが、俺は棄却路へ落とされた。登れば落とされ、登れば落とされた」
爪が剥がれても、肩が外れても。同じ銀の壁へ手をかけ、同じ高さを登り、同じ命令に底へ戻されたのだ。
「なぜ、登り続けた」
リゼの問いに、男は不思議そうな顔をした。
「娘が待っているからだ」
今度こそ、リゼは何も言えなくなった。
強い女だ。
剣を振れば騎士を三人まとめて壁へ送る。獣化すれば銀の爪で術式すら引き裂く。俺が死にかけるたび、命を預けろと言って前に立つ。
その彼女が、父親の外套を握ったまま震えていた。噛み締めた牙の隙間から、細い息が漏れている。
「私は……待てなかった」
絞り出すような声だった。
「墓で死んだと決めた。父上の指輪を持って、仇を取ることばかり考えた。顔も、声も、忘れかけていた」
「それでいい」
「よくない!」
叫びが広間に響いた。
「忘れたくなかった。帰ってくるかもしれないと、信じていたかった。だが十五年だ。私は……」
「リゼ」
男の左手が上がった。
擦り切れた指が、娘の髪に触れる。銀の獣毛が混じる髪を、子供の寝癖でも直すように撫でた。
「待つために十五年を使わせたのは、俺だ。お前の罪ではない」
リゼは唇を噛んだ。
「父上は、私がこうなった理由を知らない」
「狼の耳なら見えている」
「耳だけではない」
「爪も便利そうだ」
「便利で済ませるな」
「では、格好いい」
リゼの喉から、泣き声とも笑い声ともつかない音が漏れた。
男は娘の背へ腕を回した。外れた肩をかばう、不格好な抱擁だった。
「ただいま、リゼ」
その言葉を聞いた途端、彼女の獣化した腕から力が抜けた。
銀の毛が少しずつ肌へ沈み、爪が人の指へ戻っていく。それでも父親の外套だけは離さなかった。
「……遅い」
「ああ」
「遅すぎる」
「すまなかった」
「おかえりなさい、父上」
十五年分の返事は、それだけだった。
俺は顔を背けた。
他人の再会を覗く趣味はない。まして、少し目に灰が入った程度で泣いたと誤解されては、元写本係の冷静な評判に傷がつく。そんな評判が存在した記憶はないが。
「ノエル、鼻が赤いのら」
「王墓の空気が悪い」
「ピピも泣いているのら」
「お前はインクが漏れているだけだ」
「感動漏れなのら」
ピピは青い雫を垂らしながら、父親の肩へ飛び乗った。
「リゼの父上、インクを舐めるのら?」
「いきなり食事へ誘うな」
「娘の友人は変わっているな」
「片方は食い意地の張った文字で、片方は魔力のない無鉄砲だ」
リゼが涙を拭いもせず答える。
「二人とも、私をここまで連れてきてくれた」
男は俺へ向き直った。疲労に曇った目が、それでも騎士らしく真っ直ぐ俺を捉える。
「礼を言う。娘を守ってくれた」
「逆だ。俺は守られてばかりだ」
「では、娘に守るべき相手をくれたことに礼を言う」
「父上」
低い声が飛んだ。
俺は再び縦穴へ落ちたくなった。あそこなら保存までしてくれる。父親から娘をどう思っていると問われるより、多少は過ごしやすいだろう。
「帰ったら、兄上にも謝らねばならんな」
「伯父上は殴るぞ」
「だろうな」
「たぶん二発だ」
「一発で済むよう口添えしてくれ」
「十五年分だから無理だ」
親子の会話が、ようやく同じ時間を歩き始める。
失われた年月は戻らない。それでも、これから交わす言葉の置き場だけは残っている。
だが、王墓はそれを長く許さなかった。
石棺の灰が突然、真上へ舞い上がった。
風はない。にもかかわらず灰は一本の柱となって天井へ昇り、広間の銀光を濁らせた。
床一面に銀の線が走る。王墓だけではない。王都の街路、鐘楼、城壁、さらに遠く離れた河川と街道までを描いた巨大な国土図が、俺たちの足元へ広がった。
細い光の脈が国土を巡り、七つの鐘楼へ集まっていく。
その中央で、建国王を示す文字が消える。
直後、地上から鐘が鳴った。
一つではない。
王都の七つの鐘すべてが、同時に喪失を告げていた。
腹の底を揺らす鐘声が重なり、石棺の灰が震える。リゼと父親が同時に顔を上げた。
足元の国土術式に、新しい一文が刻まれる。
『王体を喪失』
『第一校正者を暫定王名へ登録』
嫌な予感というものは、だいたい当たる。良い予感は道に迷うくせに、こちらは最短距離でやって来る。
俺の左手首が焼けた。
皮膚の下から浮かび上がったのは、見間違えようのない俺自身の名だった。
『暫定王――ノエル・アルクム』
(第58話へ続く)




